自分をなくして、個性を得る
こうして日々書いているエッセイだけれど、ここ数ヶ月、けっこう細かくデータをとっている。
投稿後、24時間で得られる「スキ」の数。投稿してから一週間で伸びた「スキ」の数。一週間後の、各記事のPV数。そのPV数から割り出される、「スキ」の割合。
いまのところでいうと、エッセイを投稿してから24時間でだいたい68前後のスキがつく。だが、一週間たっても、これが平均78ぐらいしか伸びない。だから、毎日このnoteを見にきてくれている人がいて(おそらくは日課にしている人がいて)、スキをつけてくれているものだと推察される。
PV数も、バラツキはあるものの、だいたい各記事1200前後でまとまっている。編集部におすすめされたりすると軽くバズるので数千に達することもあるが、平均するとそんな感じだ。
読者から見えるのは「スキ」の数だけだけれど、PV数との相関関係(スキをしてもらえる比率)もけっこう細かく追っている。
「スキ」がたくさんついているからといって、たくさん読まれているとは限らない。たとえば、先日書いた「また、小説を書き始めた」というエントリは、90以上もスキがついているにもかかわらず、PV数は平均値である1200ぐらいしかない。
要するに、かなり個人的な記事なので、普段からこのnoteの読者だという人はスキするけれども、初見の人にとって興味深い記事ではないので、あまり読まれないのだろう。
逆に、「自分より優秀な人の操縦方法」というエントリは、1800PVぐらいあるのだが、これは初見の人でも読まれやすいような記事にしたので、それなりに読まれている。とりあえず、狙ったとおりになる部分もあれば、そうならないところもあるので、データを追うとなかなか面白い。
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「自分の書きたいこと」と、「一般に受け入れられること」のギャップに悩む書き手は多い。小説の世界でもそうだし、エッセイの世界でもそうだ。
でも、僕はこうしてデータを細かくとることによって、単純に、「支持されている記事が良い記事だ」と考えるようにしている。
まず大前提として、自分の書きたくないことは書かない。ごく例外的に、友人のビジネスのステマ記事を書いたことがあるが、了承を得て、タイトルに「ステマ記事」と明記しておいた(だから、実質的にステマではない)。
僕の書く記事は、すべて「僕が書きたい記事」であり、それは徹底しているといえる。
書きたいものがすべて支持されるとは限らない。でも、支持されているものと支持されていないものがあることは確かだ。
であれば、「書きたい」かつ、「支持される」ものを書けばいいのではないだろうか。最大公約数を探す。そこに活路があるのでは、と思うのだ。
クリエイターとして、「大衆の求めるものに迎合してはならない」というのをよく聞く。
たとえば、クリエイターがもっともやってはいけない愚行として、「読者に何を読みたいかを訊く」というものがある。クリエイターとしてそれはあるまじきことだ、というのである。
僕はこれは完全に同意だ。読者は、「読んだことがないものが読みたい」のだ。だから、読者に訊くのは完全に違う、といえる。誰も書いたことがないことを考えるのがクリエイターの仕事だ。
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クリエイターとしての理想のスタンスはこうだ。「自分が面白いと思えるもの」を、いろんな角度から、いろんな手法で、とりあえず発表してみる。それを評価してもらって、「いい」とされるものを「いい」とするべきだ、と思う。
たぶん、仕事では日常的にやっていることだと思う。「何かいい案を出せ」と上司に命じられて、一生懸命頭をひねって、A、B、Cの案をまとめる。それぞれの案のメリットやリスクについてプレゼンする。
それを見て、「じゃあ、Aでいこう」と上司が決め、全員で合意する。こういうことは、日常的にやっているはずだ。それと同じこと。
「支持されたものがいいもの」だとすると、個性がなくなるのでは、とおそれる人がいる。
僕は、逆だと思う。
個性的だから支持されるのだ。
他の人と同じようなもの、二番煎じであれば、きっと支持はされないだろう。
もし船が難破して、無人島に流れ着いたとする。船に乗っていたのは10人。それぞれが得意な分野を生かして、生活することになる。
僕はとりあえず手先が器用なので、釣り針をつくって、釣竿をみんなに提供する。すると、「手先が器用な人」だと周囲に認知されて、船の修理とか、どんどんそういった役割がまわってくる。
次第に、本当に唯一無二の存在となる。僕の考える「個性」とは、そういうものだ。
自分をなくし、こだわりをなくし、「個性」を得る。
そうやって進んでいきたいですねえ。
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