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ゲーム遠景への憧憬をたどる
遠くに見えているあの場所に行ってみたい。
ふと窓から外の景色を眺めて、そんな気持ちで散歩に出てみることがある。
そういえば昔もこんな気持ちで、身近な場所で探究心を突き動かされていたものである。
川べりの「入らないでください」の看板の先、背より高い大きなツツジの内側、フェンスとフェンスの間の小さな隙間、いつも遊んでいる公民館のいつも暗い上の階、親戚の家の開けたことのない扉。
そして、幼少期に遊んだゲームで遠くに見えているあの場所。
私の中でくすぐられる探究心の質感はどれも同じようなものではあったが、ただ最後の一つだけは「絶対にそこに行くことはできない」ということは子どもながらわかっていた。それでも何度も繰り返し挑んだことはよく覚えている。
とくに上記の観点で思い出してみると、私の印象に残るゲームが2つある。それが
Nintendo64『ピカチュウげんきでちゅう』 (1998 Ambrella, 1995, 1996, 1998, Nintendo/Creatures inc./GAME FREAK inc.)
Play Station2『ガラクタ名作劇場 ラクガキ王国』 (2002 TAITO, Garakuta Studio)
である。
これもふとした思いつきなのだが、今回は主に前者に絞って ゲームの中の風景をもう一回たどってみよう という内容の記事にしようと思う。
どちらのゲームも知らないよという方でも安心いただきたい。今回は「景色を見る」内容になるので、ゲームの内容については少し軽めの紹介とさせていただきつつ、気軽に進んでいければと思う。
そして記事はおそらくそんなに長くはならないと思う。
(書きながら考えて書くので断言ができなくてすみません。)
補足
なんなら動画でやったほうが分かりやすいのではと思ったものの、キャプチャボードとOBSの設定が全然うまくいかなかったので、無謀ながら記事の形で書いてみることにした。
そして後者の作品についても、ぜひ「ガラクタ名作劇場 ラクガキ王国 景色」などで検索してみてほしい。 とくにごちゃっとした市場の町並みがすばらしく好奇心をそそる。 余談だが、自分の描いたラクガキで戦う独特のゲームシステムや、スタジオジブリの手掛けるアニメーション、設定やシナリオ等、総合的に見ても非常に良い作品ではあるので、興味を持っていただけたら嬉しく思う。
『ピカチュウげんきでちゅう』について
『ピカチュウげんきでちゅう』は、1999年12月に発売されたNintendo64向けソフトである。やや画質が低いのはご容赦いただきたい。
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世界観としては『ポケットモンスター』に載ったもので、この時代のゲームながら専用のマイクを通してゲーム内のピカチュウとおしゃべりができるという大きな特徴がある。(今まで知らなかったが、世界初の音声認識ソフトであるらしい!)
ゲーム自体の内容としては、ある日とつぜん野生のピカチュウとともに過ごすことになった主人公が、ピカチュウと一緒に、多様なポケモンたちが穏やかに暮らす海岸や森や草原などを散策するというゆったり系のゲームであり、『ポケットモンスター』本編にあるバトル要素は無い。
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まず、このゲームは一人称視点(いわゆるFPS)で、プレイヤーはピカチュウとともに過ごす主人公を動かすことになる。
そういえば最初に挙げた『ラクガキ王国』も一人称視点で、それも『ピカチュウげんきでちゅう』と同じように、手も足も顔も声もまったくゲーム内には表現されない、完全に「自分と重ねる」タイプの見え方の作品だ。もしかするとこの要素も印象に関係があるのかもしれない。
さあ、ではさっそくゲームの世界の中を歩いてみよう。
散策は家の中から始まっている
朝、自分の部屋でピカチュウと一緒に目覚めるところから一日は始まる。
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そしてこの自室の窓や玄関を通って外への行き先を自由に選ぶことで、先程挙げたような様々な場所へお出かけすることができるのだが、すでにこの窓から素敵な眺めが見られる。
窓から見える遠くの景色。画質があまり良くないが、豊かな自然と畑のような人の営みも感じられるのどかな風景だ。
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さあ、今度は庭に出てもっと様々な風景を見てみよう!
庭は全ロマンの出発点
庭に出ると、先程の窓から見えていた風景が柵の向こう側一面に広がっている。
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さわやかな朝の風まで感じられそうな心地のよい庭だ。
── 私自身、幼少期は家族で一軒家に住んでおり、その家の庭は多様な木々や野草に溢れつつ遠くの街まで見渡せる眺望の良さを誇っていた。今思うと決して広いとは言えないと思うのだが、まだ身体の小さい私にとってその庭は、毎日朝から晩までずっと過ごせるほど、不思議の詰まったワンダーランドだった。
雨の降った日は、おおきな紫陽花の裏に入るとたくさんのツマグロオオヨコバイが葉の裏側に着いているのを見つけて、「雨の時にも虫は近くにいるんだな」と思ったりした。
アリの巣は目で見えているよりもずっと大きくて深いことも、ヤマトシジミがクローバーの裏に小さな卵を生むのも、シロアリにあんなに食べられたモミジでも綺麗に紅葉し、くるくると回りながら落ちる種をつくるのも、ぜんぶ庭で見つけた。
公園は庭の延長だった。庭とはぜんぜん違った生き物がいて、違った風景が広がっていて、違った発見がたくさん広がっていた。
そういえばこの『ピカチュウげんきでちゅう』の庭でも、ここだけで何時間も遊んでいたことがよくあった。
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遠景に目を向ける前につい近景の話ばかりしてしまったのだが、こうして過去の経験を重ねて思い返してみると、実は身近な世界の中で密度の高い探求があったからこそ、それが次第に少しずつ広がっていき、遠景を眼差すようになっていったのかもしれないなと思った。
さて、ではそろそろ庭の外にも目を向けてみよう。
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あえて扉の方ではなく、柵の隙間から外側を眺めてみる。
比較的近くに目を向けると、柵の向こう側は草に阻まれていてあまり見通すことができない。しかし角度を変えると、向こうに見えなかった丘の麓などもちらっと見えてきた。
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あ〜〜〜〜〜〜〜!
これこれ、この感じ!!!
ゲームのシステムという制約上、この低木の先には絶対に行くことができないのだが、しかしその場所は「作られてはいる」というこの感覚。
これだ、この感じだ。
この右側に見えてる、奥まで続く低い段差。身体を平たく壁に沿わせてこの段差の上を歩きたい。なんてウズウズするスポットなんだ!
…と、今ここまでウズウズしながら「行った先に自分は何を期待しているのか」と自問自答してみた。
するとどうやら自分は、行った先で見える景色自体には何かを期待していないのかもしれないと思った。
なんとなくしっくりくる言葉を探してみると「何があるかとかは置いといて、そこにあるのに行けない状態自体がくすぐったい」という感じだと思う。"知らない"ということを知っている対象がそこにあるのなら触れておきたい、みたいな。
多分そんな感じだ。
庭までだけでかなり多くの文字数を費やしてしまった。
しかし、庭は「遠景への出発点」であることを考えると、その前段として、遠景に対して寄せる感情の源泉をここで丁寧に確認しておくことは大事なことかもしれない。
海へ行ってみよう
正直、森とか沼地とか草原とかも歩こうと思っていたのだが、案外自分が長々と語るものだなと感じ始めたので、特に「遠景ロマン」要素多めの海に重点を置いて散策してみることに今決めた。
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エメラルドグリーンの海と白い砂浜、真っ青な空と白い雲!
ここは島のような感じになっていて、ピカチュウと一緒にお宝探しができるというもうそれだけでだいぶ冒険心を掻き立てられる場所である。
しかし今回はお宝もぼちぼち発掘しつつ、その風景に注目してみようと思う。
ここは他のフィールドと比べて壁や障害物が比較的少なめで、開放感に溢れた場所である。
ただその代わり、海に立ち入ることはできないようになっている。システム的には海が壁のような役割をしていて、歩き回れるのは砂浜の範囲内ということだ。
さて、上の浜辺の画像を見て、何かが向こうの空に浮いているのがわかるだろうか? 近づいて見てみよう。
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なんと、空に浮かんでいるように見えたのは「ヤシの実」と「バナナ」だった!
木の本体と陸地は近づいてみないと見えてこないが、ヤシの実とバナナは遠くからでも見えるものだったらしい。
遠くにある海や雲が見えているのに、それよりも手前にあるものが見えないということに対して、改めて自然界をベースに考えてみると相当変なことではあるが、どちらかというと、ゲームを遊んでいるときはそんなことは全く気にもとめずに「そういうもの」と思って受け入れていたことのほうが不思議かもしれない。
理屈で考えれば、ヤシの実とバナナは「アイテム」として利用できるからレンダリングのタイミングが違うんだとかいう考え方ができるが、そんなことは置いといて、この世界での景色の見え方は「そういうもの」なのだ。
さあ、次のスポットへ案内しよう。
先程、「海に立ち入ることはできない」と言った。
しかし実は海に向かってアイテムは投げ入れることができる。
試しに、砂浜に落ちている謎のイガグリを海に投げてみよう。
(ピカチュウが遠くで宝箱を発見してるけど気にしないでほしい)
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イガグリはニョロモたちに弄ばれて沖の向こうへ消えていった。
そう。
このゲームは、こういった「やってみたらなんかあるかも」に想像以上の反応をしてくれるのだ。
しかも別にゲーム内のどこにも「これをやったらこうなる」というヒントは無い。 私はこのゲームのこういうところがすごく好きなのである。
「人間が立ち入ってはいけない世界」という遠景
海にはニョロモ以外にもポケモンがいる。
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ヤドンだ。
ヤドンの周りにはひまわりが2本咲いている。とても穏やか。
比較的近くにはいるのだが、海に立ち入ることはできず、一定以上近づくことはできない。
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このように、このゲームの中ではポケモンが向こうから人間に立ち向かってくることなどはないが、基本的に人間が近づくと逃げてしまったり、立ち入れない位置にいることが多い。
そしてゲーム内で助言をくれる博士の言葉なども、安易にお互いの大切な領域に立ち入らないようにというさりげない距離感の尊重があり、それは随所で一貫しているような気もしている。
「立ち入れない場所」へのロマンという意味では、この「人間が立ち入ってはいけない領域」という隔たりも一つの大きな印象になっているのは間違いないだろう。
さあ、もう少し海で遊べる時間があるので、散策を続けよう。
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最初に遠目に見えていたバナナの近くまでやってきた。
実はこのピカチュウが立っている緑の部分も、自分は立ち入ることができない場所になっている。 このようにピカチュウにしか入れない場所が数多くあるため、その中にあるものはピカチュウにとってきてもらうことになるのだ。
ピカチュウ、バナナとって!
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機嫌よく歌いながらおもむろにどこかへ行ってしまった。
楽しそうで何よりである!
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さて、ちょっと別日に他の場所へも足を伸ばしてみたのだが、その場面も見ながらさきほどの「ポケモンと人との距離感」にフォーカスして、さらに風景を見てみよう。
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「アカネのもり」で、フシギダネが主催する「もりのおしょくじかい」にやってきた。そしてピカチュウは料理の準備を手伝うために、森の中に食材を探しにいくことになった。
上記はムービーシーンのため、プレイヤー任意で動かすことができないのだが、ここで手前に藪が見えていることに注目してほしい。
そう、主人公はポケモンたちに干渉しないようにこっそりと陰からその様子を見守っているのだ。
フシギダネとの会話を終えると、ピカチュウは真っ先に奥の抜け道の先にいる(と思っている)主人公の元へ走っていく。次のシーンでは、主人公はもとの位置に戻っていて、どうやらこっそり見ていたことはピカチュウにも気づかれてはいないようだ。
ピカチュウは主人公に「ピカ!」といって「準備できたよ!行こ!」というような合図をして森の奥へと走っていく。
今まではフシギダネのレシピを覚えることだけに集中してて何も考えてなかったけど、なぜ見守る必要があるのかとか色々考え出したらめっちゃ泣ける…。
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この日の森ではその他にもイベントがあった。
これまた人間が立ち入れないほら穴の奥から、ピカチュウがなにやらこちらを呼んでいるのだ。
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どうやらほら穴の奥で、なにかのポケモンのたまごを見つけたようだ。
ピカチュウがたまごを高く掲げて掛け声をすると、テレポートでケーシィがどこからともなくやってきて、なにやら会話をしてからピカチュウからたまごを預かって消えていった。
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外の世界と自分とを隔てるもの
こういった、ピカチュウとほかのポケモン同士でのやりとりを見る場面が多々あるのだが、やはりそこに人間が干渉することは基本的には無い。というか多分一度もない。
しかし他のポケモンとのやりとりを楽しみながらも、同様に主人公とのコミュニケーションも楽しんでいて、お互いの信頼関係の深さが感じられる。
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このゲームを遊んだことのある方はご存知かもしれないが、野生のピカチュウとは最初からすぐに仲良くなれるわけでもないし、いつも愛想よくしてくれるわけでもない。
全然話を聞かないときもあるし、わざと反抗するときもある。
知らないうちに家出をして、もともと住んでいた森に突然帰ってしまうようなこともある。
ただピカチュウは、主人公が「ゲーム的に立ち入れない領域」においても、「人間が立ち入ってはいけない領域」においても、主人公とそれらをさりげなくつないでくれていたんだということに気づく。
こちら側の都合だけではいかないジレンマというか、隔たりの向こう側に思いを馳せていたという意味では、現実世界においても、ゲーム内においても同じような「遠さ」を感じていたのだろう。
あの頃よりも年齢を重ねた私は、ある程度の「遠さ」に対して腰が重くなってしまったところはもちろんある。そしてポケモンや、現実であれば動物たちと人間との間に感じられる隔たりに対して抱いていた悔しさというか、どうしようもない虚しさ、乗り越えたさみたいな衝動には(今もそれがある種の行動原理になるところはあれど、同時に)一定の諦めのようなものもある。
しかし改めて『ピカチュウげんきでちゅう』を自分の感覚を頼りに振り返りながら、幼少期の衝動も今の諦めも、どちらもそれはそれでよいのだろうとなんとなく思えてくる。
きっとそこにある隔たりを乗り越えて向こう側を見ることが、何かお互いにとってのよさに繋がるからとかそういうことを考えてるのではなく、
最初の庭の低木の向こうを見たいと言った時のように、
行った先で見える景色自体には何かを期待していないのかもしれないと思った。
なんとなくしっくりくる言葉を探してみると「何があるかとかは置いといて、そこにあるのに行けない状態自体がくすぐったい」という感じだと思う。”知らない”ということを知っている対象がそこにあるのなら触れておきたい、みたいな。
ということなのだろう。
シンプルになるまで煎じ詰めれば「エゴ」という言葉に落とし込まれていくような探究心の源泉。
ただ、これを完全に捨て去ることはおそらく不可能であるし、このことが私を私たらしめ、私が他者というものも含めた「外側の世界」と関わることの根本でもあるのだろうと思う。
あれ、これなんの記事だっけ…。
こんな感じに行く着くとは思ってなかったな…。
困ったぞ…。
思ったよりも真面目な感じになってしまったので、その他にもこの日ピカチュウと一緒におでかけをしたところの画像を載せてバランスをとって終わりたいと思う。
外を眺めていたつもりが、いつの間にか自分の内面を眼差していましたが、それによって大事な気付きを色々感じられた気がします。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
★おまけ★
ゲームならではの「行けない場所に行けちゃう」しかけもある
奥のちょっと暗くなった壁に突っ込むと壁抜けでき、珍しいアイテムが入手できる
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偶然釣れたすごいサイズのアズマオウ
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釣り中に「おにぎり食べよ」と言ったら、釣りを中断して一緒におにぎりを食べてくれた
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