妖怪「さとり」と木樵の柄から抜けた斧 仏教編

一つ前の記事で長めの文を書いたのだけど、弟から分かり辛い読み難いと言われた、確かにそうなので主に仏教解釈に絞って書きます。

※原文のコピーは最下部に置きます。

改めて読むと自分が勘違いして憶えていた所があった、手から滑った斧全体が飛んで行く話しだと思っていたが、実際は柄から外れ斧の金属部分だけが飛んで行く話しだった、幾つか調べても多少の違いが有っても飛んで行くのは頭の部分だけだった。

元の解説文は、「悟」る事自体を目的に意識して集中しても悟れませんよと言う話し。大体がこんな感じのもので、そこにそれぞれの人が意見を付け足した感じ。読んでいく内に気になったのは何故「柄」から外れると言う表現なのか?
1つ前の記事の武術解釈文を考えている内に思い付いた仏教解釈が下のモノです。

妖怪「覚」→「悟」の境地、彼岸、目的地の喩え
無心で斧を振り続けるは→三昧の状態の喩え
斧全体は此岸や悟って無い状態や肉体の喩え
そう考えると極度の集中状態になった時、自然に抜けた斧の頭(無我の何か)があたかも吸い寄せられる様に飛んで行き「覚」(悟りの境地)の頭に直撃する。(彼岸に到達、もしくは「妖怪覚」が死ぬ=自分自身の意識を読む活動から抜ける→涅槃寂静の喩え?)

改めて調べたら上に書いたモノと似たような文は有ったけど、ここまで露骨に説明を書いてはいなかった。
たぶん理由は「妖怪さとり」=悟の境地自体を意識して修行してもダメなように、柄から斧が抜ける状態を意識してもダメだから。

この自分の解釈を聞いて弟は非常に面白がり、元の原文と解説って何の意味が有るの?と言った、弟が言いたい事も良く分かる。
結局出来る人には必要無い文章だし、出来無い人には説明される事で意識が強化されるのを嫌うなら文章は不要になる。
でも自分達のように中途半端は人達が、こうやって話し合うには丁度良い話しだと言ったら納得していた。そう言いながら自分も余り納得していない。

最近は外国の僧侶の方々の翻訳書が読めて、結構細かく状態の違いの説明が書いてある、何故そんなに細く説明するのか?の質問に、現代人は説明されて理解出来る範囲を納得してからでないと、その方向に行けないからと説明していた、その人自身がそうだったらしい。
自分はこの人の態度が良いと思う。今回調べた文やTV等で僧侶が話すのを聞いていると、昔より意識の役割は複雑で立体化しているのに「はい、意識せず一生懸命頑張りましょう」見たいに雑で平面的な回答で人を馬鹿にして居るように感じる。

今、この話しの原文が載っていたと思い「天狗芸術論・猫の妙術」を読んでいる、(多分載ってない、いつ何処で知ったのだろう?)この本には普通に上に書いた海外の僧侶のように、かなり細かく状態や目指す方向の違いが説明されている。
例えば、「悟りを得た禅僧は、多数の敵に囲まれてその身が粉微塵に砕かれようとも、少しも心を動じないということはできるであろう。しかし、生きるための役には立たない。」剣術と禅僧では方向性が違う等々。
また、弟の話しになるけど葬式で説法を聞いた時の感想は「言ってる事は分かるけど、本人が何処まで実感しているのか分からない、実感、体験してなくても言える言葉選びがズルい」自分もその通りだと思った、勿論多人数に喋るのだから話しを広めに取るのは分かる。でも他に幾らでも言いようがあるのではと思っていたら「天狗芸術論」では普通に色々説明している。


※ここから原文そこら辺からコピー、序盤と終わりの解釈はカット。文章と解釈に幾つかバージョン違い有ります。

「さとり」は、すぐにきこりの心を読み「おまえは、俺を捕まえようと思っているな。」と、あざ笑うようにいいました。きこりが、自分の心を見透かされてびっくりすると「俺に心を読まれてびっくりするとは、情けないやつだ。」「さとり」はすかさず、からかいました。これを聞いたきこりは、がまんできずに「こしゃくなやつめ、この斧で殺してやる。」と考えました。すると、「さとり」は「今度は殺す気か。こりゃかなわん。」といって、逃げる構えをしました。
それを見たきこりは 「こんなやつを相手にしていては、飯の食い上げだ。本来の仕事に専念しよう。」と思い直しました。「さとり」は「ついにあきらめたか。」といってその場できこりの様子をじっと眺めていました。
きこりは、この不気味な妖怪のことを忘れようとこころがけ、木を切ることに没頭し、力一杯斧を振り上げては木の根元に何度も何度も打ち下ろしました。そのうちに、きこりは「さとり」のことなどすっかり忘れてしまい、額からは汗が流れ落ちていました。そのとき、偶然にも斧の頭が柄から抜けて飛び出し、「さとり」に命中してしまいました。

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