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抽象的な街角

言葉だけで考えていくとどこかで「何言ってんだ?」という壁にぶち当たる。雪を見て、「除雪しましょう。よけた雪は、ひとつにまとめましょう」と言葉で伝える。その言葉に壁はない。なぜなら、雪がそこにあるからだ。雪がそこにある、という事実が、言葉が浮いていくのをつなぎとめている。

人間の特徴のひとつは言葉をうまく操り、抽象的なことを言葉で表せることだけど、抽象度を高めていくこととはつまり、浮ついていくことだ。

昔、実家で飼っていた柴犬のレオは、レオであると同時に柴犬でもあり、犬でもある。「犬を飼っていた」という抽象レベルで語ると、ほかにも「犬を飼っていた」人と話があうかもしれない。

抽象度を落として「レオを飼っていた」人はぼくの家族以外にいない。あのレオのかわいさや、レオがいなくなった悲しみを、他の人と分かち合うことはできない。

具体的な生活や仕事を共有していないどこかの他人と話すとき、「わかりあいたい」人は、言葉の抽象度を高めて語る。そのとき、言葉がどうしても浮ついていく。浮ついているんだけど、言葉の字面だけを追えば、「わかる」と思うことができてしまう。

抽象的な言葉は、人をわかったような気にさせてはくれる。わかったような気にさせてはくれたとき、「いや、わかんないよ。だって俺は犬を見たこともないし、飼ったこともないから」とは言いにくい。その抽象的な言葉が、論理の鎖で繋がれていればなおさらである。

ビジネスでは抽象的な言葉が使われすぎている。と何かの本に書いてあった。毎日オフィスにいて、たくさんの人と会ってはいるが、実態としての商品を触っていない人たちが、見たこともない何かを、右から左に動かそうとすれば、その言葉がいくらロジカルに編まれていても、浮ついたまま交換されていくことになる。

そういう浮ついたままの言葉に「何言ってんだ?」と言う人は社会人失格である。仕事をする上では、他人の言葉をわかること、他人にわからせることが第一であり、わからない人、わからせない人は「バカ」の烙印を押される。

そんなことを思いながら『もういちど読む山川倫理』(山川出版社)をパラパラと眺めていたら、森鴎外(1862-1922)の小説「かのように」が紹介されている箇所で目が止まった。

また『かのやうに』では、国家も、道徳も、宗教も、すべては虚構(フィクション)かもしれないが、それらが実在する「かのように」振舞わねば社会は成り立っていかないと述べている。(P.242)

誰かの浮ついた言葉に対して「何言ってんだ?」と思うのは、「さっきから虚構ばかりで、意味わかんない」と同じだ。ぼくも一人で考えていて意味がわからなくなることがある。それはたぶん、虚構に足をつっこみすぎているからだ。
それでも森鴎外は小説の人物に「何言ってんだ?」とは言わないほうを選ばせている。それが社会を成立させるためだからだと。
『かのように』を抜粋する。

神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜す。義務を蹂躙する。そこに危険は始て生じる。行為は勿論、思想まで、そう云う危険な事は十分撲滅しようとするが好い。しかしそんな奴の出て来たのを見て、天国を信ずる昔に戻そう、地球が動かずにいて、太陽が巡回していると思う昔に戻そうとしたって、それは不可能だ。そうするには大学も何も潰してしまって、世間をくら闇にしなくてはならない。黔首を愚にしなくてはならない。それは不可能だ。どうしても、かのようにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。

森鴎外は明治の人であり、『かのやうに』は1912年に書かれた小説である。今ほどに虚構の言葉が氾濫する時代を想像できなかっただろうし、日本が国家としてまとまりを強烈に必要としていた時代でもある。森鴎外のいわんとすることをぼくも理解できているつもりだが、現代はあまりにも虚妄が多く語られているように思う。虚構を「あるかのように」振る舞う必要性を理解できる。でも、虚構が「ありすぎる」ときは、どこかで線引きする必要性を感じるのである。

森鴎外『かのやうに』(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/678_22884.html

追記)この話がそもそも「何言ってんだ?」と思う方も多々いらっしゃると思うので、図解を別noteに描きました。興味ある方のみご覧ください。
https://note.com/yagiwataru/n/ne759005a3e37

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