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キター!と叫びながら衰退していくジャンル

なにかをつくる人がそれを職業にできるのは誰かがそれにお金を払っているからだが、その金を目当てに創作者は無限に増えていくため、お金を払って鑑賞している人は「誰にお金を払うか?」を峻別しないと、すぐに財政破綻してしまう。

そこで鑑賞者としてはとりあえず一旦なにかを鑑賞してみて、それが良いものだったら次もその人の作品を見てみることにする、みたいな選択をする。しかしここで問題なのは、つくる人がいつも「前と同じようなもの」をつくるとは限らないということだ。同じものをつくるよりもむしろ新しい挑戦をしてしまう。つまり作者名としては同じでも、作品としては新規案件になる。そうなると、ほかに数多ある新規案件と変わらない。人はどうしたら全くの新規案件にお金を払えるのか?その問題については最後に書く。

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すべてのジャンルにはマニアがいて、マニアが望むのはマンネリである。マンネリズムに浸っている人のことがマニアだから。マニアは前と同じようなものを望みつづけ、「お約束のネタ」がくるぞくるぞと思いながら鑑賞し、「お約束のネタ」がきた瞬間に「キターー!」と叫ぶ。その興奮が快感だから次も似たようなものを望んでマニアになっていく

お約束のネタとはつまり、見る人が「次の展開はこうなるだろうな」と予測できるもののことだ。マニアのそういう予測にぴたりとあわせたものをつくるとマニアは喜ぶ。買っておいた馬券が当たりだったときのような感じで、予想が当たったことにマニアは喜ぶ。

一方、つくる人のなかには毎回同じものをつくることに飽きる人もいて、そういう人はお約束のネタを避けたものをつくる。そうするとマニア的には「つまらない」ものになってしまう。

すべての鑑賞者がマニアなわけではなく、新しいもの好きもいれば、いま来た新しい鑑賞者もいる。マニアは鑑賞者のなかの一部である。しかし、マニアが消費者として強い力を持つと、ビジネスとしては「お約束のネタ」を仕込まないといけなくなってしまう。この「お約束のネタ」で喜ぶのはマニアだけで、新規鑑賞者は別に予測もしないのでマニアが「きたーー!」と叫んでも、「は?」である。

マニアの喜びと、新規鑑賞者の反応のギャップが、そのジャンルの衰退を生む。

マニア向けにつくられたもので喜べるのはマニアとマニア予備軍だけである。そしてマニアは、自分たちが喜ぶものをつくってくれない人を罵倒する。

萩尾望都さんが『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)という本で、「排他的独占愛」の話をしていた。たとえば「新撰組」を好きな人は、新撰組を描いたドラマを見て「これは新撰組じゃない!」と憤ったりする。その人たちのなかにある「新撰組」のイメージに合致すれば認め、合致しないと否定する。自分が好きなもの、認めたもの以外を排除してしまう。それも愛には変わりないのだが、排他的だという意味で萩尾さんはそれを「排他的独占愛」と呼ぶ。
これは別に新撰組に限ったことではなく、映画でも漫画でも、なんにでも起こり得る問題だ。これは俺が認めた飛行機じゃない!俺が認めた電車じゃない。とか思ってしまうとき、その人の心には「排他的独占愛」が宿っている。

批評の問題が厄介なのは、マニアも批評を書くということだ。むしろいまの批評は、マニアこそが書いている状況なのかもしれない。マニアはとかくこの「排他的独占愛」を醸成してしまいやすい。マニア的観点から良し悪しを論ずれば、そこには排他的独占愛が宿っているため、新規案件は排除されていく。マニアは客観的に見て「これはマニア向け(お約束のネタ入り)の作品です」「新規案件です」と判断できない。できてるならマニアではないとも言える。

客観的に見れる人のことをぼくは批評家と呼んでいるが、そんな人はいないのかもしれない。そもそもぼくは批評もレビューも全然読まない。ただ、鑑賞者のほとんどがマニアなジャンルは、新規鑑賞者にとって「は?」と感じる状況が生まれやすく、新規鑑賞者が参入しにくいため、わりとすぐに衰退してしまうだろうなということだけは思う。なにかのジャンルが世間的に広がっていくときの弊害になるのは、マニアの存在なのである。

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新しいものをつくる創作者をどうやって信頼するかという問題に戻る。すべての作者が新しい挑戦をしたなら、本当は過去の実績は参考にならない。

その挑戦を応援するのは、新大陸を目指すコロンブスに資金を提供するのと変わらない。鑑賞者は、支払ったお金がきっちり戻ってこないリスクを引き受けるかどうかを迫られる。

このとき、リスキー案件のリスクを下げる役割をするのが批評家の存在。批評家がいないとどうなるかというと、リスキーな案件は見向きもされなくなり、堅い案件ばかりに資金が集中するという状況だ。ただし現在は批評は機能しておらず、新規鑑賞者としては批評よりも多くの人の評判のほうが重要になっている。倍率は低くても、手堅い案件を見ることにしているようだ。

ただしぼくはここで批評を持ち上げたいわけではない。ぼくとしてはハズレ案件を掴んでもいいと思っている。鑑賞者として大事なことは、ハズレを掴んだからといっていちいちキレないことだ。インドを目指したコロンブスがカリブ海の島に到着しても、投資家がいちいち怒らないのと同じである(実際の投資家がキレたか知らないけど)。そもそも、カリブ海の島がハズレだと断言もできない。

ぼくの感覚でしかないが、ハズレを気にせず鑑賞の経験を積むほうが、作者名は関係なくタイトルや立ち読みだけで判断して読んでみても、面白いものを掴めるようになる。鑑賞する上では、自分の予想した面白さとは違う面白さを発見することのほうが重要だ。でも「当たりはこれでげす」という評判のものだけを鑑賞していたのでは、面白さを発見するための嗅覚はいつまでも育たないと思う。




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