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スキマ時間になじみすぎ

10年以上前、スマホの登場でスキマ時間が有効活用できると言われていたが、実際は逆だったと思う。

実際に起きているのは、まとまった時間がスキマ時間になってしまったということだ。
電車を待っている5分間こそがスキマ時間だと思っていたのだが、家族や友人と会ってご飯を食べている時間でもスマホを見ることができる。食事のあいまにメールを返すことができ、誰かがトイレに行っている間に情報をチェックできる。風呂に入っていても、トイレに入っていても、どこに入っていてもスマホがそこにあれば何かしら操作してしまう。要するに、すべての時間はスキマ時間化してしまったのである。
だからモノやサービスを売る側も、そのスキマ時間に入りこもうとする。モノやサービスの魅力を伝えるには一瞬で見る人の心をつかむ必要がある。2時間かけて良さを伝えるのではなく、10秒で伝わるようなものをつくる。それがわかりやすさとも言われるし、味で例えれば味の濃さとも言われる。人が何かを理解するには時間がかかるから、感情のほうに重点を置くほうが効果がありそうだ。キレさせる、萌えさせる。面白がらせる。
こうして、消費する側もつくる側も、スキマ時間に特化していく。

ちなみに、スキマ時間化の他に、ながら時間化も進行している。何かをしているときも、その時間を有効活用する。歩きながら音声教材を聴く、皿を洗いながらドラマを観る。イラストを描きながらラジオを聴く。ながら時間は音に特化しているため、音は最後のフロンティアだとか言う人も出てくる。

本を読む

本を読むには努力が必要だ。映像と違って、流していたら進んでくれるということがない。自分の目で文字を追って、文字の連なりから文章を理解する必要がある。文章のまとまりを把握することまで求められる。

非常にめんどくさいので、本を読む人がそうそう増えることはない。むしろ減っているだろう。本を読む目的が「そこに書かれている内容を理解するため」ということなら、いちいち本を読まなくても、内容を優しく語ってくれる人の音声を聞いたほうが手軽だし、早い。

約200年前に書かれた、長くて古い小説

『モンテ・クリスト伯』という19世紀前半に書かれたフランスの小説がある。岩波文庫版で全7冊だ。
簡単に言うと主人公が自分を不当におとしめた連中に復讐する話である。当時は大人気だったようで、今でもさまざまな映画や舞台で再演されていたりはするが、再演されているものは知っていても、小説を全巻読破している人は多くないと思う。

こういう小説をいちいち読む理由はなんだろう?という疑問を抱きながら、なんとなく読み始めて4巻まで読み終えた。

そこで気づいたのは、むかしの小説は(今もかもしれないが)、読者を飽きさせない工夫を凝らして書かれているわけではない、ということだ。

復讐の話だから、前半はひどいことをされ、後半は復讐するという展開になっているのだが、全7冊もあるので、なかなか復讐が行われない。早いこと結末を知りたいのに、なんのために挿入されているかわからないシーンがつづく。だから何度も「つまんな…」と思って途中でやめようかと思ったのだが、「なぜ200年前は人気があったのだろう?もしかすると、これは自分の読み方がまちがっているせいかもしれない」と疑問を抱いてから、読むときの意識を変えた。
このシーンはなんのために挿入されているのか?全体とどういう関係があるのか?ということを気にしながら読んでいると、全然楽しめない。逆に、いまはここではどんなことが起きているのか?に意識を集中させるとシーンを楽むことができる。しかも無駄に挿入されてはいないので、あとあと全体との関係性も見えてきて二重に楽しめる。

スキマ時間に特化したコンテンツを浴びる

スキマ時間に特化したコンテンツは、こういう作りにはなっていない。
「結論(結末)はこれです。その理由(過程)は3つあります。1,2,3です。よろしくお願いいたします。」という作りになっている。
もしくは「こんな問題はありませんか?解決策はこれです。よろしくお願いいたします。」である。もしくは「楽しいよ!一緒にやろう」である。
とにかく要素に無駄がない。結論(結末)を先に提示することで、見るべきか否かを最初に決断できるのもありがたいのだ。

しかし、スキマ時間に特化したコンテンツを浴びるということは、いまという時代に最適化されていくことでもある。
結論から先に言われることに慣れすぎると、結論がわからない話は聞いていられない。時間の無駄だと思ってソワソワする(この文章も同じだが)。

フィクションを見たときも、「この結末は何か?」が気になって仕方ない。「このシーンは結末と関係あるか?」が気になって、関係ないとわかったとき「このシーンいらんかったな」と思ってしまう。
我々は貴重な時間を生きている。時間はあまりにも早く過ぎていく。だからこそ結論から先に言ってほしいのだが、結論から言われることが当たり前になりすぎると、娯楽ですら結論から先に言って欲しくなるし、無駄な時間を削り取りたくなる。そう思ってしまうこと自体が、時代に最適化されたということである。

過去を礼賛したいわけではない

飽きさせないコンテンツがそれほど多くなかった時代。時間がスキマ時間化されていなかった時代がたぶんあっただろうが、ノスタルジーに浸りたいわけではない。過去を礼賛したいわけでもない。自分がいまという時代に最適化されているということに驚いているのだ。

いまのコンテンツをたくさん観ると、いまという時代に最適化されていく。しかも、自分が時代に最適化してしまったという変化には、そうそう気づくことがない。気づくには現代に最適化されていない過去のコンテンツを見たり読んだりする必要があるが、それがなんの役に立つのか?いまという時代に最適化されて何が悪いのか?そういう反論もすぐに出てくるだろう。

そしてスキマ時間以外の時間の使い方を、どんどん忘れていく。

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