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評論家は指し示す?

「評論家はいらない」という言葉を聞くとドキッとする。それがたとえぼくに向けられた言葉ではないとしても「こうやって文章を書くことにはなんの意味もないかも?」と考えてしまう。
「評論家はいらない」とまで罵られる評論家の定義は「口先だけで、何もやらない人」だろう。だから「評論家はいらない」の言葉のあとには「ぐだぐだ言ってないでやってみろよ」と続く。

ぼく自身は「評論家は必要」と思っており、むしろ「評論家がいなければ新しいものは生まれない」とすら感じている。「いらない」人とぼくのすれ違いはおそらく、評論家に対するイメージの違いから来ている。

評論家いらない派の人は、評論家によって「行動が阻害されている」と考えているが、評論家いる派のぼくは、評論家によって「行動が促進されている」と考えている。

評論家のイメージは「評論家」と聞いたときに、誰がパッと思い浮かぶか、によって変わる。いらない派の人はたぶん、その人に嫌な思いをさせられたに違いない。だから「いらない」と言うんだろうけど、ここから先は「評論家が必要な理由」を書いていく。

第一部では創作者と客から評論家が必要だと思う理由。ここだけで基本的には評論家の必要な理由はおわりで。
第二部は、評論家は創作者のなりかけだ、という話。

第一部:創作者目線・客目線

映画の歴史:1950年代末のフランスで。

1950年代の終わりころ、フランスに批評家出身の映画監督たちが出てきた。それまでの映画がスタジオでガチガチに撮影されるものだったのに対し、彼らは街に出て、脚本なしで撮影するような、既存の映画スタイルに縛られない自由な映画をつくった。
その一連のムーブメントを、フランス語をカタカナで書いて「ヌーヴェル・ヴァーグ」と言う。日本語にすると「新しい波」。
ヌーヴェル・ヴァーグは「映画はもっと自由に撮って良い」という映画史における革命で、その後の映画に大きな影響を与える(たぶん)。

上にちょろっと書いたけど、ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちは、映画監督になる前は映画批評家で、映画批評の雑誌『カイエ・デュ・シネマ』に批評文を書いていた。その彼らが後々、批評家をやめて映画監督になっていく。

「何の映画みよっか?」

さて映画でも見ようかな?と思ったとき、選ぶ方法はストーリー以外に、俳優やスタジオ(ジブリやピクサー)で決めたりする方法があるけど、監督が誰かで決める人もいる。

「監督が映画の全てを決めている、映画は監督のものだ」という考え方がある。その考え方はスタジオ撮影時代にはなかったものだ。『カイエ・デュ・シネマ』の創刊者アンドレ・バザンが提唱した「作家主義」が源流にあり、ヌーヴェル・ヴァーグはその考えを推し進めた活動だったとも言える。だから「監督で決める人」は、アンドレ・バザンの影響下にいる。
クエンティン・タランティーノの『ワン・ス・ア・ポン・ナ・イン・えー・ハリウッド』が注目されるのは、俳優が豪華なのに加え、監督がタランティーノだからだ。その映画の製作会社がどこか、プロデューサーが誰か、を気にする人はあまりいない。

書店が作家の名前を見て本を入荷するか決めるのと同じように、「誰が監督か?」も上映の決め手になる。上映場所・時間には限りがあるから、劇場は「何を上映するか?」の判断を常に迫られている。その判断基準を「売れるか売れないか」にする映画館が普通だけど、ときには映画館のオーナーが「良いと思ったから」という基準もある。

何がすごいのかを言語化すること

ぼくは「批評家・評論家」は「考え方の源流」にいる人たちだと思っている。芸術家・作家たちは言葉でいちいち説明しないし、説明を求めてもあまり説明してくれない。「言葉で説明できるなら作品をつくってない」と思っているせいか、その「良さ」を言葉で説明しない。だから説明を求められても「まあ、とにかく作品を見ていただければ…」などと質問をかわしてしまう。
「じゃあ作品を見てみるか」と予備知識なしに実際に作品を見ても、ぼくのような凡人は「?」と思うだけでなんの感慨もなかったりする。「見たけどなにもわからなかったよ」なんてことはよくある。時間とお金がかかるので大変だ。

そういうとき、批評家(評論家でも)の良さが発揮される。批評家の良さは、作り手が濁すところを言葉に置き換えるところだ。何が新しいか、どの辺がどう面白いかを言葉にする。
芸術でもなんでも、その分野なりの知識の積み重ねがないとなかなか楽しめないものだけど、こういう評論家が補助線を提示してくれると、作品の理解にたどり着きやすい。見終わったあとでも、補助線をあとで確認すれば、再度咀嚼して楽しめる。
そして、批評家がいるからこそ客の批評眼もすくすく育つ。批評眼が育った客が増えると、上映される映画も変わっていく。

「斬新」なとこに指をさす

さて、ここまでだと、批評家は解説者と変わりないのではないか?という気がする。でも、すごい批評家のすごさは、作家自身にも「そうかも」と思わせるところにある。つまり、優れた批評家は、作家自身が言語化していないこと、無意識にやっていることまで言語化する。批評家に「このあたり、特に斬新だ!」と言われた作家は「そうか、そのあたりが斬新か!」と思ってますます創作に励んでいくことがある(たぶん)。
一方で、新しいものを拒否して、古い価値観をしっかりと守っていくタイプの評論家もいる。ここで、誰を信じるか?の問題がやってくる。

誰の眼を信じるか

作家の小学校時代の同級生が「久しぶり〜。作品見たよ。新しいね」といきなり電話してきたとしても、「お〜!お前誰だっけ…」とは思いこそすれ、「お〜、がんばるか〜!」とはならない(違いますか)。同級生がその後どんな批評眼を身につけたのか、知らないからである。

小学校時代の同級生の批評眼を信じないなら、誰の批評眼を信じるのか?
ちなみに、批評眼とは、ざっくりと一言で定義すると「良し悪し」を判断する眼のこと。

何かの作品はいろいろなところで評価を下される。人は批評眼を発揮して、良い悪いを判断する。それを言葉にして匿名のレビューサイトに書くことがあっても、誰か分からなければ、迂闊に信用するのは難しい。

何かの創作に対して、作り手がその言葉を信用できる人はそう多くない。ぼくはイラストレーターとして絵を描いているが「自分の絵がどう評価されるか」についてはすごく気になるところだ。日々打ちひしがれながらも、まだ絵を描けているのは「いいね」と言ってくれたごくわずか数人の、あの人とあの人とあの人…の顔を思い浮かべられるからだ。その人たちを信頼しているから、他の人に「うーん。ダメな絵」と言われてもまだやっていける。あと、仕事になってるから(重要)。

なぜ他者の眼が必要か

そういう信頼できる人が、創作には必要だとぼくは思っている。そしてこれはファンではダメなのだ。ファンは優しすぎる。だから信用できない。
また、時にファンは、自分の好みを軸にファンになるので「昔のほうが良かった」と言ってすぐにファンじゃなくなる。

ファン「昔みたいなポップな曲、書いてくださいよ」
ミュージシャン「…」

もしかしたら「信用できるその人」には「批評家」という肩書きはついていないかもしれない。でも作家から見てその人は、信用できる批評眼を持ち合わせている。そういう信用は「良し悪しの基準」とか「新しい古いの基準」とか、「売れる・売れない」の基準を持っているという確信から生まれる。なんらかの基準をその人が持っていると思えるからこそ、信頼も生まれるものだ。

その基準があまりにも強固だと、たとえば印象派の画家たちが出てきても「???」としか思えない。ジャズが出始めてきたときも「ノイズ???」としか感じない。映画とは「スタジオできちんと撮るものだ。それ以外は映画ではない」と思い込んでいると、「新しい映画???」に出会えない。批評家はあくまで良し悪しを語るだけで、そのジャンルの代表者ではない。

作り手は自分を客観視できない

作り手は、自分の創作物を最終的に自分から引き剥がすことができない。どんなにそっけなく創作物を「クソです」などと白々しく振舞っても、絶対に自分の作品を好きなはずである。(クソだったら早くトイレに流してほしい)

自分が自分の作品を一番好きで、好きすぎてたまらないあまりに、白々しく振る舞わずにはいられない。
「これめっちゃ良くないですか!?どうですかー!」と言っても良いけど、それを言ったあと「は?クソみたい」と言われる辛さには耐えられない。
だから「つまらないものですけど…」と静かに言って発表する。それで「いいね」と誰かが言えば「嬉しい!」につながる。そして、それが信用に足る人であればあるほど、「おおおおお」と思えるのだ。

自分の創作物を好きでなければ、発表しないで燃やしているに決まっている。削除するに決まってる。どこかで「微妙かも?」と思っても、発表できる場があって発表しようとしているということは、「何か価値あるかも」と少し思えるから発表し、そして「価値あるね」と信用できる人が言うから、「よかった」と思える。生活のためにやることなら、他にもっと良い仕事はある(たぶん)。それが趣味なら、ただひとり、家でやれば良い。

はい。だからこそ、作家は自分の作品を批評的に見ることが究極的にはできない。完成して発表する時点で、作者の心は、良し悪しのヨシ寄りに傾いている。
もしかしたら、ほとんどのお客さんに「つまんない」と言われるかもしれない。でも一部の信用に足る人が「ヨシ!」と言ったとしたら、「また次も作るか」と思えるはずで、「また作るか」と思うからこそ、新しい作品が生まれてくる。その新しい作品が、どういう方向を向いて出てくるかといえば、それは信用していた人が言った「ヨシ」が指し示している。方向を決めているのは、その信用している人が「どこにヨシと言ったか」なのである。

誰だったか忘れたけど、「イラストの持ち込みは全て断っている」という人がいた。持ち込まれたイラストを自分が見て、なんらかの評価を下せば、持ち込んだイラストレーターは自分の言ったことに影響を受けてしまう。そして影響を与えたからには、「自分はその人のことの面倒をみなければいけない」というすごい責任感から、誰かが描いたイラストを批評しない、と。
つまり、批評は人を動かしていくものだ。強く突き動かすわけではない。
ヒマワリが太陽のほうを向いて咲くように、作家も信用できる批評家の言葉に励まされ、それを意識しながら創作活動を続ける。

そして、繰り返しになるけど、批評家の言葉は、見る人にとっての補助線にもなる。だから、観客と作家のあいだに立つ役割として、批評家は必要になるのだ。第一部おわり。

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第二部:批評家目線

音楽とか美術の歴史:19世紀あたりのヨーロッパらへんで。

『西洋音楽史』(中公新書)という本を読むと、かつての音楽批評家たちは、自らも音楽を演奏する趣味を持っていたと書いてある。アマチュアの語源はアマートル。愛する人。つまりアマチュアは、自ら演奏することによって、演奏の良し悪しを判断し、音楽の凄さを体感できる。そしてその創作体験は、批評眼にも大いに影響を与え、何かを評価するときに出てくる言葉にも影響を与える。小説を書いてみるととても難しい。だから、「こんなふうに表現できる小説家はすごいなあ」と感心する。

おそらく批評家は、なろうと思えば、やがては創作者になっていく(優れているかはさておき)。現代はどんな分野でも、創作者になる過程で一旦は「批評家」的な時代を経験する時代。「自分ならではのもの」や「新しいもの」を作るために、大量のインプットをする必要があるからだ。そして、インプットからアウトプットに移行するその歩みを、どこで止めるかによって、人は批評家になったり、創作者になったりする。
坂本龍一は優れた音楽批評家にもなれたはずの博識っぷりだが、優れた批評眼を持っていたからこそ、優れた音楽家になった。つくるよりも聞いたり紹介したりする方が好きだったら、坂本龍一も批評家だったかもしれない。

批評は行動を阻害するか?

批評は「良し悪し」を決めるものだから、批評眼を身につけていけば、何が「悪し」なのかはわかってしまうことになる。だから、創作意欲はそこそこで、批評眼ばかり鍛えていくと、自分の創作意欲が激減するケースがある。その「悪し」がわかってもなお、「もうちょっとやってみるかな」と思えるかどうかが批評家と作り手の分岐点になる。

でもだからといって、批評家が不要になることはない。大量のインプットのあとや、もしくは同時並行的に、創作活動がある。インプットを繰り返しているうちに、誰でも批評眼を身につけてしまうものだ。もはや「批評眼が身についてしまうこと」からは逃れられない。批評家がいなくなっても、批評眼が残りつづける。

第二部おわり。

補足1:金にならなくてもとっておく

作家がその作品の良さを言葉にせず、お客さんもその作品の良さに気づけないとき、その作品は「金にならない」という理由で廃れていく。「金にならないけど、良いものだから、とりあえずとっとこう」と言葉にできるのが、批評家の役割だ。「売れるものが良いものだ」は批評ではない。宣伝だ。
逆に「くだらない。やめちまえ」というのも、(良い)批評ではないと思う。批評家が愛好者として創作活動をするのは、創作に対する敬意を表す意味もある。おそらく創作者に対する敬意があれば、「くだらない。やめちまえ」とは言わないのではないような気がする。

補足2:批評眼なし、感性だけで見る。

人は長いこと進化していないので、感性だけでものを見るのなら、作品もあまり進化はしない。感性だけでみて「キレイ〜」と言えるものの代表格は花火で、昔からずっと、キレイである。

いろいろ書ききってないことがあるけど、これ以上書いているとずっと書き終われないので、とりあえずここで終わりになります。ありがとうございました。

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