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考えは多角的に深く進む

考えることの軽さ

考えることは簡単だ。と、錯覚かもしれないが、時々目にする言葉の数々がそう主張しているような気がして、その度にげっそりしてしまう。運動もしていないのに、精神的なダメージだけでカロリー消費するパターン。病気か。

具合の悪くなる読書

どんな本であれ、誰かが時間をかけて作ったものなのだから、決してバカにしたりしてはいけないのだという教えがある。
差別を奨励したり、殺人を促すような本以外はオープンスタンスで読んでみたいと思っている。
しかしぼくも長年、いろいろと本をパラパラとめくってきて、そういえばこの手の本を読むと調子が悪くなるな…と思わせる本があることに気づいている。
それが「すぐに行動すること」を奨励する本である。ソファに横たわりながらこういう本を読んだりすると、はぁ…とため息ばかりが出て、頭が重くなってソファから立ち上がれない。運動不足か。

行動する意義

確かにそのとおりだ、と思うところがあるので、表立って批判することはできない。そもそも、行動せずに考えているだけの人は、その人が何を考えているのかすら誰にもわからない。考えたことは何かに書き記さなければ、あとに何も残らない。
それに、何か技術にまつわることは大抵、「親方の言うとおりにやってみたらうまくなっていく」ものだ。小僧の分際で考え込んでいても、数十年の経験を積んだ親方にはかなわない。ならば親方の言うとおり、あるいは親方のやっていることを見よう見まねでやっていく。その行動が技術の蓄積につながるのだ。そして、技術を積んだ上ではじめて、「ああ、あのときに親方が言っていたことの真意はこういうことだったのか」と気づく算段である。

また「変化の激しい時代(良く聞くウワサを参照)」には、正しい知識などはなく、行動していった人だけが最先端の情報を掴める。だからこそ、立ち止まって考えていることに意味はないのだといえる。

こういう主張が、行動派の理屈だと思う。「親方の教え」を重視する視点と「変化の激しい時代」を重視する視点は実は真逆で対立するものではあるが、行動派は「行動重視」という結論で一致する。
問題はそこで、考えることを軽視することだ。

スポーツの移り変わり

昔のスポーツ漫画を読むと、なんでも根性で勝ち進んでいる。野球漫画『キャプテン』などはその典型で、ぼくはこの漫画が好きなので貶める意図は何もないが、努力の量で勝ち負けが決まる。特に最初のほう。努力したら急にうまくなって勝ち進むし、土壇場で打てるのは努力した選手だ。
「スポーツ選手はバカで良い」という主張があるとすればそれは、こうした時代の価値観を受け継ぐものだろう。

ところが時が経ち、現代スポーツはデータ分析が盛んに行われ、むしろ考えている人が勝つ。現代ていっても90年代くらいから、野球でもデータ野球が取り入れられ、外野手の守備位置を見てランナーが走り方を変えたりする。

『サッカーは監督で決まる』(清水英斗・著/中公新書ラクレ)の第7章イビチャ・オシムの章にグローバルトレーニングという概念が紹介されている。オシムが行なっていた練習メニューがそれで、「状況認知と判断を必要とするメニュー」だと。そしてそのグローバルトレーニングを推し進める人は現代サッカーを「頭に始まり、足で終わるスポーツ」だと定義する。

サッカーを単に「(頭で考えず)足でする」だけのスポーツだと捉えていると、その練習はパスやドリブルの反復など、直接的に足技につながるものが増える。練習の成果はすぐに現れるので満足度も一見高いのだが、テクニックだけで競り合っているとトップレベルの試合には勝てない。相手も当然テクニックは鍛えているので、最終的には戦術面で相手の弱みをつき、自分たちの強みを発揮するチームが勝つ。

スポーツが複雑になり、選手も監督も考えることを強いられる一方、日本のビジネス界の一部では、アクションを促すばかりの現象が起きていると感じられる。これは一体どういうことなのだろう?

理由のひとつは、それを主張する人が、なんらかの経験を経て、マジメに行動派になったことが考えられる。「考えたけど意味なかった!」という経験だ。
もう一つ考えられるのは、「考えない消費者」を育成する観点である。「考えるな、行動しろ」というメッセージの裏に「ウチの商品買ってね」という意図がある。「大学なんて行くな!」と言っている人が、考えられない人を囲いはじめているのがこれに当たる。

考えることと悩むこと

考えることと悩むことは違うと良く言われる。
「良く考えてな」「自分で考えろよ」とは言われても、何を?どう考えたら良いか?はわからない。だからこそ人は悩むわけで、日々泥沼にはまっていく。

スタディサプリの日本史の授業で、伊藤賀一先生は「ぼくが授業でやっているのは、君たちに考える材料を与えること」というようなことを言っていた。1人で考えるのは難しい。どう考えたら良いのかもわからない。そのとき、知識は役に立つ。泥沼から抜け出すための材料になる。
たとえば労働法に関する知識は、ブラック労働という泥沼から抜け出すときに使える。

考えなしの行動

材料なしで泥沼から抜け出すことは困難で、日々忙しいと材料を仕入れることもできず、悩むばかりだが、行動派の主張はそんな悩める人々にとっての救いでもある。あれかこれか?で悩んで何も動けないなら、結果を恐れずに行動するんだよ!と。何か起きてしまったら、またその時点で調整すれば良いんだよ!と。占い師も行動を促す一人ではある。そうやって数万円、数十万円のお金が動いていく。

行動派の主張は、沼にはまって身動きの取れない人々にはとても魅力的にうつる。「その通りだ、なぜ我々はつまらないことを気にしていたのだろう?」と。沼にハマった人も、行動派に救われるので、「おーい」と声をかけても無駄である。

しかしその行動は、素人のサッカーと同じレベルになりやすい。つまるところ、ひとつのボールに群がっていく。なぜなら、何も考えず号令に従っているだけだから。考えなしの人は、発言内容や行動内容も、みんな似てきて、コピーアンドペースト的になっていく。考えてないんだから当たり前だ。商売人としては、考えない客ほど楽な相手はいない(ぼくも学生のころ騙された)。

どう考える?

では、一体どうしたら考えられるのか?その答えを知っているわけではないのでぼくも考えた。
まず最初の手がかりは言葉だ。「考える」がどういうふうに使われているかを探る。対比として「悩む」も一緒に探ってみよう。

1.考えは進む。悩みは進まない
2.考えは深まる。悩みも深まる。
3.多角的な考えはある。多角的な悩みはない。

1.考えは進む。

論理的に考えると進んでいく。「あれ、また同じこと考えてる」という堂々巡りにならない。論理とは、考えを進めるための動力だといえる。あれやこれや考える人に「だから?」と一言問いかけるだけで考えは進む。だからなんなんだろう?それでどうなるんだろう?
「つまり?」は、今進んできた道を、空から見るとどうなるか?という問いかけだ。平面で進めてきた考えを立体で捉える問い。

2.考えは深まり、悩みも深まる。

考えることと悩むことは、似ているのだ。だからこそどちらも深まる。
「どちらも深まる」ものだとすると、いまの自分は「考えた末に深いところにいる」のか、「悩んだ末に深いところにいる」のか、わからなくなるかもしれない。
けど、深いって何?

▶︎沼にハマる深み。
悩みは深いと抜け出ることも困難になる。現代日本の状況を想像すればその抜け出せない感じは容易に把握できる。人口問題など。老人が増えることも予見されていて、子どもの少なさも警鐘は鳴らされていたが、対策をとらないままでいたところ、悩みが深まってしまった。以前よりも解決は困難になっている。抜け出るのが大変で、誰も傷つかないようなクリアな解決策は見つけられない。

一方、1で見たとおり、考えは進む。
悩みは進まないので、考えは自ら深みに降りていくイメージ。ここも同じく論理で「なぜそういえるのか?」が考えの深さにつながる。主張の理由。理由の理由。理由の理由の理由。

現代は「論拠として出されていた研究成果」が修正されることがある。証拠となっていた研究論文が、ビッグデータを駆使した分析によって覆される。そしてまた、ビッグデータによる分析は、考えることを駆逐しやすい。ビッグデータを使った分析で導き出された示唆に従って人は動けば良いといえるからだ。強力な主張である。
もしそういうデータがないとき、深く考えていくと、いつかどこかでもう掘り進められない瞬間に出会ってしまう。ここから先はスコップでは掘り進められません!という感じ。

3.考えは多角的

考えることは自分を置いていけぼりにできる。悩みは基本、主観である。だからこそ人の悩み相談に、他人はいとも簡単に答えを出すことができる。

相談を受けた人「そんなの、こうすれば良いんだよ」
相談者「いや、それはわかってるんだけどさぁ…(できないよ)」

悩み相談者が言う「それはわかってるんけど」は「その選択肢は考えたことがある」を意味する。つまり相談している時点すでに視点を2個は持っている。悩みは、単なる主観ではないのかもしれない。

▶︎悩みを打ち明ける人々
悩み相談をする人には2種類いる。自分の考えを後押ししてほしい人と、全く想像できなかった面からの考えを聞きたい人だ。凡人の凡人たる所以は、多角性が不足しているところにあるので「凡人が想像できない視点から考えること」ができない。

凡人の予想を超えた視点を持っている人は、特殊な経験を積んだ人(そもそもの主観が、凡人と違う)か、意識して多角的に考えてきた人だ。特殊な経験を積んだ人はそもそもの出自が独特だったり、普通では経験しないような困難を乗り越えてきていたりする。そういう境遇にある人は、ナチュラルに考えていることがすでに凡人から見ると想像を超えている。
意識して多角的に考えてきた人の代表例は鴻上尚史だと思う。アエラの連載などは、どの面から見ると質問者の想像を超える考えが生まれるかを把握して答えている。多角的に考えることができるからこそ、作家としても優れているとも言える。

深く、多角的に

「考える」とは?のところで、深く考えることの論拠が曖昧になる瞬間について書いた。深く掘り進めていくと、もうここから先は分解できないとか、その理由はもう「直感的に良いと思うから」のように、さじを投げ出したくなる。人力では困難なので「データがそう言ってます」となる。

もう掘り進められないとき、さらに掘りすすめるやり方以外に、別の角度から見る方法がある。2(深さ)と3(多角)をくっつけるやり方だ。

日本史が考えるための材料になるのは、それが視点をずらす要因になるからだ。
「いま・ここ」から考えるだけだと、「いま・ここ」から見える景色だけで考えを進めることになる。歴史的な視点、時間軸を入れるだけで「江戸時代・日本」「明治時代・日本」などの視点を導入できる。また、「江戸から明治にかけて」とか「昭和から平成にかけて」とか、長い目で見ることもできる。「いま」だと長い目じゃなく、とても短い。刹那的。セミ並。

そして海外に出ることも、視点をずらす方法である。
「いま・ここ」ではなく、「いま・アメリカ」、「いま・韓国」、「いま・ナイジェリア」からの視点。いまのナイジェリアのラゴスから東京を見ると、日本はどう見えるか。いま・ここ視点と比較すると考えがまるっきり変わってくるはずだ。日本には日本に住んで日本語で生活して日本人とだけ話す人が多いので、外国からの視点で語るだけで、日本では需要がある。

群れになること・ならないこと

行動することは考えることを促進し、多角的に考えるために必要なことではある。ただ家を出て、外を歩くのも、多角的な考えに至る一歩だ。

だけど考えなしの行動は、上に書いたとおり、群れになることを意味する。群れはコモディティ。良くいえば羊。悪くいえばゾンビ。羊は一見かわいいが、羊飼いにいつも追い立てられ、蓄えた毛も無残にも刈り取られる。


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