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「死を想え」とは?

時はただ流れていく…

ダラダラと進む毎日をダラダラさせないために〆切がある。ダラダラと遅刻させないために待ち合わせの時間がある。

ある人はその〆切から逆算して、いまやるべきことを決めていく。待ち合わせ場所に行くのにいつ家を出れば良いかを決め、いつ支度をすれば良いかを決める。

〆切のない日々はダラダラと過ぎていく。
そこにある日突然やってくる人生の〆切が死だ。

死を想えとは…

スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチにもあった「死を想え」。ジョブズは余命を宣告されたからこそ、毎日鏡に死ぬかもと語りかけながら生きてきたそれまでよりも、強く死を感じただろう。しかしそうやって実際問題として死を意識する境遇に立った人と、なんの病気にもかからず健康に生きている人とでは、死に対する意識は変わってくる。

たとえ余命を宣告されたとしても、死が間近に迫るまでは自分の死を信じられず、ダラダラと過ぎてしまうことはあるかもしれない。透析を中止して亡くなった方のニュースを見ると、透析中止の判断をしたときと、死が間近に迫ってきたときとで、全く違う心理状態になったのだと思う。

卑近な例に戻すと、たとえ仕事の〆切が設けられていたとしても、直前になって焦り出すということは多々ある。

無邪気に笑い、ぬくぬく過ごす

まさか自分が死ぬことはあるまいと、死を意識せず、のんびりと過ごす日々は幸せだ。子どもは、死を一切感じたことのない無邪気な笑顔を見せる。
ぼくの妻は幼少期を南国で過ごしたせいなのかわからないが、働かない時間をとても幸せそうに過ごしている。ソファで横になって毛布にくるまっている妻を見ると、これが人間としての理想の姿なのでは…と思うことがある。
そんな妻を見ながら、ぼくは仕事を忘れることができず、いま進めている案件のアイデアや、次の仕事のタネを探す。

死と出会う

死を想わずに、昨日までの思考の流れを断ち切るのは難しい。今日の自分は、昨日までの思考の続きの中に生きている。

「アウシュヴィッツ以降、詩作は野蛮である」

とは、最近読んだ『歴史という教養』(片山杜秀/河出新書)で紹介されていたアドルノの言葉だ。

人類が起こしてしまった虐殺の歴史を忘れて、ただ自らの人生の喜びを歌い上げる詩を作ってどうするんだ、という批判がそこには込められている(たぶん)。

個人の「死を想え」と、アウシュヴィッツの悲劇はここでは純粋に対比はできないけど、死を想うなら無邪気には笑えない。死を想う人生は、悲しみや緊張感が伴う。

再び無為に生きる

つまり、本当の意味で死を想うことはとてもツライことだ。だからこそ人はすぐに死を忘れ、無為に生きる。で、ぼくは無為に生きる日々も最終的には肯定したい。たとえ死の間際に、何も成し遂げなかった自分を再認識し、それまでの人生を後悔しそうになったとしても、何も成し遂げずに生きてこられたこと、無為に過ごしながらも生きられたことを満足しながら世を去れば良いのだ、と思いたい。



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