私が私を認めたとき ー LGBTとヘテロとシスと私 ー
私は女性の体で生まれました。メイクをして、オシャレに身を飾ることもあります。でも、ときおり私は、生まれてくる性を間違えたのではないかと思うのでした。
女性としての私
「女性らしさ」を考えたとき、パッと思いつくものがない程度に私は女性らしくありません。
しかし、周囲からは「女性らしい」と言われます。それは私が相手との関係の中で築いてきたものです。
子どもの頃、私は人間関係に不器用で、多くの人を不快にさせたり、迷惑をかけたりしていました。迷惑は死んでもかけ続けるでしょう。それが私の知る人間です。
でも、不快にさせないということは、ある程度コントロールすることができます。相手を理解したり、気を配ったりです。
周囲の私に対する「女性らしい」という評価は、私の努力が形を成したものなのです。嬉しいです。これからも頑張って継続します。
もう一つ、私の服装が「女性らしい」という評価を作っているのだと思います。「おとなしい」とか、それまんま私の服装の印象ですよねって思っています。もちろん嬉しいです。
人から好印象を持ってもらえるかどうかは、身だしなみで半分決まります。言い切ります。営業時代の経験です。
人によってはもっとだと言ったりします。でも、逆に私は半分で十分です。八割十割目指すほど身だしなみにこだわれません。
私はよく前開きのブラウスを好んで着ています。ブラウスは体のラインを綺麗に整えて女性らしく見せてくれる服です。
髪は長いです。それだけで女性らしさに一役買ってくれます。女性らしさのために伸ばしているのではありませんが。
他にも平均より背が小さいとか、アニメのようなと形容されるほど声が高いとか、そういった表面上の諸々を含めて「女性らしい」と言われます。
私が自分の体を活かせている証拠ですよ。
ゴジラやモスラが好きだった子ども時代
私が子どもの頃、一番流行っていたのはセーラームーンです。保育園では毎日のようにセーラームーンごっこをしていました。
他にもクレヨン王国とかいろいろありましたが、何一つ内容を覚えていません。保育園の間は友人たちと遊ぶために見ていました。
幼稚園に上がると、ごっこ遊びをしたり、アニメの話をしたりすることがなくなります。私は「飽きた」と言って、これらを見なくなりました。
少女向けのアニメはだいたい1か月くらいの周期で飽きていました。ひみつのアッコちゃんとか、魔法使いサリーとか、キューティーハニーとかいろいろ見ましたが夢中になれるものはありませんでした。
飽きなかったものは、ゴジラやモスラです。まだビデオだった頃、近所のビデオ屋さんで何度も借りていました。
父がビデオやDVDを借りていろいろ見るのが好きだったんです。よく連れて行ってもらっては、いろんなアニメを借りて見ていました。
思春期のガンダム
私が十代の頃、ガンダムSEED というアニメが流行ります。特に女の子に人気でした。教室では、どのキャラクターが好きかという議論がされていました。
また、BLが流行り始めた頃でもあったのかな? 男性キャラを女装させるのもよく見かけました。すごかったです。キャラの特徴を捉えて、とてもよく似合っていました。
ガンダムが好きだと言うと最初に聞かれたのは「どのキャラクターが好き?」ということでした。最初、戸惑いました。私は文字通り、ガンダムの機体が好きだったのです。
キャラクターはといえば、主人公キラは女より女々しいし、フレイは性格が歪んでいるし、アスランやカガリは正義感が強すぎて「何言ってんだコイツ」と冷めた感じで見ていたし、ラクスは掴みどころがなくて「この子夢の中で生きてるのかな」と思っていました。
ぶっちゃけた話。戦争というネガティブな背景に、ドロドロで複雑な人間関係が、私には難しすぎてわかりませんでした。機体は覚えていますが、今でもストーリーは知りません。
戦争の中で殺し合いをしている、ということだけを辛うじて理解していたぐらいです。アニメの時間、私はガンダムたちだけを追っていました。登場人物の愛憎劇などどうでもよかったのです。
戸惑った私は、長い熟考の末に「ハロが好き…… 」と変な答えをしたのでした。質問してきた子も、何とも言えない微妙な表情を作って去っていきました。
のちに、私が好きなのは機体だと言うと、女の子たちはみんな、一様にそうなんだと流します。そして、キャラクターたちの話に戻っていくのです。
「男みたいな話し方をするよね」
去年、友人に言われた言葉です。彼は自分のことを「男だけど女脳なんだよね」と言っていました。
私は感情論があまり好きじゃありません。忌避していると言ってもいいかもです。話は論旨明快だと喜びます。
以前は、感情に振り回されている人を見ると子どもか、と思ったりしていました。子どもに失礼ですね。感情のコントロールに子どもも大人も関係ありません。
案外、小さな子どものほうがうまく感情を利用していたりします。それに気づいてからは、子どもをお手本に求めるようになりました。
たとえば、保育園や幼稚園に行くと盛大にぐずるのに、母親が見えなくなるとコロッと態度を変えて遊び出す子がいます。それは私のことです。
あの頃の私は「道具としての感情」「心としての感情」など、感情をそれぞれ区別してコントロールできていました。我が事ながら当時の自分を尊敬してしまいます。
もう今は忘れてしまいましたが、学生の頃、因数分解が好きでした。イコールに結ばれた英数字の中に筋が一本通っているように見えたからです。
逆に、「説明せよ」という問題が苦手でした。内容が理解できなかったわけじゃないんですよ。でも、ぼやけて筋が見えなかったんです。
何かがわからない、しかし、それが何なのかもわからなかったんです。先生や周囲の大人に聞いても、その理解であってるとしか言われません。
モヤモヤする私に、理解できてるのに何がわからないの? なんて逆に問いかけられました。それがわかったらモヤモヤなんてしません。
また、私は物ごとの構造に興味がありました。壊れて、捨てられそうなものを見ると、父の工具やドライバーを拝借しては、中身を見ていました。そして、母に見つかって怒られるまでがセットです。
オモチャをバラした経験は、物理を習ったときに活きました。てこの原理や滑車の原理など、オモチャに使われていたりします。
でも、これらは母や妹からすると理解が出来なかったようです。道理を求めれば冷血と謗られ、モノの構造を見れば破壊魔と頭ごなしに叱られました。
LGBTと私
LGBTという言葉が出てきた頃、私はオカマとかニューハーフとか呼ばれる人たちに親近感を持っていました。
失礼な話ですが、女性の皮を被った男というところに共通点を見出したのかもしれません。実際は逆です。男性に生まれてしまった女性です。だから女としての装いをしているんですよね。
一方で、彼らが「女性としての自分」にこだわることに強烈な違和感を覚えました。性ってそんなに大切なの? 好きなものを好きじゃだめなの?
オカマやニューハーフを否定したいわけじゃありません。テレビの向こうで見る彼らが「女性としての自分」にこだわるあまり、男の体や機能を否定していることに、私はモヤモヤしてしまったのです。
LGBTのニュースは私にとって大事な情報でした。性と何か、問題を通して問いかけてくるのです。
私は同性から理解された経験が少ないです。自分を女だというには、よく知る女の子たちと私自身が大きくかけ離れていました。
たとえば、共通する甘いものが好きを、ひとつとっても違うのです。可愛くて食べられないと言いながら食べるのが女の子です。
食べて美味しいか美味しくないかを判断するのが私です。「食べられない」なんて思ったことも、言ったこともありません。
洋服や雑貨など、可愛いものに目をキラキラさせるのが彼女たちです。ロボットや怪獣などを見て、カッコいいと目を輝かせたりはしません。
物語ではキャラクターの個性や関係性に注目しがちです。登場人物たちが感情に振り回されれば振り回されるほど喜ぶ傾向があります。ダメ出しなんてしてはいけません。
じゃあ、私は男なのでしょうか? かっこいいものに心惹かれたら男なのでしょうか? 論理的思考をするのが男なのでしょうか? 本質を探すのが男なのでしょうか? 全部違う気がするのです。
女性とはかけ離れ、男性にもなれません。いったい、私は何なのでしょう。
LGBTとは、性自認や性的指向だといわれています。どれも理解できないけど、なんか違う気がします。
私は共感してもらった経験は少ないけど、馴染めないということもありませんでした。しかし、マジョリティであるというには、やっぱり彼らもまた、私には理解できないのです。
なぜ女に生まれたというだけで、男性だけを恋愛対象とするの? 女性にだって素晴らしい人はいるでしょう。なぜ愛と友情を性別によって区別するのでしょうか。
どうして男性が婦人服を身につけるのは忌避されるの? 女性が男装することを忌避する人は見たことがありません。しかし、男性が女装をすることを気持ち悪いとか、みっともないと言う人が一定数いるのです。
結局のところ、LGBTもテヘロセクシャルもシスジェンダーも行き着くのは性へのこだわりです。性にこだわること、これが私には理解出来ないのです。
男女の両方を好きになるバイセクシャルは、こだわりがないのかなって思ったこともあるけど、そうでもないみたいです。性自認と性的指向は異なるのです。それはそれ、これはこれでした。
こだわることが悪いわけではありません。何かの本にこだわりを捨てると楽になる、と書かれているのを見かけたことがあります。でも、こだわることで楽になることがあることも知っています。
こだわるというのは、自分を持つということです。こだわりが意見になり、価値観を作ります。こだわりに雁字搦めになると窮屈なこともありますが、こだわりを大切にすると自分の中に芯が一本通ります。
全てのこだわりを捨てるということは、自我の崩壊を指します。普通の人は生きてなんていられません。
これが私
やがて、LGBTにもマジョリティにも当てはまらない Q+ というものが足されました。性がわからない、性を決めない、曖昧さの多様性を認めるという意味らしいです。
私は、この言葉を知ったとき、女にも男にも寄りたくないと必死に抵抗する自分に気付きます。だから性に対するこだわりを理解できなかったのです。私が自分を守るために理解を拒絶していたのでした。
モヤモヤとトグロを巻いた心が晴れた気分です。スカッとしました。
自分の本音が分かれば話は簡単。男性的な自分も、女性的な自分も、どちらにも寄らない人間としての自分も、全部ひっくるめて「私」です。これが私の性です。
合理性を求め、メイクもオシャレも楽しみ、怪獣やロボットを好きだと口にします。全部これまで通りでした。何も変わりません。今までの私でいい、そんな自分が私は好きで大切なのです。
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