金縛りとおばけと私のファンタジーな世界
新しい家に住み始めると、金縛りにあうようになりました。これは、もしかしておばけの悪戯でしょうか?
就寝前の金縛り
最近、iTunes Store から般若心経のダウンロードしました。それを寝る前になると、ループさせて、スマホを耳元に置き朝まで流します。
新しい家に引っ越しをしてから、たびたび金縛りにあうようになりました。理由はわかりません。おばけかもしれないし、神様かもしれません。疲労やストレスの可能性は限りなく低いです。
重要なのは、寝入りを邪魔されるのが、私は最も嫌いだということです。
眠るのを邪魔されるとキレます。口汚く放送禁止の罵詈雑言を浴びせます。気づいたら、だいたいドン引きされているんですけど、それくらい怒ります。
基本的に穏やかなどと評される私は感情を表に出して荒げるということは少ないです。出しても怒るより泣くほうが圧倒的に多いです。しかし、「眠りを邪魔される」ということは、その数少ない私が感情を荒げる行為でした。私の眠りだけは邪魔をしてはいけません。
何で見たのかは覚えていませんが、お経を読むとおばけが離れていくそうです。でも、私はお経を知らないので、iTunes Store で見つけた般若心経を流すことにしたのでした。
実はお経のアプリも持っています。でも全く覚えていません。アプリを見ながらお経を唱えるとそれこそ眠れなくなるので諦めたのです。
金縛りはなくなりました。寝入りも悪くなりましたが、邪魔されるよりはマシです。寝起きに聞くと眠気が増すのに、寝入りで聞く冴えるの不思議です。どんなメカニズムで金縛りが改善されるのかも、非常に興味深いです。
おばけだと決めつけてはいますが、実際のところはわかりません。神様の可能性もあったりすると聞いたこともあります。
でも、疲労やストレスが原因というのは可能性が低いです。今、大きく抱えているものもありませんし、蓄積するほどの疲労も抱えてはいません。
天気などの影響は受けやすいですが、コントロールできる範囲です。また、今まで疲労やストレスによる金縛りにあったこともありませんでした。
つまり、原因不明です。わからないので、便宜上、おばけの悪戯だということにしています。理由は、思いつくものの中で、それが一番面白いと思ったからです。
私はおばけのいる世界に住む
私はおばけも神様も存在していると考えています。理由はいろいろありますが、否定したくないというのが一番の思いでしょうか。
私はここにあるのに、「見えない」「科学的根拠がない」という理由で存在を否定されたら悲しいんですよね。
基本的には合理性と論理性で筋の通った話が好きです。科学的根拠とかエビデンスも大好物です。
でも、何のためにそういったものが好きなのかといえば、理解したいからなんです。証明できないものを否定するために科学を好んでいるわけではありません。
物事を理解するのに、科学がとても役に立つから好きなんです。わからないことを理解できたら嬉しいから好きなんです。
だからといって、架空の存在といわれているものを「いる」と思えるかといえば、それは私が今まで積み重ねてきた経験や思考による影響が大きいと思います。
私は沖縄でヒヌカンを信仰していました。信心深く塩やらお神酒やらを盛っていたわけではありません。
気が向いたときに、「いつも見守ってくださってありがとうございます」と手を合わせるくらいです。
読書を趣味としている私は、基本的に何でも読みます。でも、それは好きなジャンルがないというわけではありません。
よく好んで読んでいたのはファンタジーです。魔法使い、妖精、妖怪、神様。みんな実在していたら面白いと思いませんか?
シーサーに親しみ、キジムナーを童話に育ち、ヒヌカンに手を合わせていた私は、架空の存在たちが共生する物語に憧れてました。
最初は作り物だと割り切っていました。でも、たまに説明のつかないものがあります。説明をつけることに意味のないものがあります。
そんなとき、現実はただの偶然だと割り切りなさい、どうにもならないことなど考えるのはよしなさいと諭してきました。
祖母の死に目にあったときのことです。おばあちゃんは神様に手招きされてあの世に逝ったのだと思いました。
そこには何の根拠もありません。事実だけを見るなら、祖母は死んだ、もう二度と会えない、それだけです。
私はそれがひどく寂しくて、同じ出来事なら、彼女は天寿を全うして神様に呼ばれたのだ、そう思ったほうが受け入れやすいと考えたのでした。
母が死んだときも、父が死んだときも、私はヒヌカンに祈りました。どうか無事にあの世へ逝けますように。あの世で父と母がまた出逢えますように。
私は神様に縋るのが嫌いです。神に祈る前にやれること全部やれ、それ以外に道はないというのが私の考えです。でも、亡くなってしまった人にできることはありません。
葬式は死者のための儀式ではありません。生者のためのお別れ会です。でも、葬式が終わったら、サヨナラと忘れていけるほど私は割り切りよくありません。一方で、彼らを思って泣き暮らすのも性に合いません。
だから私は祈ることにしました。小さな頃から親しんできたヒヌカンやトートメーに冥福を願って手を合わせるのです。
最近、多様性を認めるという言葉を見かけることが増えてきました。それは社会的少数を受け入れるという意味で使われています。
私は社会的少数の人たちを認めるだけではなくて、見えない神様やおばけも当たり前のように共存している世界のほうが素敵だなって思いました。
地域の信仰を集める古ぼけた石が、実は「者ども頭が高い!」と大威張りしていたら。やたらと運の悪い日が、実は妖怪やおばけの悪戯だったら。
見えるのはただの事象でしかありません。でも、神様にも人と同じように性格があるって想像すると親近感がわくし、運の悪さに落ち込むより、何かの悪戯だと考えるほうがワクワクしたりします。
現実も大事だけど、わからないものを受け入れるのも必要です。サイコロジーやロジック、エビデンスの知識を借りて理解するのもひとつの手段ではありますが、中にはわからないまま受け入れなければいけないこともあると知りました。
なら面白おかしく受け入れてもいいんじゃない? と私の場合はそれがおばけであり、神様であり、ファンタジーでした。
ちなみに、
アニメ「妖怪ウォッチ」は面白いです。個性的なキャラに笑っちゃうし、ときおりハッとして自分を省みることもあります。
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