見出し画像

第八章 蛇の娘③

目次とあらすじ
前回:蛇の娘②


 ユナヘルは声を発そうとして、激しくむせかえった。

 喉の奥に血の味がこびりついていて、酷く不快だった。

「だ、大丈夫?」

 スヴェは心配そうに言ったが、近付いてこようとはしなかった。

「どうしてここに?」

 ユナヘルはしゃがれた声で言った。

 スヴェは何かを考えるように口を開きかけたが、竜の咆哮が山に轟いた。

 竜はユナヘルを見失っているようだ。

 心臓が痛い。

 まるで長い夢から覚めたような気分だった。

 火花のような焦燥感が、ユナヘルの中で走り回っている。

 竜が治癒に力を使い始めるまえに、竜の前に姿を現し、戦闘を継続させなければならない。

 スヴェは、手を貸してくれると言った。

 「次」も同じことが起きる保証は無い。

 ユナヘルは後の無い戦いという緊張感を、久しく味わっていなかったことに気付く。

 これが最後なのだ。

 永遠の戦いは、ここで終わり。

 ユナヘルはほんの少しだけ、竜に悪い気がして、そしてそんなことを考えるくらい、自分の精神が擦り切れているのだと改めて思った。

「手伝って欲しい」

 ユナヘルが言うと、スヴェは使命を帯びた瞳をして、深く頷いた。

「時間がない。よく聞いて」



 ユナヘルは<空渡り>の力で、竜の元へ戻った。

 竜の体の傷はほとんど癒えていない。

 折れた角も、穴の開いた翼膜も、そのままだった。

 竜がユナヘルを見つけ、再び咆哮を放った。

 そこに歓喜が含まれていることは、決して気のせいなどではないのだと、ユナヘルは思った。

 再び火が踊った。

 鱗が剥がれ、花びらのように宙を舞う。

 鋭い爪の生えた強靭な四肢が奔り、ユナヘルの肉を抉っていく。

 視界はぼやけ、体の感覚がない。

 それでもユナヘルは動くことが出来た。

 不思議なほどに力が湧き上がってくる。

 やがて竜との距離が、三十歩分ほど開いた。

 周囲には戦いの余波により起伏の激しい地面が広がっているが、竜とユナヘルの間に障害物は無かった。

 くる。

 ユナヘルが悟った瞬間、竜の口元から閃光が漏れ出た。

 通常とは違う、特別な竜の魔法だ。

 その攻撃を待っていた。

 直後に爆光が溢れ、かつて<灰塵>の盾を貫いた死の吐息が稲妻の速度でユナヘルへ向かう。

 光の正体は間違いなく火の魔法だが、その威力は別次元だ。

 竜の体内で練り上げられ、圧縮された膨大な魔力が形を成した、紅蓮竜のとっておきの魔法。

 かつての戦いで、白色の吐息が遠くの山脈に到達し、それでも止まらず大穴を空け、背景の一部さえも変えてしまった光景を、ユナヘルは見たことがある。

 隔絶の魔法が放たれるのと同時に、ユナヘルは封じているキュクロプスの魂を握りつぶした。

 体内を蝕む激痛にあえぎながら、魔法を無効化する範囲を前方に集中する。

 竜の口から放たれた白色の吐息はユナヘルに近付くにつれて細くなり、到達するころには消滅していた。

 <灰塵>のひびが全面に広がり、ついには砕け散った。

 竜のとっておきを防ぐ代価としては安いものだ。

 間髪入れず、<空渡り>へ力を込める。

 口の中に血の味が広がった。

 エンリルの魂がすり潰れ、長槍が砕ける。

 同時に、ユナヘルの手から血の色をした雷が迸った。

 それは収束して槍の姿をかたどると、絶大な隙を晒している竜の胸元へまっすぐ走り、爆音と共に直撃した。

 おぼろげな視界の中、鱗が飛び散り、肉が抉れ、赤々とした臓器が露出したのを確かに確認した。

 竜は衝撃で横向きに倒れた。

 意識が細かく明滅している。

 視界は黒から赤から白へ、目まぐるしく変化している。

 いつ路地裏の景色が見えてきてもおかしくなかった。

 だめだ。

 まだ終わっていない。

 竜が体を起こそうとしているのが目に入った。

 竜には赤黒い雷が余韻のようにまとわり付いている。

 エンリルの魂を使った魔法は竜の体を蝕んでいるが、行動を縛るには不十分だ。

 ユナヘルは両手の魔法具を失い、身軽になった体で、背負っていた封印具を取り出した。

 <双牙>の魔法を使い、無理矢理に足を動かした。

 竜に近付き、その心臓へ封印具を突き立てるだけ。

 弱々しく地面を蹴り、あと十五歩の距離まで迫る。

 竜が首だけを起こして口を開く。

 舌の上で火の息が揺らめいた。



 ここまで来たのは初めてではない。

 竜の切り札を<灰塵>で消し、隙を晒したところへ<空渡り>の魔法を打ち込む。

 赤黒い雷がまとわりついている間は、竜はまともに魔法を使えない。

 あとは露出した心臓へ封印具を突き刺すだけだ。

 だがこの状況を作り出すころには、ユナヘルの手元に、主力である二つの魔法具はない。

 疲弊しきったユナヘルは、竜の不十分な魔法でさえ避け切れず、死に続けていた。

 これまで、どうしても足りなかったのだ。

 最後の一手が。



 開いていた竜の口が閉じ、火の息は放たれず霧散した。

 苦痛に満ちた竜の咆哮が聞こえてくる。

 剥き出しの心臓の周囲には、緑色のもやの様なものが漂っていた。

 僅かに回復してきたユナヘルの視界が捉えたのは、戦場に飛び出してきたスヴェが、右手に持った<捩れ骨>を向ける姿だった。



「竜が倒れたら、毒の魔法を?」

「そう」

「それだけ?」

「そのあとは下がって、隠れていて。絶対にそれ以上手出ししないで」

 ユナヘルの話を聞き、スヴェは困惑していた。

「私にはもっと強力な魔法が――」

「<峰沈め>を使われると、僕が近づけなくなる」ユナヘルは背の魔法具を見せた。「目的は封印なんだ。お願い。言うことを聞いて」

 スヴェは激しく動揺していた。

 自分の持つ魔法具を言い当てられたことか。

 それともユナヘルも目的が竜の討伐ではなく封印だったことか。

 困惑は消えないようだったが、最後には頷いてくれた。

 スヴェには前に出て欲しくなかった。

 今の自分は、ひびの入った魔法具。

 もう一度スヴェの死を見てしまえば、粉々に砕けてしまうだろう。



 ユナヘルは竜の苦しむ間に、さらに歩を進める。

 スヴェの毒の魔法は、かつて――二人で協力して戦っていた頃とは違い、確かに竜に効いており、その動きを止めていた。

 むきだしの心臓を直接狙ったことと、赤黒い雷の魔法が直撃して弱っていたことが理由だ。

 あと十歩。

 ここまで近付いたのは初めてだ。

 肉の焦げたような匂いを嗅ぎながら、魔法が直撃した部分を間近に見た。

 鱗や肉だけではなく、骨の一部も吹き飛ばしていたことが分かる。

 ユナヘルの身長が丸々隠れてしまう大きさの心臓を覆うように、徐々に肉が盛り上がってきている。

 傷が塞がろうとしているのだ。

 竜の力の大半は今、治癒に注がれている。

 あと五歩。

 脚が確かな感覚を取り戻す。

 竜はスヴェの方へ目を向けた。

 新たな敵を見つけたのだ。

 スヴェに向けて、即座に火の魔法が放たれる。

 視界の外で空気が焼ける音が聞こえ、竜の心臓を覆っていた緑のもやが消滅した。

 ユナヘルの胸中を、動揺の嵐が吹き荒れた。

 それでも足は止まらない。

 あと一歩。

 横倒しになっている竜の体、その胸元の心臓目掛けて、ユナヘルは封印具を突き出した。

 肉を貫く確かな手ごたえが、柄から伝わってくる。

 紅蓮竜の口から、これまで一度も聞いたことの無い鳴き声が聞こえてくる。

 まだだ。

 ユナヘルは封印具を両方の手で逆手に握り締め、心臓に向かって何度も振り下ろした。

 傷口からは鼓動にあわせて真紅の血が噴き出していく。

 返り血を全身に浴びながら、ユナヘルは何度も何度も封印具を突き刺す。

 竜の悲鳴と、ユナヘルの声にならない絶叫が交じり合う。

 穴だらけの心臓の鼓動が、徐々に遅くなっていく。

 同時に、赤黒い雷の余韻が竜の体から消えていった。

 竜は首だけ動かしてユナヘルを見た。

 ユナヘルはその青い瞳に見つめられながら、封印具を振り下ろし続けた。

 気が狂いそうになりながら、ユナヘルは何度も突き立てる。

 何度も。

 何度も。

 ――何度も。

 永遠とも一瞬とも思えるような時間が過ぎる。

 やがて竜の首がゆっくりと地面に倒れ、心臓が鼓動を止める。

 それを確認するや、ユナヘルは封印具を突き立てたまま、竜に背を向けた。

「スヴェ!」

 ばちゃばちゃと音を立てながら足元の血溜りを越え、ユナヘルは更に叫んだ。

「スヴェ!」

 先ほどスヴェが飛び出してきた場所へ目を向ける。

 そこには、竜の火の魔法によってできた真新しい地面の焦げあとがあるだけだった。

 ユナヘルは自分の胸に穴が空いたような気がした。

「そんな……」焼け焦げた地面に向かってよろよろと歩く。

 跡形も無く焼けてしまったのか。

 全身から力が抜ける。

 悪い夢を見ているようだ。

 崩れ落ちるように膝をつき、黒く焦げた地面に目を落とし――。

 近寄る足音に顔を上げた。

 ユナヘルの目が、隆起した地面の陰から駆け寄ってくるスヴェを見る。

 ああ、そうだ、毒を放った後はすぐに距離を取れと指示してあった。

「終わった?」

 スヴェは様子を伺うようにユナヘルと紅蓮竜を交互に見ていた。

 スヴェの体を上から下まで眺める。

 衣服は煤だらけで汚れてしまっているが、どこも怪我をしているようには見えない。

 竜の最期の魔法は外れたのだ。

 脱力したユナヘルは地面に倒れた。

 スヴェは地面に膝をつくと、ユナヘルを抱き起こした。

 人肌の心地よい温かさが、服越しに伝わってくる。

 スヴェの服が、ユナヘルの体に付いた竜の血で染まっていく。

 ユナヘルは申し訳なくなって、スヴェから離れようと体を動かしたが、スヴェはそれを許さなかった。

 力いっぱい抱きしめられ、ユナヘルは一瞬息が出来なくなった。

「私」スヴェは掠れた声で言った。「やっぱりおかしい」

 暖かい涙がユナヘルの頬にぶつかり、竜の赤い血と混じって首筋を伝っていく。

 スヴェは僅かに体を離すと、服の袖でユナヘルの血まみれの顔を拭っていった。

 ユナヘルに抵抗する体力は無く、されるがままにしていた。

「どうしてかな。私、あなたを知ってる」スヴェは言った。「あなたは私を知ってる?」

 頬を紅潮させ、瞳を潤ませ、スヴェはこれまで一度も見たことがないような顔をしていた。

「教えて。あなたの名前を」

 ユナヘルが答えようとしたとき、竜の方から音がした。

 ユナヘルとスヴェは同時に竜の方へ目を向ける。

 封印が始まったのだ。

 心臓に突き刺さった封印具に向かって、紅蓮竜の体が動いていた。

 まるで封印具が竜の体を吸い込んでいくような光景に、ユナヘルは目を丸くした。

 心臓、骨、肉、鱗、そして脚や翼、角の生えた頭部と、封印具に近い順に引きずり込まれていった。

 それは地面にこぼれた血でさえも例外ではなく、紅蓮竜を構成していた全ての要素が取り込まれていった。

 透明だった封印具に、内側から色が付いていく。

 脚や翼など、竜の部位が封印具から突き出しては引っ込み、激しく形を変えた。

 竜が封印具から飛び出そうと暴れまわっているように見えた。

 しばらくして、封印具の動きが落ち着くと、そこには竜の死体の代わりに、一つの魔法具があった。


次回:第九章 反抗者の帰還①

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?