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第三章 双頭の獣③

目次とあらすじ
前回:双頭の獣②


「食べないの?」

 夜。

 セドナの大森林へ向かう途中にある、人間領の小さな森で、スヴェとユナヘルは火を囲んでいた。

 あたりには野鳥の肉が焼ける香ばしいにおいがする。

 移動中の食料は、スヴェが猟をして得たものだった。

 その手際は見るも鮮やかで、スヴェがこれまでどれだけ長い旅をしてきたのかを伺わせた。

「……食欲がなくて」

「無理にでも食べたほうがいい。きみ、今にも死にそうな顔してる」

 スヴェからしてみれば、今のユナヘルは王都で殺されかけた哀れな少年兵でしかない。

 未だそのときの恐怖が抜けきれずにいるものの、姫への義理を立てて戦おうとしている。

 そんなところだろう。

 ぱちぱちと、木の爆ぜる音がする。

 ユナヘルは自分の膝を抱きかかえた。

 オルトロスに挑戦し始めてしばらく経ったが、一切進展していない。

 ユナヘルは同じことを繰り返した。

 オルトロスを前にすると、腰を抜かし、魔法が暴発して死ぬ。

 スヴェが割り込んで助けてくれたときもあったが、そうなると、スヴェはもう戦いを教えてはくれなかった。

 当然だ。

 あの程度の魔物を相手にして腰を抜かすような者に、一体何を教えればいいというのだ。

 そうなってしまったときは、セドナの大森林を抜けたところで、「自分の故郷はこの近くだから」と適当なことを言い、スヴェと別れることにしていた。

 そのときのスヴェは必ず、「きみはまだ、基本的なことができていない」と親身に助言してくれる。

 戦闘の心構えとか、これから一人でやっていく方法とか、どんな魔物を相手に戦いの訓練をすればいいかを教えてくれた。

 ユナヘルはスヴェと分かれた後、セドナの大森林へ戻り、再び魔物に挑んだ。

 オルトロスよりももっと弱い魔物を相手に戦った。

 だが、返り討ちにあうか、自爆するかのどちらかだった。

 このままでは、メィレ姫を奪還するどころではない。

 一向に進展しない現状に、ユナヘルの焦りは頂点に達していた。

 どうして魔物を相手にすると全く動けなくなってしまうのか。

 人間相手なら少なからず戦えたというのに。

 ユナヘルは昔からその兆候があった。

 軍の訓練で魔物領に入り、オルトロスよりも弱い魔物と遭遇したときでさえ、ユナヘルは金縛りにあったように動けなくなった。

 スヴェは焚き火越しにユナヘルを見て言った。

「きみが助けたい姫様って、どんな人なの?」

 ユナヘルは僅かに驚いた。

 これまで、この話題を振られたことはなかった。

「素晴らしい人だよ」

 目の前で火が揺らめいている。

 ユナヘルは焼かれる苦しさを知っている。

 今まで数々の死に方をしてきたが、その中でも最上位に入る苦痛だろう。

「昔、命を救ってもらったんだ」

 ユナヘルはそう切り出した。



 ユナヘルが生まれた村は、ウルド国内に点在する魔物領と人間領の境界――いわゆる「緩衝区」と呼ばれる区域のすぐ近くにあった。

 弱い魔物を狙って狩り、狭い畑を耕して生計を立てる、どこにでもある小さな村。

 その日の様子はよく覚えている。

 大人より一回りも大きな体を持つ、四足獣型の魔物。

 その辺りでは見たことのない個体だった。

 牙をむき出しにして、我が物顔で村の中を闊歩し、逃げ惑う村人をあざ笑うように殺し食らっていった。

 村の大人たちは魔法具を手に取り果敢に戦ったものの、あっという間に殺されてしまった。

 そのときだ。

 メィレ姫を初めて見たのは。

 迫り来る魔物に怯えていると、多くの兵士を引き連れたメィレ姫が村に現れた。

 メィレ姫が手を振り下ろすと、それを合図にして、兵士が持つ魔法具から一斉に光が放たれた。

 溜息が出るほど美しい光景だった。

 目を奪うきらびやかな光が一斉に空を走り、魔物に殺到する。

 凶暴な魔物は物言わぬ肉片となり、生き残った村人たちは救助された。

 メィレ姫はユナヘルを見つけると、駆け寄って手を差し伸べた。

 もう大丈夫。

 敵はいない。

 姫は優しい声色でそう言ってくれた。

 鮮烈な体験はユナヘルの魂に刻み込まれ、人生の行動指針になった。

 後からユナヘルが聞いた話では、村を襲ったのは魔物領の奥地に生息していた魔物で、群れの頭領争いに敗れ、追放された個体だったのだという。

 その個体は凶暴化して近くの村に出没しては襲い掛かり、多くの死傷者を出した。

 話を聞いたメィレ姫――当時はまだ十四歳だった――が、周囲の制止も聞かず、辺境の村を救うために近衛兵たちを引き連れて王都を飛び出し、討伐に来た、ということだった。

 その話を聞いて、ユナヘルはますますメィレ姫に憧れた。

 弱い者を救うために、強い者が力を振るう。

 ユナヘルもそうありたいと願うようになった。

 姫の一行に保護され、王都の孤児院に連れて来られたユナヘルは、ウルド軍に入り活躍することを夢見て日々を過ごした。

 高位の階梯の兵士になり、近衛に抜擢されれば、姫の近くにいける。

 姫を守る存在になりたい。

 ユナヘルはそれだけを考えていた。



「命の恩人、か」

 ユナヘルの話を聞いたスヴェは静かに言った。

 動物の内臓で作った水筒の口を開け、中の水を飲み、視線を再びユナヘルに戻す。

 そう。

 命の恩人だ。

 恩は返さなければならない。

 ユナヘルは奥歯を強く噛んだ。

「わたしたち、よく似てる」

「誰かに助けられたの?」

「まあね」スヴェは小さく言った。

 ユナヘルは再び驚いた。

 スヴェの生まれや、旅の目的や、その強さをどこで手に入れたのかなど、気になることはいくつもあり、これまで何度も質問してきたが、スヴェは一度も答えたことはなかった。

「どうして、僕のことを助けてくれたの?」

 思えばユナヘルはこれまで、この質問をしたことが無かった。

「助けられたくなかったの?」

「そんなわけない」ユナヘルは呟くように言った。「感謝してる。すごく」

「言ったでしょ。私も昔、助けられた。その真似をしてるだけ」

 ユナヘルはスヴェを良く見た。

 俯き気味に目をそらし、少し、赤くなっている気がする。

 照れているのだろうか。

「さ、そろそろ寝よう。明日は魔物と戦うんだから」

「別の訓練にしてほしい」

 考えるよりも先に言葉が飛び出していた。

 ユナヘルは僅かに後悔したが、もう止められなかった。

 ユナヘルの目には、断頭台に送られるメィレ姫の姿が映っている。

 ここで足踏みしている場合じゃない。

「僕が戦う相手は魔物じゃない。兵士なんだ。スヴェが直接魔法具の使い方を教えてくれるとか――」

「その兵士が使ってるのはなに?」険しい薄緑の目がユナヘルを射抜いた。「わたしたちは、魔法具を通して、魔物の力で魔法を使っているの。人に魔法は使えない。その力は借り物。それを忘れちゃだめ。どうしても嫌なら、わたし以外の人のところへいけばいい」

 スヴェは仮面のような表情のままだったが、怒りや呆れがはっきりと伝わってきた。

 ユナヘルは何も言い返せなかった。

 スヴェはユナヘルの様子を見て、眉を潜めた。

 そして視線を落とし、咳払いをしてから口を開いた。

「魔物が苦手なの?」

「……うん」

「どうして?」

「分からない」ユナヘルは俯いた。「とにかく、魔物を前にすると、動けなくなってしまうんだ」

 沼の底へ落ち込んでいく気分だった。

 死ぬのは怖くないはずだ。

 人間相手なら何度死んでも戦えた。

 じゃあ、魔物の何が怖いのだろう。

 ――血だ。血が溢れている。

 柔らかな、ぶよぶよとした、血まみれの何かが体中に降り注いでいる。

 ユナヘルは肉片の海に漂っていた。

 指と眼と、あとは骨。

「ユナヘル?」

 スヴェが何か喋っている。

 ――大丈夫。何も心配要らないわ。

 ――逃げろ! 早く逃げるんだ!

 誰の声だろう。聞き覚えはあるが、思い出せない。

 ――ユナヘル!

 悲鳴と鉄の匂い。

 むせ返るような獣の吐息を感じる。

 体は冷たい石のよう。

 早く終わって欲しい。

 痛くても苦しくてもいいから。

 お願い。

 終わって!

「大丈夫」

 近くで声がする。

「わたしがいるよ。だから大丈夫」

 柔らかな体温を感じる。

 スヴェに抱きかかえられているらしい。

 息苦しさが僅かに和らぎ、止まっていた血が巡りだすのを感じる。

「何があったの?」

 ユナヘルの目は今、かつての光景を見ていた。

 ユナヘルを中心に、全てが赤く染まっている。

「賢い魔物だった」

 凍土の底から届くような、冷たい声がする。

 それが自分の声だとは、ユナヘルはとても信じられなかった。

 これは一体誰だろう。

「子供を生かしておけば、親が助けに来ることを知っていたんだ」

「子供?」

「母さんは、僕を守ろうとしていた。母さんは僕の体を隠そうとしていた。僕は体が小さかったから、母さんの体にすっぽり隠れていた」

 何も見えない。

 母の胸元に抱きかかえられ、真っ暗だ。

 母の服からは、さっきまで料理で使っていた香草の香りがした。

 ユナヘルは嫌いだと言ったが、父が好きだからという理由で、その香草はいつもたっぷりと使われていた。

「母さんはすぐに死んだ。魔法を食らって、頭が半分になってしまって、僕を抱きかかえたまま倒れた。僕の上で、背中から魔物に食われはじめた」

 ぺちゃぺちゃ。ごりごり。ぶちぶち。

 耳を塞いでも振動が伝ってくる。

 血と、肉と、骨と、剥がされた皮を見た。

 母さんの体は、まるで花びらのように開いていて、中身が空っぽになってしまっていた。

 全ては夢の中の出来事のように現実感がない。

 何も考えられなくなった。

 早く終わって欲しかった。

「魔物は僕を見た。ばらばらになった母さんの下に、僕が震えているのを見つけた。でも僕は殺されなかった。だから父さんも死んだ」

 毎日畑で鍬を振っていた父さんが、骨董品みたいな魔法具を持って走ってくる。

「父さんはすぐに死ねなかった。しばらく叫んでいた。手と足がなくなって、それでも戦おうとしてて、まるで芋虫みたいだった。ゆっくり齧られながら、僕に逃げろと叫んでいた。ずっと。ずっと」

 ユナヘルはその光景に釘付けになっていて、動けなかった。

「……メィレ姫が助けに来てくれたのは、その後?」

「そう。父さんも母さんも死んだ後。助かった村人は、僕と、ほかに数人だけ」

 メィレ姫のために戦いたい。

 命を救われた恩を返すために。

 分かってる。

 嘘じゃないさ。

 でもそれが全てじゃないだろう?

 冷たい声に導かれて、ユナヘルはようやく自覚することが出来た。

 逃げ出したかったのだ。

 あの日、眼に焼きついた恐ろしい光景から。

 目をそらしていたかったのだ。


次回:双頭の獣④

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