第三章 双頭の獣④
目次とあらすじ
前回:双頭の獣③
焚き火は燃え尽きていた。
空が明るくなり始めていることに気付くが、心地良いまどろみが襲ってきて、ユナヘルは寝返りを打った。
こんな朗らかな気分になれたのは久しぶりな気がする。
柔らかながらも、頼もしさを感じられる体に抱きつき、その温度を受け取った。
汗のにおいがするが、不快ではなかった。
「おはよう」
耳元を声でくすぐられ、眠気が吹き飛んだ。
慌てて体を起こす。
隣では薄着のスヴェが横たわっていた。
「ごっ、ごめん」
着崩れた首元から見える肩から目をそらした。
「良く眠れた?」
スヴェは体を起こすと、上着を着込み、掛け布団代わりにしていた外套を身にまとった。
ユナヘルは気恥ずかしさをごまかすように立ち上がった。
徐々に記憶が鮮明になっていく。
ユナヘルは血の気が引くのを感じた。
スヴェを見れば、いつも以上に表情が無いように見える。
怒っているのかもしれない。
「誰にだってそういうときがある」スヴェは、ユナヘルが口を開こうとする前に言った。「だから気にしなくていい」
「その……」ユナヘルは伏し目がちに言った。「ありがとう」
「どういたしまして」
スヴェはいつもの通り、無表情だった。
◇
オルトロス相手に、最初から<篝火>を構えてはいけない。
警戒したオルトロスが放つ音の魔法で動けなくなり、そのままスヴェに割り込まれて訓練が終わる。
オルトロスが徐々に近づいてくる。
ユナヘルは少しずつ後退した。
魔物と対峙することは、死ぬことよりも恐ろしい。
だがユナヘルは一歩も引かなかった。
震える足で前に出る。
そのための体温は、既に受け取っている。
ユナヘルの口は、音を出さないように拍子を刻んでいた。たっ、たたっ、たっ、たたっ……。
ユナヘルはゆっくりとした動きで腰の後ろの<篝火>へ手をやった。
火を生み出す想像をするが、それを現実に反映させなかった。
虚構と現実の間に「蓋」をするような感覚。
ユナヘルの手にある<篝火>こそが、その境界だった。
ユナヘルの鼓動が早くなり、存在しないはずの臓器が熱を持ち始め、体内で何かが暴れ出すのを感じた。
それは出口を求めて荒れ狂うが、ユナヘルはその手綱をしっかりと握っていた。
オルトロスが前触れもなく飛び掛ってきた。
二つの頭が、競うようにしてユナヘルの体に食らいつこうと口を開く。
その動きは素早く、ユナヘルは目で追えないことを良く知っていた。
オルトロスのたくましい脚が土を蹴る音がした直後、足の力を抜いて完全に脱力した。
たっ、たたっ。
練習した拍子の通り。
膝を折るようにしてその場に仰向けに倒れこむ。
そのままユナヘルは上空へ<篝火>の先を向けた。
焼けたように赤い刀身の先へ、オルトロスの体が躍り出る。
双頭の魔物の体は完全に宙に浮いており、ユナヘルの真上にあった。
体の重みを利用したユナヘルの回避行動に、オルトロスは二組の耳をぴんと立てて目を見開いていた。
ユナヘルは「蓋」を外した。
<篝火>から放たれたのはただの「火の魔法」ではない。
死を伴う実戦で鍛え上げた、「爆発の魔法」だった。
小さな火はオルトロスの片方の頭に直撃し、爆音と共に炸裂した。
背中からその場に倒れこんだユナヘルを飛び越え、オルトロスは地面に転がった。
残ったもう一つの頭から苦悶の鳴き声が聞こえる。
ユナヘルは起き上がると、間髪入れず全速力でオルトロスに接近した。
吹き飛んだ片方の頭からは、煙と血が噴出している。
残る頭がユナヘルを捉えた。
口腔内が僅かに光る。
音の魔法が来ることが分かったが、ユナヘルの方が速かった。
ユナヘルは、生きているほうの頭の喉元に、<篝火>を深々と突き刺した。
咆哮が放たれるはずだった口元からは真っ赤な炎が溢れ、オルトロスの体内を焼き焦がしていく。
二つの頭を失い、オルトロスは動かなくなった。
初めて倒したが、それほど喜んでいない自分に気付いた。
緊張が抜け切っていないのだ。
震える手で<篝火>を仕舞い、腰にある封印具を抜き、オルトロスの前足の少し後ろの胴体に勢い良く突き刺す。
四足獣の心臓はこのあたりにあったはずだ。
と、封印具の柄を通して、弱々しい心臓の鼓動がユナヘルの手に伝わってきた。
魔物の最後の脈動が、徐々に小さくなっていく。
それと同時に、封印具が不自然に蠢き始め、ユナヘルは思わず手を離した。
透明感のあった封印具は、まるで水の中に血を垂らした様に濁っていった。
やがてつるつるとしていた封印具の表面は波打ちはじめ、粘土をこねるように姿を変えていく。
牙や爪といったオルトロスの特徴とも言える部位が飛び出したり、真っ黒な毛皮が刀身や柄に現れたり消えたりしている。
初めて見る封印の場面に、ユナヘルは呆然としつつも、興奮していた。
魔物を閉じ込めている。
そんな言葉が自然に思い浮かぶような光景だった。
しばらくして、封印具の変化が終わり、形状が安定した。
ユナヘルは、動かなくなったオルトロスの体から魔法具を抜いた。
魔法具「双牙」。
黒い毛皮をなめしたような柄を中心にして、小ぶりな短剣ほどの長さの刀身が左右に伸びている。
鍔に相当する部位はなかった。
双剣、と言っていいのか分からないが、一つの柄から二つの刃が生えている様は、双頭の魔物を想起させた。
僅かに曲がった刀身は、オルトロスの口に生えていた牙がそのまま生えているような外見で、切るより突く方が得意そうだった。
柄は実に良くユナヘルの手に馴染んだ。
まるでユナヘルの手に合わせて作られたようだった。
意識を集中せずとも、ユナヘルは心臓が一つ増えたような感覚を覚えた。
初めて<篝火>を手に取ったときよりも遥かに容易だった。
自分が封印した本人だからだろう、とユナヘルは考えた。
薄暗い森が、先ほどよりも良く見えることに気づいた。
目だけではない。
耳も鼻も、非常に鋭敏になっていた。
全力で森の中を駆け抜けてみたい衝動に駆られ、気がついたら軽やかにその場で飛び跳ねていた。
ちょっと足に力を込めただけで、自分の体の何倍もの高さまで飛び上がってしまった。
驚いて安定を欠き、ユナヘルは地面に落下して転がった。
相当な高さから落ちたにもかかわらず痛みはなく、ユナヘルはすぐに立ち上がることができた。
これが獣化の魔法だろうか。
しかし魔法を使おうという意識もなく、魔法具を手に持っているだけで、これだけの恩恵が得られている。
少し集中するだけで喉元に不思議な熱を感じ、音の魔法を放てるだろうことも分かった。
これが、魔法具<双牙>から得られる力。
ユナヘルは戦慄と共に感動していた。
「やっぱり、きみには簡単すぎたかな」
近付いてきたスヴェの言葉に、ユナヘルは苦笑した。
「スヴェのおかげだよ」
「わたしなにもしてないよ?」
「いいや」ユナヘルは首を振った。「なにもかも、きみのおかげだ」
ユナヘルは、先ほどまでオルトロスが食べていた獲物を見た。
そこに横たわっていたのは、何の変哲もない野生の鳥だった。
次回:第四章 訓練の終わり①
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