第九章 反抗者の帰還④
目次とあらすじ
前回:反抗者の帰還③
頭上には、重たい灰色の空が広がっていた。
スヴェがウルドの王都にたどり着いたのは、竜を封印してから四日後のことだった。
王都は慌しかった。
人の往来が激しく、あちこちに兵士が立っている。
民たちの表情には不安の影があり、すれ違うたびに彼らの会話が嫌でも耳に入ってきた。
――処刑が行われるというまさにそのとき、突如現れた「竜の亜人」によって姫は救われた。
立ち向かった兵士たちは皆焼き尽くされ、あのヴィトス・ゾームですら敵わなかった。
――後日、失踪していたとされていたフリード・パルトリの生存が、領主ラグラエルの報告によって確認され、王子派の者の手によって殺されかけたという事実が明るみに出た。
――それに合わせ、姫がデフリクトと内通していたという証拠が捏造だと発覚し、ついに王子派は瓦解した。
デュリオ王子の処分はまだ決まっていないが、国外追放に落ち着くだろうとの話だ。
――だが姫は、民の前に姿を現さない。
噂では、心を病んで床に伏せっているという。
民たちには複雑な感情が渦巻いているようだった。
王子が失脚し、姫が助かったことは素直に嬉しい。
だが、姫を助けた竜の亜人は一体何者なのか、フェブシリアとデフリクトの動きはどうなるのか。
どこもかしこも、その話題でもちきりだった。
ほとんど休息も補給もせず、ひたすら王都を目指して移動してきたスヴェは、非常に消耗していた。
空腹で眩暈がするが、そんなことは気にしていられなかった。
やがて、大降りの雨が降り出した。
王都の人々は我先にと屋根の下へと避難し、露天商たちは慌てて商品を片付け始めた。
スヴェは濡れるのも構わず、気配を探り、一直線に王宮を目指した。
スヴェの相手になるような兵士はいない。
魔法具を駆使して気配を消し、門番の脇をすり抜け、巨大な門を潜り、王宮の敷地の中へ滑り込んだ。
彼の気配は、建物の奥だ。
建物の影に隠れるようにして、敷地の中を進んでいく。
気付かれないように人の領地へ潜入するなど初めての経験だったが、魔物領の中を魔物に気付かれずに歩くよりも簡単だった。
王宮にいるほとんどの人間が魔法具を手に持っている。
位置は丸分かりだ。
絢爛豪華に彩られた王宮の中を進んでいると、とある部屋の扉の中から、あの少年の名前を話す声が聞こえた。
スヴェは足を止め、扉の前で耳をそばだてた。
「ご苦労様です。ミセリコルデ」
「――オルコット様、あいつの言ってたこと、本当でしょうか。その、時間が巻き戻るとかどうとか……」
「分かりません。ですが、彼は途方も無い力を手に入れた。それは事実です。フリードが戻り次第、いろいろと相談しないといけませんね」
「……姫様の様子はいかがですか?」
「使用人の話では、食事も満足に取られないそうです。自力で動くこともできず、魔法の力を借りなければ栄養失調で死んでしまうでしょう」
スヴェはその場を離れた。
早く行かなければ。
彼は、姫を助けるために王都へ向かうと言っていた。
その姫になにかがあったらしい。
きっと泣いている。
竜を封印できるほどの強さを目にしているのに。
スヴェは、あの少年が、見た目ほど強くないことを知っていた。
どうして知っているのだろう。
スヴェは自分がおかしいことに気付いていた。
あの少年のことを考えると、心がかき乱されていくようだった。
通路を駆け抜け、兵士の視線を掻い潜り、少年のもとへ音も無く走った。
最初に何を言うべきかは、もう決まっていた。
◇
ばちばちとガラスを叩く音がして、膝を抱えて座り込んでいたユナヘルは、ゆっくりと顔を上げた。
窓の外を見れば、暗鬱とした曇り空から、大粒の雨が降り注いでいた。
疲れた眼でそれを眺めたあと、室内を見回した。
あてがわれた客室は立派なものだったが、いまや煤と灰だらけの異様な空間と化していた。
部屋のあちこちには真新しい焦げ跡があった。
窓のカーテンは残っておらず、立派だった寝台は見るも無残な燃えカスとなっている。
傍らには、赤い鱗の魔法具が転がり、仄かに熱を放っている。
ユナヘルはそれを一瞥すると、膝を抱え込んで再び俯いた。
あれから数多くの方法を試したが、どうやっても死ぬことが出来なかった。
竜の魔法具からどれだけ距離を取っても、繋がりが消えることはなかった。
魔法具から伸ばされた「手」が、ユナヘルを掴んで離さないのだ。
魔物領に赴き、底が見えないような深い谷へ捨てたこともある。
だがそのときは――信じられないことに――魔法具から不恰好な翼が生え、不安定ながらも自力で飛行し、ユナヘルの元まで戻ってきたのだ。
この魔法具はなにもかもが規格外だ。
普段はこうして魔法具の姿を取っているが、再び完全に竜の姿へ戻るかもしれないとさえ思わせる。
ユナヘルは忌々しく思いながらも竜の魔法具を傍へ置くほかなかった。
もちろん分かっている。
例えなんらかの方法で死に至ることができ、ウルドの魔法が正常に機能して、あの始まりの夜に戻ったとしても、姫の正気は取り戻せない。
これまでの事情は、あらかたオルコットに話してあった。
彼は半信半疑だったが、ユナヘルには詳しく説明する気力は残っていなかった。
誰も彼も、ユナヘルを恐れているようだった。
ミセリコルデも、メィレ姫を助け出そうと一緒に戦った仲間の兵士たちも、同じ目でユナヘルを見た。
かつて竜を前にしたユナヘルのように、恐ろしい魔物を見る目で、ユナヘルを見たのだ。
もしかしたら、自分は本当に魔物になってしまったのかもしれない。
ユナヘルは自分の体に起きている変化を思い浮かべ、素直にそう思った。
体温は異様に高く、魔法を使おうと意識することもなく力を使える。
不意打ちを受けても勝手に防御する。
傷は即座に治り、死すら覆す。
だがそれも、もうどうでも良かった。
失敗した。
姫は待っていてくれたのに。
間に合わなかった。
最初に姫を助けることができたそのときに、旅を終わりにするべきだった。
姫を助けて、満足しておけばよかったのに。
そのために頑張ってきたはずなのに。
ユナヘルは強く目を閉ざした。
手に入れた力の使い方を教えてくれたのは姫だ。
姫が自分を救ってくれたように、今度は自分が誰かを救いたかった。
まず姫を助けなければいけなかったのに。
欲張ってしまった?
もともと、どちらかしか救えなかった?
片方だけなら、姫を選ぶべきだった?
――スヴェは、死ねばよかった?
そんなわけない。
思考が巻き戻り、同じところをぐるぐると回っている。
「こんなのってないよ……」
目頭が再び熱くなる。もう幾度泣いたか分からない。
涙はユナヘルの肌を伝って零れた。
じゅっという音がして、床の上に焦げ目が付く。
細い煙が立ち上り、木の焼ける匂いが漂った。
傍らにある巨大な魔法具を、涙でぐしゃぐしゃになった顔でにらみつけた。
怒りや悲しみが次々と押し寄せてくる。
どうすることも出来なくなって、ユナヘルは大きな嗚咽をあげた。
「こんなっ、こんなの、ひどいよ……」
あんなに頑張ったのに。
あんなに戦ったのに。
あんなに死んだのに。
室内の温度がみるみる上がっていく。
見れば、壁の一部が燃え上がっていた。
ユナヘルは鼻水をすすりながら、湯気を上げる涙を拭った。
感情を落ち着かせながら軽く手をかざすと、火は嘘の様に消え、焦げあとだけが残っていた。
姫の寝室から遠く離れた客室に居る理由がこれだった。
力を制御できていない。
ユナヘルの感情に連動して、魔法具の力が暴発する。
竜を制御下において間もないからか、封印が不完全だったか、封印具ではそもそも封じられない存在だったか。あるいは、それら全てか。
――姫の傍に居られない「言い訳」が出来て、ほっとしているだろ?
ユナヘルは頭を振った。
何も考えたくない。
これからどうすればいいのか。
旅は終わってしまった。
姫はもう動かない。
これからずっと、寝台の上に横たわったまま。
魔法の力で命をつないではいるが、死んでいないだけだ。
姫を元に戻す方法はあるのか?
あのウルドが諦めたのだ。
時さえも操る絶対者が、姫は死んだも同然と言った。
そうなったのは、誰が何をしたから?
何を間違えたから?
――じゃあ、スヴェなんて見捨てればよかった?
数え切れないほどの魔物や兵士を倒して、気の遠くなるほどの始まりの夜を迎えて、心が擦り切れるまで竜と戦って、そして今、新しい闇を迎えた。
これまでとは比べ物にならない、深く、暗く、濃い闇。
これまでの闇は、どうやって振り払った?
これまでは、どうやって――。
がちゃりと音がして、ユナヘルは顔を上げた。
どうやら気配を隠していたらしく、ユナヘルは僅かに驚いたが、ドアの向こうに誰が居るのかはすぐに分かった。
スヴェは、入ってきたときと同様に静かにドアを閉めた。
相当急いでここまで来たようで、肩で息をしている。
全身雨に濡れており、顔色も悪かった。
背負っていた荷袋が床に落ちて大きな音を立てた。
外套のフードを脱ぎ、結わえていた髪を解いた。
長い黒髪からは水が滴り落ちていく。
スヴェは部屋の様子を見ても、ユナヘルの姿を見ても、驚いていないようだった。
足元に焦げ跡など無いかのように、スヴェはユナヘルに向かって一歩進んできた。
その翡翠の瞳は、生命力を湛え、強固な意志を感じさせた。
夜の星のようにきらきらと光って、輝いている。
あの日、初めて会ったときと同じだ。
スヴェは生きている。
ずっとその瞳を見てきた。
ずっと。
ずっと――。
濡れた唇が開きかけて、酷いしゃがれ声が飛び出した。
「ありがとう」
スヴェは眉を上げ、目を見開いた。
聞こえてきたのはスヴェの声ではない。
ユナヘルは自分の口元に触れた。
唇が開いている。
僕だ。
僕が言った。
これは、僕の声だ。
「……ありがとう」
再び、よりはっきりとした声で、ユナヘルは言った。
言葉にすることで、頭の中の暗闇が晴れていく気がした。
「どうして……」スヴェが呟くように言った。「どうしてあなたが私に……」
そうだ。
助けたかった。
「僕は、君を助けたかった」
生きていて欲しかった。
死んで欲しくなかった。
「君が生きていてくれて、嬉しいよ」
――スヴェは、死ねばよかった?
違う!
そんなわけない!
メィレ姫が助けてくれたように、スヴェを助けた。
そのことが、間違いであるはずがない。
スヴェが生きていることを、間違いにしてしまっていいわけがない。
ユナヘルはよろよろと立ち上がり、スヴェに近付いた。
目線の高さは彼女の方が僅かに上だ。
両手を掲げ、いつくしむようにスヴェの両頬に触れた。
見ろ。
スヴェは生きている。
こうして今、目の前で、息をしている。
話をしている。
ここにいて、こっちを見ている。
心臓が動き、血を巡らせ、柔らかな温かさを持ってる。
スヴェはこれまでにないくらい顔を赤くして、視線を宙へ泳がせた。
ユナヘルは、自分の異常な体温が伝わってしまったのかと思い、手を戻そうとしたが、スヴェの手に上から押さえつけられた。
「わっ、私は、生きてるよ」震える声と、震える手。「その、ユナヘルが竜を封印してくれなかったら、きっと私たちの集落は滅ぼされていた」
スヴェは潤んだ目でそう言った。
そう。
スヴェを助けるために、竜を封じた。
御伽噺でしか聞かなかったはずの竜は実在した。
時間を巻き戻すなどという、信じられないような魔法でさえ存在した。
姫の心を取り戻す方法がない?
竜の魔法具を持つユナヘルに、ウルドは「我が力では届かない」と言った。
ウルドの力は、竜に敵わなかった。
その竜を封じたのは誰だ?
誰が竜を倒した?
僕だ。
僕が竜を封じ、スヴェを助け出した。
ウルドがこの世界の全てを知っているなどと、なぜ思ったのだろう。
メィレ姫は、永い時の中で心を失ってしまった。
メィレ姫も記憶を引き継いでしまう以上、やり直しの力ではどうしようもない。
ならばやることは、竜の魔法具から逃げ出して、死に至る方法を、あの始まりの夜へ逃げ出す方法を探すことではないのだ。
この部屋に閉じこもって、過去の選択を悔いることではないのだ。
「行かなきゃ」
「どっ、どこへ?」
「やらなきゃいけないことがあるんだ」
姫のために。
自分のために。
そして、スヴェのために。
スヴェの命が間違いなどではないのだと、証明するために。
姫の心を取り戻す方法を探すのだ。
「私も!」スヴェの声は室内に響いた。「……私も、手伝っていい? 手伝いたい」
ユナヘルは眉を上げた。「……どれだけかかるか分からないよ?」
「どれだけだって、かけていい」スヴェは赤い顔でユナヘルを見た。「……青い瞳」
「――え?」
「綺麗だね」
スヴェの言葉がやけに澄んで聞こえ、そこでようやく、窓を叩く雨音が止んでいることに気付いた。
赤い鱗の魔法具が、僅かに熱量を増した。
◇
気の遠くなるような永い旅は、まだ終わっていない。
失ったものと、取り戻したいものと、手に入れたものを見比べる。
これまでも、これからも、ずっとその繰り返しだ。
次の旅は、またすぐに始まる。
< 完 >
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