【クリーチャーの恋人】2-8 禁忌
2-7 発露<<前 <表紙とあらすじと目次> 次>>3‐1 傷口
そこは昼前の役所だった。
主婦や老人が数多く居て、ざわついている。
モナは人の列に並んでいた。
相変わらず肌の露出が多い恰好で、多くの人がモナのことを盗み見ていた。
だがモナは気にしなかった。
彼らの反応は想定されたものだからだ。
「次の方どうぞ」
順番が来て、モナは足を進めた。
カウンターの向こうには、役所の制服に身を包んだ井口風香が座っていた。
「本日はどのようなご用件で……」井口はモナの姿を見て動きを止めた。「えっと、こんにちは」
「こんにちは」
「いっちゃんの彼女さん、ですよね?」
「そうです。恋人です。あなたは柏木雄一郎とどのような関係だったんですか?」
「……あの、本日はどういった御用件ですか?」
「柏木雄一郎についてのお話を聞きたくて来ました」
「はい?」
井口は困惑しているようだった。
「柏木雄一郎についてのお話を聞きたくて来ました」モナは全く同じ言葉を返した。
井口は周囲を見回して声のトーンを落とした。「申し訳ありません、仕事中ですので……」
「いまは話せない?」
「ええ、そうです」
「いつ話せるようになりますか?」
「えっと」井口は背後の上司へ視線を向けた。「もうじき昼休憩なので、その……」
「どこで待っていればいいですか」
――――――・――――――・――――――
柏木は大学を休み、一日中窓の外を眺めていた。
本当に何もしていない。
たまにスマホをいじるくらいで、全く無気力だった。
あんなに一生懸命やっていたクラゲの変身練習も、まったくやらなかった。
ミラルは出かけている。
「このあたりのカラスの群れの長になってきます」と言って出かけたのが二日前で、まだ戻ってこないところを見ると、苦戦しているのかもしれない。
腕が四本あるブルータス像が麦茶をコップに入れてベッドサイドにおいてくれた。
「ありがと」柏木はベッドから起き上がり、麦茶を飲み干した。
ブルータスは何も言わずにキッチンへ戻っていった。
今日の夕飯の準備を進めてくれている。
柏木の動きに反応して、ベッドのそばにいたクラゲがのそりと体を起こした。
クラゲの頭を撫でていると、少し気持ちが落ち着いてきた。
もうモナと一週間も口をきいていない。
二人の間に漂う空気は、真っ黒な排気ガスみたいに最悪だった。
柏木は関係を修復しようとした。
だがうまくいかなかった。
モナが自分の心を覗き込んでいるのではないかと思うと、言葉が出なくなったのだ。
モナもそんな柏木の様子を見て、何も言わなくなった。
会話のない熟年夫婦のような状態が続いていた。
一応、明日はモナとデートの約束をしているが、ひどいデートになることも約束されている。
「まいったなぁ……」柏木はぼやき、クラゲの喉を撫でた。
クラゲの頭を両手で挟みこみ、一度目を閉じた。
頭の中にイメージを浮かび上がらせ、じっくり時間を取ってから目を開く。
するとどうだろう。
体は犬で、頭部はクワガタの生き物がいた。
そいつはクワガタの口で「わんわん」と鳴いた。
「失敗」柏木は再び一人でぼやいた。
本当はカブトムシの顔を作るつもりだった。
虫であることは同じだから、うまくいっている方なのかもしれない。
変形の練習をやめてクラゲの尾を引っ張り、リセットした。
クラゲは再びただの犬へ戻った。
柏木はクラゲの頭に手を置いたまま、目を閉じて肩を落とした。
心が読めるという事実について倉谷に長文メールで文句を言ったが、『もしこのことを知っていたら君は引き受けなかった』という返事が短く返ってきた。
全くその通りだ。
心を読める相手と恋人関係になることなんてできない。
こっちの考えが筒抜けな化け物と、どうやって仲を深めればいい。
恋人関係という思考から、すぐに井口風香のことが頭に浮かんだ。
当時のことを思い出して、柏木は痛む胸を押さえた。
気分が悪かった。
柏木は自分が酒好きじゃないことを幸運に思った。
もしそうなら、間違いなくアルコール依存症になっていただろう。
めきめきという音がして目を開けると、クラゲが変形を始めていた。
クラゲは、柏木が接触しているときに限り、柏木の思考を読み取り変形する機能があった。
クラゲは毛が無くなっていき、表面に肌色が増えていった。
手足は伸び、胴体が持ち上がり、乳房が現れる。
それはまるで人間になろうとしていた。
数秒後、井口風香の裸が目の前にあった。
今現在の井口より、数年ほど若い姿だった。
実に精巧に再現されており、柏木は絶句していた。
なんでこれはこんなにうまくいったんだ。
井口の尾てい骨あたりで、犬の尾が引っ込んでいくのが見えて、柏木は飛び上がった。
まずい、クラゲのリセットボタンが無くなったら、モナにリセットを頼まなければならなくなる。
そんなのあり得ない。
クラゲで裸の女を――しかも井口風香を作っていたなんて知れたら、ただでさえ最悪の空気が一体どうなるのか、想像すらしたくなかった。
突然、玄関の方から足音が聞こえた。
モナが帰ってきたのかもしれない。
「勘弁してくれ!」
柏木は裸の井口に腰に飛びつき、引っ込んでいく尾をなんとか掴んだ。
クラゲが元の犬に戻るのと、玄関のドアが開くのはほぼ同じタイミングだった。
柏木はクラゲを撫でるふりをしながら、玄関へ目を向けた。
現れたのは井口風香だった。
「……は?」
柏木はぽかんと口を開けた。
井口は役所の制服姿で、ますます困惑した。
「いっちゃん」井口は捨てるように靴を脱いで、柏木に近づいた。「ずっとこうしたかった」
髪がふわりと揺れ、懐かしいシャンプーの香りがして、くらくらした。
同時に吐き気がこみあげる。
柏木は井口から一歩下がった。
「いっちゃん?」
井口は不安そうに首を傾げた。
「モナ、やめてくれ」
あり得ない。
井口風香がこんなことをすることだけは、あり得ないのだ。
途端に、井口の体は崩れていく。
服も一瞬で変わり、身長も伸び、髪の色も金に変わり、いつものモナが現れた。
「どうして分かったの?」
「なんでこんなばかなこと……」柏木は言葉も出ない。
「ユウが喜ぶかと思った」
「喜ぶだって?」
「私は井口風香の姿になれる。言動も再現できる。
そして、人間は魂を知覚できない。つまり私は井口風香の姿になれば、ユウにとって井口風香になったことと同じだ。
なのにどうして喜ばない」
「心が読めるんならわかるだろ」
「何度も言っている。感情の波が分かるだけ」モナの表情は変わらなかったが、落ち込んでいるように見えた。「喜んでいないことや、苦しんでいることがわかるだけ。なぜ傷ついている?」
「むしろどうして喜ぶと思ったんだ」
「ユウは井口に愛されたがっているように思えた」
柏木は唇をかんだ。「それは昔の話だ」
「ユウと井口風香が向け合った感情は、非常に複雑だった。恐れや怒り、郷愁や憐憫、そして奥底に強い愛情があった。男女の仲でも、親子の仲でもない、不思議な感情だ。
私に向ける感情とは、まるで違っていた。私はそれが何なのか知りたい」
「分からないよそんなの」
「井口も同じことを言っていた。どうして自分の感情が分からない?」
「自分の感情を完璧に説明できる奴なんて、それこそ人間じゃない。待て」柏木は息をのんだ。「風香に会ってきたのか?」
「ユウの話を聞きたかったから」
柏木は眩暈がしてきた。
唾をのむ。
「……どんな話をした?」
「ユウには柏木優也という兄がいた。昔、井口風香は柏木優也と付き合っていた」
「……それで?」
「柏木優也は事故で死んだ。井口風香は別の男とつがいになった」
「それだけ?」
「あとはユウが幼い頃いかに可愛らしかったという話がいくつか。知りたかったのは事実関係。主観的な情報じゃないのに。井口はそればかり話していた」
「わかったから。聞いた話はそれで全部なんだな?」柏木はため息をついた。
「全部。ユウは井口風香が好き?」
「だから、昔の話だ」
「井口は元カノ?」
そんな言葉どこで勉強したんだ。「違う。付き合ってなかった。元カノじゃない」
「人のつがいは一対一だ。当時、柏木優也が井口風香と付き合っていたなら、ユウは井口風香とは付き合えなかった。柏木優也が死亡した後、井口風香と付き合えたはず」
「やめて。本当に。こんな話したくない」
「どうして」
「知るかよ。自分で考えてくれ」
「分からない。私はユウのことが知りたい。傷つけたくないの。教えてほしい」
柏木は答えなかった。
「私が人間じゃないから、言わないのか」
「ああそうだ!」柏木は我慢できなくなった。「お前は人間じゃない。怪物で、化け物で、ついでにエイリアンだ。人間のことなんてわかんないだろ。お前は……」
柏木はモナの顔を見た。
そんな顔をするな。
悲しんでいないくせに。
悲しい振りをするな。
苦しむふりをするな。
分からないくせに。
裏では侵略しようとしてるくせに。
心が読めたんだろ?
だったら愛してなんかいなかったのが分かるはずだ。
嘘がわかっていたはずだ。
どうして近づいてきた。
どうして離れていかない。
モナは目を閉じた。
モナの背中が割れ、中から青く透けた蛇が飛び出した。
モナの内殻、つまりモナの本当の姿だ。
そして、内殻の形が変わり始めた。
細い触手がより合わさり、何かの形をつくっていく。
「何してる」柏木は一歩下がった。
モナの内殻が何になろうとしているのかは、数秒後にわかった。
胴体に、手足、それから頭。
人間だ。
人間へと変わろうとしているのだ。
目と口のない蛇のようにつるりとしていた頭部は、徐々に凹凸が現れ、目や鼻、耳が現れていった。
しかし微妙に再現できていない。
肌は青く透けているし、腕や足の長さも揃っていない。
髪は勝手に動き回っている。
目や鼻の位置はずれていて、非常に不気味だった。
モナの青白い体が床に転がった。
その隣には、さっきまで入っていた外殻――今や脱け殻となった、女優を模した肉の体も倒れている。
「……大丈夫か?」
モナはようやくできた唇を開いた。「初めてのことだから、時間がかかる」
がらがらで、低音と高音が入り混じった、複数の人間が同時に話しているような、ひどい声だった。
声帯も作りかけのようだ。
「……内殻は、変化させないんじゃないのか」
「そう。ルール違反」
「違反していいのか?」
「よくない。でも他に方法がなかった」
柏木は、「変化はさせない」と頑なに言っていたモナを思い出した。
モナは上体を起こした。
手足はだらんと投げ出している。
モナの顔が作られていく。
まるで福笑いのように、目や鼻が正しい位置へ納まっていく。
これまでと同じ、美しい顔が出来上がってきた。
ただし肌は透けたままだ。
構成している筋肉や骨が見え隠れしている。
「内殻を変えないのは、大事なルールだったんだろ。ガリオンにとって」
「ユウもルール違反をするでしょう」
「……人間って、そんなにいいもんじゃないと思うぞ」
「それはこれから私が決める」
モナは不揃いな長さの足で立ち上がり、ふらついた。
柏木はあわてて支えた。
モナは柏木に抱き着き、唇にキスをした。
それは突きたての餅みたいな感触だった。
すこし柔らかすぎるうえに粘着力があるようだ。
柏木の唇にはりついて少し伸びた。
柏木が驚いて首を振ると、モナの顔は元に戻った。
「見て」
モナはできたばかりの顔で喜んだ。
半分泣いているような、でもそれは間違いなく笑顔だった。
切り取られた絵画を眺めているようだ。
時間が止まって、温かな気持ちが胸のうろに満ちていくのが分かった。
柏木の目の前で笑っているのは、この世に生を受けたことを喜ぶ、美しいいきものだった。
「見て。ユウ」
「なに、なんだ?」柏木は何度も瞬きした。
「ユウに触れても変化しない。内殻だから変わらない。制御を失わない」
モナの体はすごい熱を発していた。
足は震えており、出来かけの肌には汗が浮かんでいる。
柏木はモナをベッドに横たえた。
「これならセックスできる」モナは震える声で言った。
「バカか。衰弱した病人とできるかよ」
「病人とは言えない」
「ああ、人じゃないからな! そういう話じゃない。おまえ弱ってるだろ。弱ってるやつとはセックスできないの!」
モナはぜいぜいと息をしていた。
こんなモナは見たことが無かった。「ひどい。そんなルール聞いていない」
モナの体が痙攣している。
サスペンションのない古い車みたいだった。
手足は伸びたり縮んだりを続けていて、関節の数が変動していた。
胴体では骨が突き出したり引っ込んだりして、その裂け目からカラフルな臓器が見え隠れしている。
だが顔だけは美しさを保ったままだ。
大きな目と、長いまつ毛と、通った鼻筋に、瑞々しい唇が保たれている。
「人間は、顔がなにより大事でしょう」モナは柏木の心を見抜いたように言った。
「また感情の波とやらを読んだのか」
「感覚器は外殻での機能で、ガリオンがもともと持っている能力じゃない」
「なんだって?」
「いまや私は内殻のみ。できることは生き物を変成させることだけ。意図的に感覚器と接続しない限り、私にはあなたのことは何も分からない。
……私を心配してくれている?」
「俺の顔見りゃわかるだろ」
モナは首を振った。
柏木は答えられなかった。
愛などなかった。
あったのは恐怖と欺瞞だけだ。
恥ずかしくなった。
「……おい、体は大丈夫なのかこれ」
「生命維持のための臓器が上手く作用していない。安定にはまだ時間がかかる。明日予定していたデートはキャンセルさせて」
「そんなのいまはどうでもいいだろ!」
柏木はモナの額に手を当てた。
火傷しそうなほどの熱を持っていて、思わず手を引っ込めた。
「あっつ! あっちぃ! おいなんだ、どうなってんだ! どうすればいい? 俺にできることはあるか?」
「消化系が弱い。栄養が足りない」
「おかゆでも作ればいいか!?」
柏木は台所へ向かった。
「まだ人間に成れない……。ああ、なんて不自由なの。体が重い。熱い……」
「熱さましシートいるか!?」
柏木は冷蔵庫を漁った。
――――――・――――――・――――――
メーネはすべての手を止めた。
この地上に来て、何があろうとこれまで一切停止しなかった修理作業が、止まったのだ。
修理が完了したからではない。
モナの変成反応を検知したからだ。
これまでとは全く異なる反応だった。
不安定で危うい。
モナが自身の内殻を変成していることは疑いようもなかった。
ガリオンにとって、内殻を変成させることは、女王への不敬を意味する。
モナは背信者へと堕ちたのだ。
メーネは全身から力が抜けていくような感覚を覚えた。
だが自分のやるべきことはわかっている。
背信者は腫瘍と同じだ。
種全体の秩序を保つために、取り除く必要がある。
たとえそれが、同じ第一世代だとしても。
メーネは修理途中の船の核から、その巨体を移動させた。
足元では、モナが用意した小さな眼球状の虫型ユニットが歩いていた。
それはモナが見たという「映画」の視覚情報が保存されていた。
ユニットを体内に取り込めば、モナが見た映画を見ることができる。
メーネはいくつかの足を動かし、そのうちの一つでユニットを踏み潰した。
船の中が、にわかに慌ただしくなっていく――。
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