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茜色の中に

1時間に2~3便しか発着しない地方の空港。その土地で講演会の講師として呼ばれていた。講師と言ってもテーマが経済的な地方の自立など地味なもので聴衆も毎回50人程度。准教授をしているとこの様な話が時々来る。

帰途、空港に早く着いてしまい閑散としたロビーの硬い椅子で時間を潰す。飛行機も遅れている。何か本を持ってくれば良かった。
見知らぬ女性が近づいてくる。20代前半だろうか。淡いオレンジのリネンシャツと白いコットンパンツ。誰からも好感が持たれるであろう清潔感がある服装。手には革のアタッシュケースを持っている。
「今、よろしいでしょうか」
宗教や金融の勧誘。様々なケースを考えるが、固いスーツ姿の40代の男との成約事例はあるのだろうか。暇を持て余していたので話を聞くことにする。

「何でしょうか」
「~さんでしょうか」僕の名前を言う。見知らぬ相手に自分の名前を言われ少し驚くが講師としてこの地に呼ばれたので不思議ではない。
「はい、そうですが」
「ある方からこのアタッシュケースをお渡しする様にと」
彼女の手元のアタッシュケースを見る。スウェイン・アドニー、明るい革製。かなり使い込まれている。

母のアタッシュケースだ。

僕が幼少の頃から母は唄っていた。洗濯物を干す時、料理をつくる時、僕に勉強を教える時。家の中だけではなく外でも唄った。買い物に行く時、近所の公園や河原。その良く澄んだ歌声は近所でも噂になっていた。心無い人は母を精神的に不安定な人だと言い、そうでない人は心癒される唄だと言う。
母はそんな周りの声はまるで気にしていなかった。
僕も幼少の頃から母の唄を聴いていたので、母親というものは唄うものだ、そういうものだと思っていた。そして今に至るまで母の唄を超える唄を聞いたことがない。母と二人で街を歩く時、行き交う人がその唄に驚く表情を浮かべるのが僕は誇らしくてしょうがなかった。

父も母の唄を楽しんでいた。リビングで父が本を読んでいる時に母が唄う。その光景は今でも僕の中に残っている。
母は様々なところで唄った。しかしどこでも唄う訳ではなかった。スーパーの中や、ショッピングモール、混雑する駅では唄わない。なぜ唄う場所と唄わない場所があるのか、聞いたことがある。
「色んな考えが渦巻いている所では巻き込んでしまうかもしれない」
子どもだった僕にはわからなかったが、今では少しだけその意味がわかる気がする。

椰子の実
ビートルズのブラックバードやインマイライフ、アクロス ザ ユニヴァース
赤とんぼ
ダニーボーイ
大きな古時計

そして「ビヴァリー・ケニー」という昔のジャズシンガーを良く唄った。
彼女は1950年年代に数枚のアルバムを出し、1960年に28歳で自殺した。

母はビヴァリー・ケニーの声と唄い方や声がとても似ている。今ビヴァリー・ケニーの素敵な唄を聴くと母がいかに素晴らしいシンガーであったかが良くわかる。僕が思うビヴァリー・ケニーは自分をさほど演出しない。ジャズでもロックでもバラードを唄うときはテンポが遅いが故に声を飾ってしまう人が多い気がする。演歌歌手のように。悪いとは思わないが。
ビヴァリー・ケニーは自分の素に近い声で唄いきってしまう。素直な声とでも言うのだろうか。今でいうとノラ・ジョーンズに似ているのかもしれない。朗々と唄う訳ではなく、少し舌足らずで幼さを残したような。しかしわざとらしさがないので聴く者の気持ちを素直に包む。母も同じであった。

父は母が唄う人だということは全く知らずに結婚した。
結婚して狭いアパートで暮らしていた。半年ほどした頃の休みの日。夕方に父と母が外から帰り、父がお茶の用意をしている時に母は突然唄いだしたそうだ。
ビヴァリー・ケニーの「二人でお茶を」。
父の驚きは想像に難くない。後年父は言う。
「その日はとても素敵な夕焼けだった。茜色と母さんは言っていたけど。古くて狭いアパートが突然BLUE NOTE になったかと思ったよ。行ったことないけどな」

小学校2年生ぐらいの時だろうか。聞いた。
「どんな時に唄うのが好きなの?」
「この間のお休みの日。夕方にお父さんが夕食の準備をして、あなたが本を夢中になって読んでいた時に、部屋中を淡い赤が染める夕焼けがあったでしょ。何もかもが透き通る赤に染まってしまう夕焼け。茜色。あの中で母さん唄っていたでしょ。淡くて赤い夕焼けの中で唄うのは楽しかったな」
「母さんは何で唄うの?」
質問をしてから母は1時間以上リビングで考え込む。しばらく母の返事を待っていたが仕方がないので本を読んでいた。
唐突に質問が来た。
「あのね、何で靴を履くのかな?」
「えっと、外で靴を履かないと、足が痛いから」
「そう、そういう事」

父は広告会社の経理事務を、母は商社の営業サポートをしていた。僕が保育園に通っていた時は二人が交互に送り迎えをしてくれた。父の時は今日あった出来事を僕に聞き、母が迎えに来たとき、母はやはり唄っていた。その唄は保育園の先生達にも知られていた。
一度、保育園からオファーがあった。唄の時間にゲストとして来てほしいとのこと。母は考えた末にそれを受けた。

今でも昨日のように覚えている。
子どもながら母が保育園に来て皆の前で唄う事は誇らしい事だ。先生達が拍手で迎え、子どもたちも立ち上がって歓声を上げながら母を出迎える。ピアノを弾く先生も立ち上がって拍手をしている。母はいつもと同じような服、薄いベージュの大きめなチェックの入ったシャツワンピース。同年代の女性と比べて身長が高い母はワンピースなどがよく似合う。
教室に入り、軽くにこやかに顔を傾げる。
おそらく、事前の打ち合わせでは園長先生が母の紹介などする予定だったのだと思う。
しかし母は園長先生もピアノの先生も居ないかのようにすぐに唄い始めた。

大きな古時計

騒いでいた子どもたちは直ぐに静かになった。先生達も声を発しない。僕も何が何だかわからなかった。
圧倒的な唄だった。今まで聞いていた母の唄とも違っている。大きな声で圧倒するものではない。しかし、聴いている者は言葉を発することができない。つばを飲み込むことさえ。もしかしたらそこにいる子ども達や先生達、そして僕も息をすることを忘れていたかもしれない。半径10㎞に存在する何かを一気に集め、そして一気に放出したかのような。唄ではなかったのかもしれない。何か大きなエネルギー、でも密やかなもので母は私たちを包んだ。母の唄以外は何も聴こえなかった。

大きな古時計の後は、線路は続くよどこまでも。
最後にダニーボーイを唄った。
母は教室に入って来た時と同じように笑顔で軽く顔を傾げて教室を去った。

家に帰り、母に聞いてみた。いつもと違う唄だったねと。
「たくさんのみんなが楽しそうに出迎えてくれたから」
「先生たちと打ち合わせした唄を一曲も唄わなかった」
「今度先生たちに謝らなくちゃ、一緒についてきてね」

僕が小学生になっても母は唄い続けた。僕が周りの子どもたちより少し幼さを持っていた事から父と母は優しく柔らかく接してくれた。いつも3人で出かけた。4年生まで父と母と3人で手を繋いだ。母の唄とともに。

小学校5年生の時に母はいなくなった。
10月の晴れた土曜日の夕方。父と僕が公園でキャッチボールをし、帰って来たら母がいなかった。父と僕は母が何処かに買い物にでも行っているのだろうと考える。2時間たっても母は帰って来なかった。今までそんな事は一度もなかった。父も僕も母が事故にあったのではないかと心配する。父は車で、僕は自転車で近所を探した。何の手がかりも得られなかった。父は様々なところに電話で問い合わせをした。
手がかりはなく、家で母の帰りを待った。
夜まで待っても母は帰って来なかった。

家の中に何か手掛かりがあるのではないか。
父が母のクローゼットを開ける。
クローゼットには何もなかった。母の服はなかった。
父は鞄などが収納されている場所も開けた。母が使っていた明るい茶色のスウェイン・アドニーのアタッシュケース、紺のキャリーケースもなかった。
家にクローゼットは二つ。寝室に父の服が、その隣の部屋のクローゼットに母の服。母が前もって準備したとしてもわからなかったはずだ。
母の周りの人たちに当たる。しかし母の両親は既に亡くなり、一人っ子のため兄弟もいない。父が辛うじて把握している友人関係、そして職場に連絡を取る。手がかりはない。
警察に届けを出すことにする。僕も父についていく。

真夜中、警察署のオフィスの端にあるテーブルにつく。
「妻が帰って来ないのです、捜索願を出したいのですが」
「今は捜索願と言わずに、行方不明届けと言うんですよ、こちらに書いてください」
30代前半と思われる私服の男性警官の指示に従い、父は用紙を埋める。
「何日、姿が見えないの?」警官が言う。
「今日の夕方からです」
「え?もう少し待てばいいんじゃないの?」
「今までそんな事は一度もなかったのです」
「遺書があったり、自殺をほのめかす話なんかしてた?」
「そんな事はありません」
「何か精神的な病、精神科に掛かるような事はあったの?」
「ありません」
「行方不明になる前に何か変わった行動とかは?」
「ありません」
「行方不明者届けには2種類あってさ、特異行方不明者と一般行方不明者ね。奥さんの場合はさ、一般行方不明者、だな」
「特異行方不明者とはなんなのですか?」
警官は父と目線を合わせず、椅子に浅く腰掛け足を組む。
「まあ、急いで探さなければいけない人ですね」耳を書きながら言う。
「妻も急いで探してほしいのですが」
「クローゼットの服がなかったり、バッグがなかったり、これは計画的な家出なんじゃないですか?旦那さん、なんかあったんじゃないですか?喧嘩したとか浮気したとか」
父はテーブルの向かいに座っている警官を見据えて怒鳴った。椅子から立ち上がり怒鳴った。
「浮気とはどういうことだ、子どももいるんだぞ、お前、何をもとにそんな事を言うんだ」
周りの警官が駆けつけ、その警官と父の間に何人かが入り、その警官は席を外した。
しばらくした後、50代の男性警官がやって来る。父に柔らかく話す。
「うちの警官とのお話を途切れ途切れにし聞いておりませんでしたが、失礼な事を申し上げたのでしょう。申し訳ございません。こちらの届けは大事に受理させて頂きます」
その警官と20代の婦警が僕らを挟んで門まで見送ってくれた。

警察署からの帰り道、父と手を繋いだ。とても父に話しかけることが出来なかった。
ただただ涙がこぼれた。
「大丈夫だ、母さんは必ず戻ってくるさ、そしてさ、また家とか外とか色んなところで唄うさ、必ず帰って来るよ、心配するな」
父は僕を安心させようと腰をかがめて何度も何度も話しかけた。僕は父の手をこれ以上ない力で握った。
僕にはなんとなくわかった。母は二度と帰って来ないであろうと。
唄が終わり、余韻もあらかた消えてしまった場所の様に。

父は焦燥する。仕事が休みの時は過去に父と母が行ったところに探しに出かける。知人という知人には全て当たった。手がかりはなかった。
近所の方々に会うたびに、お母さん心配ね、などと言われるがその方々が実際に何かしてくれることはなかった。学校に行っても気持ちが晴れることはない。
父は僕を励ますように、そのうち母さんは帰ってくるさ、と言い続けた。しかし父の言葉は宙に消える。

体の中から唄が消えてしまった。

学校の音楽の授業、楽器の演奏や曲。音の羅列にしか聞こえない。唄を聴くこと唄うことが出来ない。テレビやラジオは常に音の羅列が響く。見ること聴くことをやめた。
母がいなくなり、父との二人の生活が始まった。
家事は以前から3人でやっていたので特に困ったことはなかった。毎日が淡々と過ぎていく。しかし父もテレビやラジオ、そして音楽を鳴らすことをやめた。

朝起きる。何もかも忘れて起きる。しばらくすると母がいないことを思い出す。その度に利き手をもがれた気持ちになる。

僕と父は母の事を話題にすることがなくなった。父は一人で僕を育てた。後年聞いたことだが経済的な事は何とかなったが、僕にどのように接していいかわからなくなったそうだ。
僕はどうしたらいいかわからなくなった。

母はいなかったがリビングには二つ、写真が置いてあった。父と母の結婚式の写真。僕が保育園で母の唄を聴いた頃に撮った、薄いベージュのワンピースを着た立ち姿の母の写真。二つの写真とも母は少し顔をかしげて微笑んでいた。

「おそらく私の母が使っていたアタッシェケースだと思います。しかし、なぜあなたがこれを持っているのですか?」
アタッシュケースを持って来た女性は言う。
「詳細は私も知りません。ある男性からこのアタッシュケースをあなたに渡すように言われたのです。お金を受け取りました。あなたの顔写真を渡され、清潔感のある格好をし今日一日この空港であなたを待ち受けアタッシュケースを渡すように指示を受けたのです」
報酬が発生しているのであれば、彼女に詳細を聞いてもわからないだろう。
「アタッシュケースを開けるには鍵が必要だけど、その鍵、もらえるのかな」
「鍵はお渡しします。しかし、ご自宅へ帰るまで開けないように、との伝言があります」
「ねぇ、これから僕は飛行機に乗るんだよ、この中に何が入っているかわからないで乗るのはリスクが大きすぎる。麻薬かもしれないし、爆弾などかもしれない」
彼女はポケットからメモを出した。
「これを預かりました」
『勝手ながら、自宅など落ち着いた場所で読んでください。中は手紙とレコードとCDが入っています』
母の字だ。

機内で考える。母がいなくなってから30年以上経っている。
父はしばらく前に定年退職したが、2年ほど前に事故で左足を失い、それが原因ではないのだろうが軽度の認知症を発症した。
現在サービス付き高齢者住宅にいる。
僕は最初から母に捨てられた、恨んでいるなどの感情はない。
しかし突然現れた母の面影に戸惑う。このアタッシュケースを私に渡す事を母が指示したのだろう。母は元気なのだろうか。なぜ、僕に顔を合わせてくれないのだろう。

自宅に急ぐ。

自宅でアタッシュケースを開ける。中には手紙と古いノート、そしてレコードが一枚、CD1枚。ボール紙のレコードジャケットとレーベルには何も印刷がされていない。
手紙には母の字で書かれていた。

「突然、驚いたことでしょう。そして何も言わずあなたたちの元からいなくなり、お詫びの言葉もありません。あなたとお父さんの気持ちを想像すると目の前が暗くなります。私は一日たりともあなた方のことを忘れたことはありません。

今回あなたがこちらに講師として来ることを知りました。人に頼んでこれを渡してくれるようにお願いしました。社会で活躍しているようですね、本当に嬉しい。

あの時、素晴らしく幸せな家族の元を去らなければならない理由がありました。これは言い訳になりますが私もあなた方と同じく様々なものを失ったのです。
そしてあの日から私の唄はあなたたちのだけの唄になりました。小さく唄いました。毎日周りの人にはわからぬように唄いました。その唄が届かぬとしても」

手紙はそこで終わっていた。父と僕のもとを去った理由は書かれていなかった。今どうしているかも書かれていない。母はあの空港がある地にいるのだろうか。

古いノートを開く。母の字と父の字で何かのレシピが詳細に書かれている。英語が混じっている。材料等は書かれているが何のレシピなのかわからない。

レコード。僕の部屋にはレコードプレーヤーやスピーカーがない。大学の同僚に訳を話すと彼が行きつけのバーにレコードプレーヤーがあるとのこと。そのバーに頼んでくれた。
CD。手っ取り早く聴く事ができるかもしれないが、順番としてはレコード、CDのほうが良い気がした。後にしよう。

バーが開店する前にお店のプレイヤーを使わせて頂く。レコードをマスターに預ける。
マスターがレコードを手に持ち言う。
「これはテストプレス盤の様ですね」
「見本の様なものですか?」
「少し違いまして、音質・収録内容など確認するために、試験的に数十枚だけつくられるものです。これで大丈夫であればサンプル盤というものがお店に配られる枚数、プレスされます。なのでそれは比較的数が多いです。テストプレス盤はごく内輪の関係者しかお持ちでないことが多く、数は少ないです」
マスターはターンテーブルにレコードを置き、針を落とした。
母の唄が流れた。
バーの空気が一変した。空気の粒子が内側から光り輝くような。それが店の中を茜色で包むかのように。
いくつかのジャズスタンダード、ビヴァリー・ケニーのカバー、そして恐らくオリジナル。
8曲。全て聞き終わるまで誰も声を発せず、マスターがレコードを裏返す以外は誰も動かなかった。

マスターが言う。
「これは素晴らしい。何十年もジャズを聞いていますがここまでの女性ボーカルはなかなかいらっしゃらない。とても素敵な唄ですね、どちらの方なのでしょうか」
「母です」
マスターは少し驚き、言う。
「失礼ですがお母様のお名前をお聞かせ願いますか?
母の名前を言う。
「申し訳ございません。存じ上げません。他に録音された物はないのでしょうか」
「良くわかりませんが、おそらくないはずです。私もこれしか持っておりません」
マスターはしばらくの間考え、僕に言う。
「二つほどお願いがあります。このレコードプレーヤーはデジタルの音源に変換できます。usbメモリに書き込めます。いかがでしょうか。2本、それをつくり、1本をあなた様に1本を私に頂けないでしょうか。そしてこの店でこの唄を流してもよろしいでしょうか?その代わり、いつこの店にいらっしゃってもお代は頂きません」
僕は全て快諾した。母の唄が何処かで流れるのは素敵な事だ。
レコードプレーヤーからusbメモリに2回書き込むのは、2回通してレコードを演奏させる必要がある。僕らはマスターから頂いたアイリッシュウィスキーを飲みながら2回聴いた。
唄が音の羅列ではなくなった。

帰り道、レコードプレーヤーとオーディオセットを買う。

ノートのレシピが何の料理なのかわからない。何が出来るのか解らないにのにそれを作るのは至難の技だ。包丁の使い方だけは両親から教わったが、僕は料理に詳しくない。そして僕の狭い交友関係に料理が出来る人がいない。
ノートは父と母、二人の乱雑なメモのようで順序立てられていない。万年筆の部分もあり、かすれたりにじんだり。英語は癖のある筆記体。これは母だと思う。解読するように読み解く。理解できるのは二人でこの料理をメモをしながら試行錯誤しつくったという事だ。ノートには料理のものと思われる色々な染みがある。

材料が二つに分かれている。肉料理とそれにかけるソースなどなのだろうか。整理して書き出す。

「uillon」と書かれている。これを先につくるようだ。
牛すね肉2.5キロ
仔牛の骨2キロ
鶏1羽
鶏ガラ1羽分
たまねぎ2個
にんじん2本
セロリの茎2本
ポロねぎ1/3本
パセリの茎5~6本
タイム3本
ローリエ1枚
白粒胡椒
水8リットル

「nsomme」二番目につくるらしい。
牛すね肉ミンチ800〜1kg
たまねぎ1個
にんじん1本
ポロねぎの青いところ
パセリの軸数本
タイム数本
ローリエ
クローブ
トマトピューレ100g
卵白6個分、
塩、白粒胡椒

とんでもない材料の量。肉がキロ単位で示されている。さらに水が8リットルとはどういうことなのか。二人でこの量を料理し食べたのだろうか。この部屋の貧相なキッチンでどうするのか。この時点でめげそうになる。しかし、父と母は料理したのだ。

キッチンがまともな部屋に引っ越すことにする。

オーディオセットから音楽を流す。母のテストプレス盤。
ノートにはさらに恐ろしいことが書いてある。
「30cm径、20リットルの寸胴鍋」

買う。

11月の気持ちよく晴れた日。雲は遥か彼方に小さくあるだけ。青い空が少し目に痛い。窓を開け、昼から始める。冷蔵庫にある牛すね肉3.5キロ、仔牛の骨2キロにひるむ。

「uillon」と書かれている物から始める。血や汚れを洗い流した肉類と骨と水を鍋に入れ、強火で煮立てる。温度が上がるにつれ、汚れのような茶色のアクが上がる。すくう。
野菜を入れて煮る。出てきた野菜の白いアクもすくう。肉を火にかけてからおよそ1時間。
煮えたときにバラバラにならないようにポロねぎとブーケガルニは縛ってある。
30年ほど、もがれていた利き手が戻ってきた。両手で料理をする。

5~6時間煮込む。

スープの表面が少し揺れる。時々泡が立つぐらいの火加減。
二人のレシピには「MIJOTER、微笑む」とある。文字がにじんでいてなかなか解らなかったが、フランス語で「弱火で煮る」。微笑むように煮るという表現があるらしい。素敵な表現だが今はそこまで頭が回らない。布を敷いたざるで濾す。

別のページに英単語の殴り書きがあった。Broth。検索すると画面にブイヨンという文字がある。「Bouillon」。「uillon」のBoがにじんで読めなかった。
今までブイヨンをつくっていたのだ。ブイヨンを検索する。日本料理でいう出汁のようなものらしい。となると何かのベースを今までつくっていたらしい。1日かけて。
ブイヨンを冷えるまで待つらしい。
その日は程よい疲労感に包まれベッドに入る。部屋にはブイヨンの香りが満ちている。

翌朝から昨日の続き。ブイヨンを使った何かつくるらしい。何かとは今だわからない。
昨夜作り上げた寸胴鍋のブイヨンから肉の脂とゼラチンを取り除く。
金色の液体が現れた。透き通っている。

「nsomme」と書かれた材料の準備をする。材料をざくざくと刻む。冷水200mlを加え、こねる。これを昨日作ったブイヨンの鍋に入れる。温めながらかき混ぜる。
70度前になったらかき混ぜるのをやめると書かれている。70度がわからない。すぐさま料理用温度計を近所に買いに行く。70度になったらかき混ぜるのを止める。鍋の中は白く濁っている。今日加えた材料が鍋の表面を覆う。
火力はそのまま。しばらくぽこっと僅かに吹きあがる状態。表面の真ん中の具材をよけてみる。中の液体が澄んでいるのがわかる。一時間ほど煮る。素晴らしく良い香りが部屋を満たす。これを優しくすくって布で濾す。

コンソメスープ。nsommeはconsommeだった。
美しく透き通った、茜色が出来上がった。

父のいる高齢者住宅に行く。馴染みの介護士によると、最近わずかだが認知症が進んでしまっているとのこと。一概には言えないけど、足が悪く、動きが制限されると認知機能も低下する気がする。
昼下がり、大きな食堂の隅に父はいた。一人、車いすから西に向かう窓の外を見つめている。
「父さん、来たよ」横にいすを持ってきて座る。
父はいつものように僕を横目でみる。「ああ」と言い、そしてまた視線を外に遣る。
「今日はさ、色々持ってきたんだ。スープとか音楽とか」
父から特に反応はない。食事やトイレなどには自分から動くが、その他の事に積極性がないのはいつものことだ。持ってたボトルからコンソメスープをスープボウルに注ぐ。
父は背筋を伸ばしたまま、スプーンを使いコンソメスープを飲む。僕のほうを見て、軽くうなづく。いつものコーヒーなどを渡した時と同じだ。レシピ通りに作ったとは言え、父と母が作ったコンソメスープの味とはやはり違うのだろう。
「音楽、持ってきたんだ、聞いてみる?」
父は興味なさげにヘッドフォンを見て、「ああ」と言う。
「嫌だったら、直ぐに外すからさ」
父の頭にヘッドフォンを被せる。耳にうまくはまるように動かす。二人用のジャックを持ってきているので父と同時に聞く。
母のテストプレス盤の唄だ。
何か反応があるかと思った。しかし、何もない。母の唄を忘れてしまったか。声も忘れてしまったのだろうか。
CDに入っていた母が普段家などで唄っていた音源を流してみる。父の表情に変化はない。
実はかなり期待していた。父の心を揺らすこれ以上のものはないと思っていたが、空振りに終わったようだ。
父の人生の終盤に彩りが添えられてもいいのかなと思っていたが、それは傲慢な考え方だ。父がそれを望んでいない場合を想像していなかった。自分の浅はかさを感じる。
食堂でお湯をもらい、コーヒーを淹れる。施設の午後はいつも以上に時間がゆるやかに流れる気がする。近くに若い男性の介護士が椅子に座り、ノートpcで作業をしている。

「コーヒー、いかがですか?」声をかける。
「よろしいんですか?嬉しいです、頂きます」
父と僕、介護士の3人で窓の外を眺めながらコーヒーを飲む。
「先ほどから、何を聴いていたんですか?」
「昔の母の唄です、たまたま音源が見つかったんですよ」
7~8人の老人たちと2人ほどの職員が食堂に入ってきた。外出から戻って来たようだ。食堂がにぎやかになる。
「その唄を聴かせて頂いてもよろしいでしょうか」さっきの介護士が言う。ヘッドフォンを渡そうとすると、周りの方々に何かあった場合のことを考えなければならないので、と言いBluetooth接続の小さなスピーカーを持ってきた。
それに接続する。唄を流す。
「これは、凄いですね、お母様ですか、有名な方なんですか」
そんな事を介護士の彼は言う。僕はそれに答えていた。

父が、僕の腕に手を置いた。
「母さんだよな」

ビヴァリー・ケニー「It's Magic」が流れている。

僕は父の目をみて頷いた。父の周りにあったぼんやりとした霧のようなものが消えている。
そうだよ、母さんだよ。母さんまだ何処かで生きているんだよ。

「母さんはいつも物音がするところで唄った」
「さっきのスープはお前が作ったのか。まだ、だな」
父の笑顔は久しぶりに見た。
レシピのノートを父に渡す。
「これを小さなアパートで作るのは楽しかった。母さんになんでまたコンソメスープなんだ?と聞いたらコンソメスープの色がとても素敵だからってな。コンソメスープ、まだ残っているか?」

父はスープボウルのコンソメスープを覗き込んで言う。
「お願いがあるんだ。母さん、探しにいかないか?」
僕はもちろん頷いた。

スピーカーからは母の椰子の実が流れている。

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月







有賀薫さんのnoteをたくさんお借りしました。


ビヴァリー・ケニー「It's Magic」


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