青色1号
友人Kのお父さんがビルメンテナンスや清掃を主な生業とする会社を経営している。そこから仕事を回してもらい、その友人Kとその他のバイトと私の4人程で様々な所を廻った。
作業の順序は、いすなどをテーブルの上に乗せ、床を掃除できるようにし、箒などで埃や大きなごみを取る、その後、床の汚れを取るポリッシャーを回し、水切りや水対応の掃除機でポリッシャーから出た洗剤の大まかな水分を取り、モップで残った水分、取り残したごみをふき取り、ワックスを塗る。
このようなビル床面の仕事が多いのだが、それだけでなく、清掃と名の付く仕事はなんでも受けていた。
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生活保護を受けている家庭の清掃。区からの依頼だ。
どのような補助の形式なのか分からないが、時折この様な仕事が入る。
何年も掃除されていない、すさんだ受け身の生活があふれる部屋。和風木目調の蛍光灯の四角い傘、かなりの厚みがある。近寄ると埃の層が7~8㎝積み重なっている。不用意に傘を触ってしまった。
埃が舞うのではなく、雪崩れる。
5時間ほどかけて1DKの区営住宅を己が住めるまでに隅から隅まで掃除する。当初すりガラスだと思っていた窓が、クリアなガラスだった。フローリングは黒からよく言えば琥珀色まで戻した。壁もグレーからベージュまで。畳はいかんともしがたいのだが、掃除機から始まり、水拭きから拭き。布団類も全部干す。何も考えずに履いてきた白い靴下が裏だけ黒になった。
体が不自由な年老いた夫婦から大変感謝され、冷蔵庫から缶コーヒーを頂く。生活保護の方から缶コーヒーを頂く事はいかがなものかと思うのだが、断るものも失礼だ。彼らから見えないように飲み口をシャツで拭う。
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新宿の公共施設、地域センター。
玄関ホールでポリッシャーを回している目の前で、わざわざレシートなどのごみを落としていくサラリーマン。17歳の金髪フリーターバイト君が、よく平気でいられますね、というが、作業自体の進行が妨げられるほどではなく、大したことはない。
それよりもそこのセンター長が、床に深く傷が入った箇所に入り込んだ汚れを取れという。無理である。
その旨伝えるが、それを何とかするのがプロの仕事だ、とのたまう。そもそも、その床を補修する予算も取れずに放置したのは、センター長としていかがなものか、それはプロではないのかと思う。
結果2時間以上時間が押される。スーパーのセール時間に間に合わない。
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フリーターのバイトたちはよく喧嘩をした。要領の良い奴が悪い奴に突っかかる、目が合う時間が長すぎると突っかかる、何だかよくわかんないが突っかかる。
深夜の公共施設清掃、広い廊下で17歳金髪フェザー級が、要領の悪い45歳おっさんライトヘビー級に突進した。17歳フェザー級のほうが手数が多い。ただ、パンチに腰が入っていない。おっさんライトヘビー級は17歳フェザー級のパンチを十数発耐え、渾身の右フックを繰り出した。クリーンヒットというには後始末が大変な血しぶきがカーペットに飛ぶ。
友人Kが別の場所から慌てて駆けつける。
お前見てないで、止めろよ!
止めたところでこっちがケガしそうだし、周りに椅子や柱もないので吹っ飛ばされたとしても酷い事にはならないかなという甘い考えと、他人の喧嘩は見ていて楽しかった。
掃除がプロの集団というのはこんな時に大変便利だ。薬剤とスチーマーで飛び散った血をカーペットから跡形もなく処理する。体育施設も併設されているので、製氷機から氷をお借りし、喧嘩した当人達へ、あてがう。
Kが、お前説教してこい、と言う。
しょうがない。
どうでもいいが、客先でやらんでくれ、やるなら自分らの会社の駐車場とかでやってくれとだけ伝える。
後日、彼らは律儀に会社の駐車場で第二ラウンドを行った。
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山用品、スキー用品を扱う店舗の清掃に深夜、入る。
金がないのにスキーに少しはまりかけていたので、楽しみだった。金がなくて買えないのだが、道具やグッズを眺めるだけでも楽しい。
店に入ると当然山用品、スキー用品が所狭しと並んでいる。そしてこの店には防犯カメラらしきものがないことに気が付いた。
インナーグローブが当時ほしかった。それもミズノからブレスサーモという素材で作られた、水分で発熱するものだ。
目の前にそれが並んでいる。手に取る。上着のポケットに入りそうだ。ポケットに入れる。
動悸がする。汗も尋常ではない。そのまま作業をする。
今日はポリッシャーの後の床の水を切るかっぱきの担当だ。
かがむとポケットに入れたインナーグローブが出てきそうだ。慌ててポケットを押さえる。
取り仕切る友人のKが心配する、お前大丈夫か、顔色悪いぞ。動きも今日はなんか悪いし。
休憩時間も腰が不安定に浮いているようだ。汗も止まらない。
Kが言う。お、これお前が欲しがっていたブレスサーモのインナーじゃん、意外と安いのな。
次の休憩時間にポケットから展示されている棚へ戻した。
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東京の湾岸を走る鉄道、ゆりかもめ。このゆりかもめの駅舎とホームの蛍光灯の交換、照明器具の清掃業務。梅雨が明けた頃から始まる。
終電1時間程前に集合、準備を進め、終電3本ほど前から作業を始める。
脚立に上り、古い蛍光灯を外す。ウエスで蛍光灯のかさの汚れをふき取り、新しい蛍光灯をはめる。古い蛍光灯は点灯していてもすべて交換する。蛍光灯の数だけ脚立の昇り降りをする。ヘルメット着用。頭にはタオルをまく。終電後は無人となる施設。始発前に終了。5~6人、2週間ほどの作業。
新橋駅の改札口を入って準備を進める。終電前、人通りが多い。少し太った若いサラリーマンに呼び止められる。ここでは我々もゆりかもめ施設側の人間なので丁重に応対する。
手を出して
まるで意味かつかめないが、口角をあげて片手を出す
いや、両手
両手を差し出したところ、サラリーマンはポケットの中からくしゃくしゃのレシートや噛んだガムの包み紙などのごみを僕の手のひらに突っ込んだ。
捨てたかったんだよね
腹が立たなかった。もちろん私は聖人君主ではないしかなり短気である。
ただ、サラリーマンに呼ばれた時から容姿などざっくりと観察していた。
スーツは高くは見えずよれている。サイズも合っていない。革靴は安売りのシューズセンターのものだろうか。スラックスの丈が短く、靴下が見える。
彼は私を社会におけるヒエラルキーのようなもので自分より下に見たのだろう。作業着、頭にタオルを巻いた上のヘルメット、髪は金色などに染めておらず、ヤンキーには見えない。何も言えない羊のように見えたのか。
しかし、私も彼を社会のヒエラルキーのようなもので下に見ていた。ゆりかもめから降りてくる他のサラリーマンとは違うしょぼい匂いを嗅ぎ取っていた。そのくたびれすぎのスーツはないだろう。そして、かなりの上から目線で、彼も日頃大変なんだろうと。
彼も私も根本はさして変わらない。
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ゆりかもめでの作業には他の現場にはない楽しみがあった。
ゆりかもめは海の近くを走る。終電後の誰もいない駅。梅雨明けの深夜、東京湾からの海風に吹かれながらの屋外での作業。昼間の熱は引いている。真下を走る道路も交通量が減り、ごくたまにトレーラーの走行音が響き渡るだけだ。
無人のホームで脚立に登り、心地よい風に吹かれながら、海に視線を向ける。都心部での作業とは思えない開けた空間。時間が経つにつれ、漆黒の水平線が時間とともに徐々に鮮やかになる。
日の出前の時間は皆、気持ちが良いらしい。その時刻は概ねその日の作業進行具合が判別できるので、日の出数十分まえにタイミング良く休憩時間を合わせる。
誰もいないホームで寝そべり、優しい海風に吹かれ夜明け前を過ごすのは何にも代えがたい。うまくいくと、水平線の積乱雲が僅かな光を浴び、何よりも美しい白を見せてくれる。
高校中退、金髪、常に苛立っている男の子が、今日も暑くなるんすね、と優しい顔でつぶやき笑みを見せる。
別の18歳男子がホームの先頭で仁王立ちになり、ここで天下を取る、と大声で叫んでいる。それさえも心地よい。
3日間の予定でバイトにきた大学生は、その前の週に彼女を親友に寝取られた。どうして私にそんなことを言うのかわからなかったが、多分彼は誰かに聞いてもらわないとどうにかなってしまうのだろう。
その彼が、夜明け前の空を見ながら、青色1号とつぶやいた。この夜明け前の色が食品用着色料、青色1号に近いらしい。聞くと食品メーカーに就職を希望しているらしく、専攻もそのような学科。
私は青色1号という言葉の響きが気に入り、夜明け前に青色1号と頭の中でつぶやく様になった。
青色1号の彼はバイト期間を延長し、最終日までいてくれた。
作業は大変だけど、その時は何も考えずに済むし、何よりこの眺めと、夜から朝への移りゆく気配を味わいたいと言った。夜から朝へ。雨でなければ良いのですがと言ったが残りの作業日、夜空が曇ることはなかった。
始発が動く前に撤収作業を完了し、ハイエースで帰途に就く。普段の現場とはまるで違う充足感がある。周りの皆もかなりハードな作業の後なのに、穏やかな表情だ。
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あれから随分時間がたったが、あの青色1号は未だに私の中にある。
そして東京湾の空がくれたものが何だったのか、満たされたのは何だったのか、まだわからない。
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