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縄とふき味噌


20時を過ぎたオフィスで先輩は怒鳴った。
「これ、入ってないじゃねぇかよ」

革靴の中が湿る。夏の外回り営業。
販売促進品の提案を生業とする会社。世に出回る物の売り上げを上げるために、世に出回る物をおまけとして提案する。アウトドア腕時計ブランドに名入れが入ったボールペンを提案する。そしてそのボールペンメーカーにはアウトドア腕時計が当たるキャンペーンを提案する。

渋谷の雑居ビル。ビルのエレベーターはいつも右に傾いて動いている気がする。社員総勢80人。その中で神谷先輩と僕、二人のチーム。ほかのチームは5~8人程度だが僕らは2人。神谷先輩と僕は入社以来、別々にいくつかのチームを廻ったが数字が上がらなかった。社長から「何ならマイナスとマイナスがいればプラスになるんじゃないのか」という実に適当な采配でチームを組まされた。デスクはフロアの一番端。

「朔ちゃぁん、きょぅうはどぅぅでぇしぃたぁかぁぁぁ」
営業から帰る夕方。神谷先輩は僕に聞く。汗で体に張り付くシャツを指で持ち上げながら返す。
「毎日その間延びした言い方、この世のあらゆるものを腐らせますよ」
「もう、腐ってるんじゃないでしょうか。で、今日はどうだったんだよ」
「毎日同じですよ。毎日。営業先担当おっさんのバブルの頃の武勇伝、タクシーチケット使い放題とか撮影で海外行くのが当たり前、ロスとかニューヨーク、パリ。グアムとかサイパンは外れくじ、お前ら行った事ないの?情けないな、気合足りね、せめて新幹線はグランクラスぐらい使えって」
「時代が良かっただけだよな。その経験で哲学語られてもたまんないよな」
「神谷さん、どうだったんですか、今日は」
「別々の会社の年下女の子担当がさ、それぞれ言うんだよ、私では決めかねますので、周りの人たちの話を聞いてから、上長の指示を受けてからご返事差し上げます。そいつらみんな役職ついているんだよ、2億のキャンペーンのうちの50万の案件なんか平社員でも決済権あるぜ。まったく」

神谷先輩は180㎝筋肉質の85㎏という体格、シャツの一番上のボタンは外して、ネクタイは常に曲がっている。そして文学好き。ややこしいことにその体格に似合わない繊細な作家、例えば太宰治、よしもとばなな、江國香織を好きと言いながら、実はその体格に似合う開高健や村上龍とかヘミングウェイが好きだ。酔っぱらうと思いつめた目でダチュラとか言う。ダチュラは村上龍の小説に出てくる神経兵器。先輩はコインロッカーにも過剰に反応する。「見た目通りですね、とか言われたくないじゃないか」。
僕は名前が朔太郎。神谷先輩からは朔太郎、何時月に向かって吠えるのかとか言われていた。もちろん萩原朔太郎にかけている。神谷先輩の中途半端な文学かぶれは嫌いじゃない。
僕は小説のようなものを書いていたが、大海に拙い文章を放り込んでいるようで最近は何もしていない。
僕たちは数字が上げられていない事の揶揄を込めて「文芸部」と言われていた。

月のノルマは250万。大した事ないと思うがこの数字は利益だ。利益率は20%以上死守なので1,200万以上の売上が必要。神谷先輩と僕はここ1年以上ノルマを達していない。社内ランキングは毎回下から数えたほうが早い。

そんな僕らのチームに派遣社員の聡美さんという人が配属された。チームの要請があれば、営業サポートや事務作業をしてもらえる派遣社員が配属される。しかしその費用はチームの利益から捻出される。人数が多く、利益が上がっているチームは派遣の方を迎える余裕がある。しかし僕らは二人で、成績はひどい。派遣社員費用の負担などとても出来ない。神谷先輩が社長に言う。
「派遣のチームへの配属、お願いしてませんし、経費払えないですよ」
「そうだったっけ。でも最低3か月だからいいだろ。3か月、楽しろ」
頼んでいない派遣社員にただでさえ少ない利益を持っていかれてしまう。
神谷先輩は呼んでもないやつのために数字が減る、と灰色の顔で言う。

7月。梅雨の合間の晴れた日に聡美さんが来た。明るめのネイビーのロングスカートと白いブラウス。姿勢が良く、素敵な笑顔で「よろしくお願いします」と言う。
その笑顔と立ち振る舞いに僕は一瞬で色んなものを持っていかれた。神谷先輩はそんな僕を見てお前が派遣費用払えよ、と聡美さんにも聞こえるように言う。
隣のチームの同期も僕に言う。
「これで3か月間、頑張れますか、文芸部さん、数字上げないとね」。

聡美さんは僕より4歳年上。一から十まで素敵で、近くにいるだけで僕は人生を一段階引き上げられた気持ちになった。とりあえず聡美さんには他のチームの派遣社員と同じ様に、営業に出ている僕らからの他社への見積依頼などをお願いする。

聡美さんは僕らのチームに来て、1週間後に動き始めた。
「この3人の島なんだけど、デスクの上がジェンガ」聡美さんが言う。
確かに書類が山積みになり、お菓子のクズ、付箋などがデスクに散乱している。神谷先輩が言う。
「これで困ってない。整理整頓出来て数字が上がるならやるよ、因果関係あるの?」
僕も整理整頓をするのが苦手だ。心の中で神谷先輩に同意する。
聡美さんは気にせず続ける。
「清潔にするという行為が、集中力を生んだり、自己嫌悪を無くしたりするって」
「数字で出して欲しいな。その関係性」先輩は嫌な返しをする。
聡美さんはひるまない。それどころか夏のひまわりの様な笑顔で言う。
「さっきのはね、村上龍が言ったの」
次の日、朝出勤すると神谷先輩のデスクはフリーアドレスのデスクの様にさっぱりし、ノートpcだけが鎮座している。僕のデスクだけが何処かの国のスラム街である。
片付けざるを得ない。

聡美さんは僕らに「ここ、教えてほしい」と言い、3人でのミーテイングに持っていく。聡美さんが教えてほしい事はすぐに終わる。
「二人のクライアントなんだけど、いくつか入替してもいいのかも」
日々の僕らの仕事の流れはこうだ。先輩と僕、各々営業先からの案件を社に持ち帰り、二人で検討し、各々が営業先にプレゼンする。だから営業先が変わろうが提案内容は同じだ。
「入替しても提案するのは同じものかもしれませんよ」僕が言う。
「うん、そうなんだけど、この一覧の担当者のところ」
「何だろうか」
村上龍案件で完全に聡美さんに取り込まれた神谷先輩。言葉遣いは優しい。ダチュラとか言わない。
「神谷さんの担当者は30代から40代の女性、で、朔ちゃんの担当者は40代からの男性、それも管理職が多い」
「先方担当者が、男性とか、女性とか、年齢とか、それ関係あるんですか」
「あると思うの。神谷さんは身長高いし、体格が良い。時々ダチュラとか言う」
「いや、言わないし、ていうかお客さんの前でダチュラとか誰が言うの」
神谷先輩は抵抗するけど聡美さんは続ける。
「女性の担当者に180㎝以上ある体格が良い男性はどうなんだろう」
僕は聞く。
「聡美さんは神谷さんが営業として来たらどうですか」
「うん、神谷さんがいい悪いでなくて、ちょっとびっくりするよね、圧、感じるし、ダチュラとか言うし」
「だから、言ってない、言わない、ダチュラとか」
神谷先輩を放置し、聡美さんが言う。
「逆に朔ちゃん、もしかしたらなめられているのかも。朔ちゃん、perfumeののっちを柔らかくした感じだからね」
神谷先輩はチョコレイトディスコとか歌いながら言う。
「あれか、相性か」
「そうそう、40以上のおっさんに朔ちゃんの柔らかさは合わない気がするし、もったいない。そこは神谷さんの、圧があって論理的なお話をのせていけばいいのかも」
神谷先輩は嬉しそうだ。
「朔ちゃんは雰囲気が柔らかいから、担当が女性のほうが良いのかも。芯がある受け答えも出来るし。私の頼れる担当者って思ってもらえればこっちのものかもね」
僕の頭でチョコレイトディスコが鳴り始める。
神谷先輩と僕のクライアントを8割ほど入れ替える。

始業時間後、すぐに営業に出る。受けた引き合いが簡単なものなら移動しながら見積を取り、次の営業先に向かう。それを繰り返し、夕方に社に戻り、神谷先輩と打ちあ合わせ。提案書の作成、見積をまとめる。それが今までの流れ。
聡美さんはその動きについて言う。
「朝一で営業行っても、相手にしてくれるのかな」
確かに。どうでもいい朝礼が終わり、その足で訪問に行く。でもアポイントがあっても午前中の早い時間帯からの商談はなかなか難しい。時間をつぶすことも時々ある。
神谷先輩が言う。
「今まで夕方から夜にやっていたミーテイングを朝礼後にやろう。この時間が一番頭が冴えているはずだ。このミーティングからの提案書をその日に作る。その日の引き合いからの提案書を無理にその日の夜にやらなくていいだろう」
僕らは営業先から夕方に帰って来て、その日にあったオリエンテーションに対する提案書を夜にかけて作っていた。終電までやる。次の日の朝はしんどい。僕が聞く。
「すごくいいと思うんですが、物理的に時間がないと思うんですけど」
聡美さんが言う。
「今まで2馬力だったのが3馬力になったのよ。それぐらい頼ってよ」
3馬力ではなかった。15馬力ぐらいになった。

聡美さんは朝一のミーティングで出された結論を提案書にまとめる。それに必要な商材を僕らからヒアリングし、各協力会社に見積を取る。僕らは移動中に聡美さんから送られてくる金額を元に先方に出す数字を作る。提案書も少しだけ手直しして先方に出す。
聡美さんが来て、毎日滞っていたものが勢い良く回り始めた。
さらに聡美さんは提案書のテンプレート化を始めた。キャンペーンの提案はそのクライアントによって性質が違い、提案書の内容もそれぞれ違うものと思い込んでいた。聡美さんは過去のキャンペーン提案書の違うところではなく同じところをまとめ、ほとんどのキャンペーンに対応するフォーマットを作る。今まで3~4時間掛かっていた提案書が30分以内で終わる。
毎日営業に出るときに聡美さんは僕らの肩に腕を乗っけて、「今日も取ってくるのよ」と言う。顔がめちゃめちゃ近い。毎日質の良いベルトコンベアーに気持ちよく放り込まれた気がする。

「朔ちゃんのスーツ、サイズが合ってない、とっても損している」
聡美さんは僕を立たせて言う。適当に買った2着、4万5千円。
「値段じゃなくてね。そのお店の年齢層があるのよ。朔ちゃん買ったお店は国道沿いのチェーン店かな。そういうお店はもう少し年齢層が高いの。同じ値段でその年代に合ったお店があるから。駅ビルとかに入っているスーツショップあるでしょ、同じ様な値段で買えるから」
「神谷さんはどうですか?」
「神谷さんもサイズ全然合っていないけど、相手がおっさんだからいいの。神谷さんがいい感じのスーツ着て行くと、逆に相手のおっさんがイラッとするのよ。マウント出来ないから。もっとヨレヨレでいいぐらいね」
神谷先輩が集中し、大きなタイピング音で提案書を上げている。過去、あの集中力は半期に1回。今はほぼ毎日だ。

クライアントを神谷先輩と入替た事が反応として現れた。神谷先輩の行く先の担当おっさん達は神谷先輩を可愛がった。無骨だけど繊細な所があり、生意気な様に見えて、打てば響く。年上男性に好かれやすいタイプだったのだ。
僕は担当がほとんど女性になったことから萎縮せずに丁寧にプレゼンができるようになる。
「朔ちゃん、お姉ちゃんいるんだよね」聡美さんが言う。
「はい、それも関係あるんすか」
「あるよ、お姉ちゃんと弟って、弟がふにゃふにゃな大人になる事が多い。でも朔ちゃん芯がしっかりしているんだよね、実家いつ出たの?」
「高専なんですよ僕。で寮に入ったんですよ」
「あ、だからか。高専の寮って16歳から20歳だから揉まれるよね、同学年であれこれするよりいいのよね」
「ごちゃごちゃしたほうがいいんですか?」
「そう、特に成人前ね。均一より多様性っていうじゃない」

聡美さんが作ったテンプレートなどで僕たちの仕事は効率化された。夜11時まで残業が当たり前だったのが何とか8時には帰れる様になりつつある。契約社員の聡美さんは一日2時間の残業はオプションで入っている。聡美さんは残業代が支給され、僕たちは新たに経費を払う必要がない。しかし神谷先輩は言う。
「聡美さんには残業させちゃだめだ」
「何でですか、お願いしたらやってくれますよ」
「あの人には残業というものが似合わない、残った業なんて美しくないだろ。そもそも残業は人類たるものやってはいけないのだ」
僕は聡美さんに恋をしていたが、神谷先輩は恋とか愛どころではなく、博愛とか仁義とかそっちに行っている。

2か月がたち、小さなキャンペーンなどが納品となり、数字が上がり始めた。聡美さんが来てから営業件数が増えた。ある程度関係性が生まれれば電話やメールで大丈夫だ。
チームのノルマは神谷先輩と僕、そして聡美さん経費で月に600万。売り上げとしては3000万前後。ぎりぎり未達だけど、悪い流れではない。

3か月間で区切られる聡美さんの派遣契約。社長に延長の申請をする前に、神谷先輩と僕は聡美さんの所へ行く。神谷先輩はシャツのボタンを上までとめ、ネクタイを整えて言う。
「派遣契約の延長をお願いしたいのですが、いかがでしょうか」
座っていた聡美さんは弾ける様に立ち上がり、よろしくお願いします、と言い頭を下げた。
後から聞いた事だが、派遣元の担当者より先に一緒に仕事をしている人達から契約延長の話を直接お話されたのは初めてだそうだ。神谷先輩は「俺たちはシステムの奴隷ではない」と言う。俺たちと言ったので、僕も含まれているはずだ。

新規顧客の獲得も始めた。僕らはテレアポからと考えたが聡美さんは言う。
「テレアポでもいいんだけど、それだと信用度ゼロからの勝負だよね、だったら、今上手く言っているお客さんに紹介してもらいましょうよ、テレアポは私が時間が空いた時にやるよ」
数字が伸びているクライアントの担当者に他社を紹介して頂けないか話をする。結構紹介してくれるものだ。もちろんすべて数字に結びつくとは限らないが、クライアントの数が増える。聡美さんは言う。
「自分が楽しんで使っているモノは言いふらしたいのよ」
聡美さんのテレアポも僅かだが数字に結びつく。そして新規は僕が担当するようになった。圧がある神谷さんが行くよりも最初は僕が行ったほうが良い結果が出る。頃合いを見計らって神谷さんに受け渡す。数字は上がる。



神谷先輩が社長賞を貰った。金一封3万円。
「3万円ってしょぼいよな」神谷先輩は封筒を指でつまんで言うが、その顔は嬉しそうだ。
「3万円、すごいですよ。普通の3万円じゃない」
僕は嬉しかった。今までお荷物で文芸部と揶揄されていた僕らのチームから社長賞が出た。聡美さんは僕らを笑顔で眺めている。社長賞は聡美さんがもらうべきだと神谷さんが言う。
「これで飲みに行こう。聡美さんが好きなところ行こう」
聡美さんが言い返す。
「神谷さんがもらった社長賞じゃないですか、神谷さんが好きなところ行きましょうよ」
僕が口を挟む。
「そんなこと言うとキャバクラとかランパブとかおっぱぶとかになるから、聡美さん、決めてください、僕が席取りますから」
神谷先輩は僕をアイアンクロウからのヘッドロックという古典的なプロレス技でその場から連れ出した。まるで痛くないプロレス技。
聡美さんが行きたいといったのは安いチェーン店の居酒屋。社長賞でそんなところに連れて行くわけにはいかない。聡美さんが好きな刺身が美味しい、少し高い飲み屋の個室を用意した。
日本酒、ビール、ワイン、各々好きなものを飲みながらアジやサバの刺身などをつつく。
「文芸部って言われているけど、二人は何か書いているの?」
「特に書いていないですね」僕は言う。
「書いたところで反応が乏しいからな、スポーツなら練習すれば上手くなるし、試合とかに出れば実力がわかるし。エッセイや小説って書いても何をどこに出しても反応がないからね」神谷先輩は刺身が美味しい飲み屋で鳥の唐揚げを食べながら言う。
「そうなんだ。でも書かないと始まらないんじゃないの」
「そうかもしれないですね、聡美さんはどんな作家が好きなんですか」
自分が打席にすら立っていないところを突かれるのがしんどいので流れを変える。
「団鬼六」
まさかのSM界の巨匠。神谷先輩は箸で持ち上げた唐揚げを宙で止め、僕は目の前の聡美さんの透き通る様に白い二の腕に荒縄が食い込む絵を浮かべる。
「え、冗談よ、冗談、冗談だから、ほんとに冗談」聡美さんの顔は少しずつ紅潮してきた。
神谷先輩の目線は宙をさまよい、そして時折聡美さんに行く。
「神谷先輩、今、どこに縄がありますか」
「あれだな、肩から、だな」
「どうですか」
「なかなか、もう、だからね」
聡美さんは顔を手のひらで覆い、冗談だからと言う。
「朔、あの界隈で赤いろうそく使うだろ、何でかわかるか」
「もちろんわかりません」
「あれはな、白い肌に映えるからだ」
「意外と安直ですけど、そのコントラストは、深いですね」
聡美さんは赤い蝋燭の様に顔が赤い。
「朔、団鬼六、おにろくって言う?それともきろくなのか」
「僕はきろくって読んでましたけど、おにろくが正式らしいですよ」
「そうらしいな、でもきろくのほうが鬼気迫るきがするな」
「神谷先輩の縄、今どの辺ですか」
「なかなか、いや、もう、だからさ」神谷先輩は怪しく言う。
「二人とも、ちょっと待ってよ」聡美さんが言う。
「これ、セクハラですか」僕は言う。
「ご本人様は喜んでおられる。ここが難しいところだ、団鬼六界隈は」
「神谷先輩はどっちなんですか、縛られたいとか思うんですか」
「俺の知らない恐ろしい扉が開きそうだからやめておこうか。剣菱頼むけど、みんな飲む?」

学生の頃から一人だった。社会に出てからも一人だった。本を読んでいればそれで良かった。でも聡美さんが来てから一人ではない気がしている。何かを相談する。それに対して神谷先輩と聡美さんは一緒に考え、悩んでくれる。僕も二人からの話が来れば出来るだけだけど何とか考える。
結局動くのは自分だし、決めるのは自分だ。でも横に誰かがいてくれるだけで立っているのが楽になった気がした。



チーム文芸部の数字は少しずつ伸びていった。冬が終わることには上位争いに絡むことが多くなった。紹介して頂いた新規のクライアントからさらに新規のクライアントを紹介してもらうケースも出てきた。良い流れだ。

6月。数字が上がらない。ただ来月に数字が上がる仕込みの時期だから特に焦ってはいなかった。
ミーティングの時に神谷先輩が今月利益で700上がる予定のキャンペーンを直前に他社に取られたと言う。その数字を僕は少しあてにしていたのだがしょうがない。神谷先輩は「ごめん」と謝る。聡美さんは神谷先輩の肩をぺしぺし叩きながら「よしよし、次頑張りましょう」と言う。僕は「社長賞で刺身食べたかったな」と言い、神谷先輩は「団鬼六はおにろくか?」と言う。

経理のなっちゃんから「請求したものが入金されていないけど確認してね」と連絡が来る。
札幌の会社だ。今まで10回ほど取引している。最初の2回の売り上げは各々20万ほど。3回目が30万。新規なので大事をとって初回から3回入金後納品という形を取った。データバンクの信用情報も大丈夫。その後の取引は順調だった。僕の請求書の出し忘れだろうと確認する。出している。聡美さんにも確認してもらうが請求している。
今回の額は800万。先方に連絡を取る。電話が通じない。現在使われておりません。
800万の未入金。口元まで胃がせりあがる。
社長に一報を入れる。3人集まる。
「朔、明日朝一で札幌に行け」
神谷先輩が言う。その場で聡美さんが飛行機のチケットを取ろうとするがファーストクラスしか空いていない。
「いいから、それで行ってこい、夜逃げや計画倒産だったら厄介な奴らもいるから十分気を付けて。新千歳空港降りたら30分に一度連絡入れろ、取り敢えず今日はもう帰っていいから」
「朔ちゃん、命取られることないからね。大丈夫」聡美さんが言う。

何をミスしたのか。
取引が始まる前からも東京から札幌へは足を運んでいない。しかし先方とは頻繁にやりとりしていた。他にもそのようなクライアントはいくつかある。
翌朝、羽田から新千歳行きのファーストクラスに乗る。800万。どうしたらいいのか。食事などが出てきたらしいが水しか飲めない。新千歳から移動する。メッセンジャーで連絡を入れる。神谷先輩からスタンプが来る。可愛らしい鬼。その後に聡美さんから「六」のスタンプ。手の汗が少しだけ引く。

800万の未収があるとそれはそれで大変な事になるのだが、さらに厄介な事がある。月の赤字が300万を越え、その同一案件で4か月以内に回収出来なければチームが解散になる。キャンペーンやイベントの状況で回収が後になるケースの事も考慮した決まりだ。今回、800万が回収出来なければ、チームは解散だ。3人ばらばらになるどころか、チームが解散になるので聡美さんとの契約が終了になる。

札幌の街中にある先方のオフィス住所まで行く。ビルの3階だが、1階ビル入口に人だかりがある。人波をかき分け3階に行く。扉は閉まっている。うつろな目をした50代ほどの女性がやられた、と呟く。計画倒産、夜逃げという言葉が僕の頭の上で飛び交う。近くにいる40代のスーツ姿の男性に聞く。
「売掛金回収、どうなんでしょう」
「幾ら」
「800万です」
「あ、むりだね、あそこの親父は2,000万、俺、1,200万」

神谷先輩と聡美さんにメッセを入れる。すぐに返ってくる。
「大丈夫だからな」神谷先輩。
「生きて帰ってくるんだよ」聡美さん。

羽田に着いた頃に神谷先輩からメッセが入る。
「有楽町に寄って客からサンプル引き上げてくれ。ついでに牛丼屋で特盛買ってきて」
有楽町のその牛丼屋はチェーン店売り上げ一位を維持している。売り上げ一位は旨いに決まっている、ということで僕たちはよく弁当で買っていた。聡美さんからも「私も特盛」と来る。
暗澹たる思いが少し楽になる。牛丼屋で特盛弁当3つ買う。

社に戻る。皆、僕を横目で見ている。
聡美さんがすぐに僕の手を引き、パーティションのある打ち合わせスペースに連れて行く。
神谷先輩も来る。
「無事で、何より」
そういう神谷先輩はぎりぎりだ。目の緊張感が隠そうにも隠しきれない。
上層部や弁護士と話をしていたのだろう。
「生きてこそよ」聡美さんは言う。
「あの、僕、死ぬとか一言でも言いましたか?」
「うん、顔がそんな色だった」聡美さんが言う。
「何とかなるんだから。大丈夫だ。取り敢えず牛丼、喰おうぜ」神谷先輩も言う。
レジ袋から弁当を取り出す。神谷先輩がそのうちの一つをとり蓋を開ける。
「これ、入ってないじゃねぇかよ」
怒鳴り声が響いた。
牛丼弁当の中には肉が入っていなかった。白いご飯だけ。
牛丼特盛と言ったはずだ。白いご飯が3つ並んでいる。立ったまま動けない僕がいる。
聡美さんが椅子をひっくり返して立ち上がる、自分のデスクに猛然と走って行く、誰かのゴミ箱につまづいてひっくり返すがそのまま行く、自分のデスクのキャビネットを渾身の力で開け、大きな音をたてて閉める、こちらに走る、つまづいて派手に転ぶがすぐさまに立ち上がり、小瓶を僕らがいるテーブルに大きな音をたてて置く、息を切らせながら言う。
「これ、ふき味噌。ご飯に合うから。私の実家のふき味噌。食べて。みんなで食べよう、ね」
神谷先輩は僕の肩に手を置き、「すまん」と言う。
3人で白いご飯にふき味噌を載せて頂いた。視界がぼやけながら食べた白いご飯とふき味噌。僕を引き上げ、3人を引き上げるという意思が詰まったふき味噌。

結局3人のチームは解散となった。聡美さんは別のチームに行き、契約延長を請われたがそのままやめて行った。
神谷先輩はその一年後にやめ、僕は未収金、弁護士費用もろもろ含めた金額を会社に戻した形になってからやめた。

神谷先輩と聡美さんは結婚した。結婚式と披露宴で僕は誰よりも泣いた。結婚式であそこまで多幸感を味わう事はないだろう。披露宴のお土産にふき味噌があった。
ふき味噌は、ふきのとう、味噌、ごま油、みりんなどでつくる。ふきのとうの香りとほろ苦さ。優しく甘辛い。

あの3人のチーム。聡美さんの工夫の一つに営業頻度をあげることがあった。営業頻度が上がった事が数字につながった。打席に立たないとボールは来ないし、バットも振れない。僕は今小説を書いている。打席に立たないことには何も始まらない。
ご飯しか入っていなかった牛丼屋。別のチームが僕らの様子をみて店に電話してくれていた。すぐにお弁当を持って伺いますと言ったそうだが、僕らは丁寧にお断りした。

先日、神谷夫妻にお子さんが生まれた。二卵性双生児。男の子と女の子。
押しが強い男の子と、その男の子を軽々と操る女の子に違いない。
お祝いを送った返事が来た。
神谷先輩の書いていることは村上龍と江國香織が混ざったような良く分からない長文だった。聡美さんからはこう書いてあった。

「うちには縄もろうそくもありません。また遊びに来てね」






タダノヒトミさんが開催するこちらのコンテストに参加しています。


トップ写真引用元:https://www.photolibrary.jp/


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