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人生最初の選択肢

*今回の話は人間の外見的特徴に関する話が含まれていますが、聴覚障害を持つ者のコミニュケーション方法の重要な部分として書いています。
 ご気分を害されることのないよう、ご理解頂ければと存じます。



 聾学校の幼稚部に通っていた私は、6歳の時、ある選択を迫られた。
 記憶する限り、これが人生を左右する最初の選択肢だったと思う。
 その選択肢とは、

1.聾学校の小学部にそのまま進級する。
2.地元(学区)の小学校の普通学級に入学する。
3.難聴学級のある遠方の小学校へ越境入学する。

 というものだった。
 以前描いた漫画にある通り、最終的には3番の難聴学級を選んだわけだが、母はとりあえず全ての選択肢を示し、それぞれの学校に見学や面接を勧めてきた。

 1番の聾学校の小学部は幼稚部と同じ敷地内にあり、勝手知ったる場でもあったが、仲のいい先輩達が悉く3番の難聴学級のある小学校を選択しており、あまり気乗りしなかった。
 3番の難聴学級のある小学校はバスに結構な時間揺られて行かねばならず、しかも毎朝通勤や通学で寿司詰めであった。これもあまり気乗りしない。最終的にはこれを選んだのだけど。

 そして、2番の地元の小学校。
 近所の小学生達が当然、みんなここである。
 毎朝大量の小学生が群れを成して向かっているのを見ている。
 そしてヤツらは、否、彼らは“かなり“わんぱくだった。

 補聴器を付けて手を使って(手話ではなくキュードサイン、あるいはキューサインという会話方法。これもいつか書きたい)聾者独特の発音で会話する私は格好の好奇心の的だった。
 背後から声を掛けて反応を試したり、背中をど突かれたり、補聴器を外されたり、手話の真似事をされる、などは当たり前で、母からしてみれば「あまり治安がよろしくない」という印象だったようだ。
 しかし「社会に出れば否応なくそういう目に遭う。今から自分で何とかする術を身につけてほしい」とも思ったらしい。

 前置きが長くなった。

 とりあえず、その地元の小学校へ面接と見学だけでもしよう、という話になった。
 6歳の、秋の終わり。
 校長先生と校長室でお話ししましょう、ということで、母と校長室に通される。

 さて、聴覚障害のある人間が聴者と会話をする際、筆談や手話以外の方法と言えば、「口の形を読み取る」しかない。
 スマホやタブレットなどもない、昭和の昔の話。
 そしてそれが入学の条件でもあった。

 「先生の口の形を読み取ることができるなら、その方法で授業を受けてもらう」

 私は緊張した。校長先生のお話、分かるだろうか。
 そうして登場した校長先生。
 しかし、そこで私と母は固まった。

 人様の容姿に物申すことは大変失礼かつ、してはならないことであったが、校長先生は「おそ松くん」のイヤミ氏をそのまま体現したような方だったのである。
 口の形を読み取る会話をされた経験のある方ならもうお分かりであろう。
 読み取れないのだ。

 母はその瞬間、これは終わったな…と思ったそうだ。
 読み取れないことが“終わった“のではない。

 私が非常に真面目に、頑張るからである。

 頑張る、というのは、その校長先生の口元を読み取ろうと必死に凝視する、ということである。
 母の説明によれば、私は何とか読み取ろうとして校長先生ににじり寄り、下から覗き込み(そうしないと舌の動きが読み取れないからだ)、目玉が飛び出そうなほど見つめていたという。

 校長先生は恐らく、いや、間違いなくコンプレックスに思っていたであろう。
 6歳の幼児に自分の口元を食い入るように見つめられ、話すたびに「今のお話、分かりませんでした。もう一回お願いします」(分からなかった時はそう言うように躾けられていた)と繰り返すという風景。
 表情が澱んでいくのが分かった。

 やがて、校長先生は口元を手で隠してしまった。
 そうなると、もう話は進まない。重い沈黙。
 その沈黙は退場の合図でもあった。

 私は難聴学級のある遠方の小学校に入学した。
 人生最初の選択肢は「誰しもどうにもできないことがある」というほろ苦い記憶とともに選ぶこととなった。

【追記】
 当時、私が通っていた聾学校は手話を禁止しており、口の形を読み取る会話方法を推し進めていた時代だったことも、この記憶のほろ苦さの理由にあったと思う。

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