*今回の話は人間の外見的特徴に関する話が含まれていますが、聴覚障害を持つ者のコミニュケーション方法の重要な部分として書いています。 ご気分を害されることのないよう、ご理解頂ければと存じます。 聾学校の幼稚部に通っていた私は、6歳の時、ある選択を迫られた。 記憶する限り、これが人生を左右する最初の選択肢だったと思う。 その選択肢とは、 1.聾学校の小学部にそのまま進級する。 2.地元(学区)の小学校の普通学級に入学する。 3.難聴学級のある遠方の小学校へ越境入学する
あれは私が5歳か6歳の夏の話だ。昭和の時代である。 今と同じく、夏になるとあちこちで夏限定のビアホールができた。 大抵はデパートの屋上だったと思う。 パラソル付きの丸いテーブルがそこかしこにあり、連なった豆電球が張り巡らされ、それらの向こうには舞台が設えてあり、アロハダンスだったり、バンドだったりで、夏の夜を演出していた。 母は私と、私の聾学校の同級生の母親たちとビアホールに来ていた。今で言う所謂「ママ友」というやつだ。 その頃、聾学校の幼稚部に通っていた我々