創世記第22章1〜19節「捧げ物も、贈り物」
8月4日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材は創世記第22章1〜19節「捧げ物も、贈り物」。ずっと創世記に関する説教を行ってきたが、ここらで一区切りさせたい。
神はアブラハムに燔祭つまり炙り殺しにする生贄として、息子のイサクを求めた。読む人にとっては、神に対するイメージを戸惑いかねない箇所である。アブラハムは息子を縛って、刀を手に持った。しかしここで神は全てをストップさせた。ここの説教として、よく使われるテーマが「アブラハムは神に全てを捧げた」であるが、これに対して神は御子イエスの命を捧げたのである。
ここで別の視点から、この創世記を読んでみよう。燔祭台への登攀の際に息子イサクが言った「何処で生贄となる羊を買えるのだろうか」という疑問に対して、アブラハムが行った答えは「そのうち神さまが用意なさる」という言葉だった。これは苦し紛れとも見える答えだが、信仰心から芽生えた回答とも言える。実際に言った通り、神の用意された羊で燔祭ができたのである。これが神と信仰者との関係である。
C.S.ルイスは「ナルニア国物語」で有名な作家だが、英国国教会神学者でもあった。その著書「キリスト教の精髄」でこう述べている。「1人の子供が父の誕生日に6ペンスを求めた。父は子供の求めに応じて6ペンスを与えた。子供はそのお金でプレゼントを買って、父親に渡した。もちろん父親はプレゼントを喜んでいただろうが、父親は全く何の得もしていなかったわけである。私たちと神の関係もこれに当たる。
自分が牧師になってまもない頃にお世話になった先生(故人となった)は、「コリント人への第一の手紙」第15章10節「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ている」を引いていた。『私たちは5割が神さまの恵みで、5割は自らの努力でできている』と思っている。しかし実際には10割が神の恵みによってできているのである。目が見えること、耳が聞こえること、血液が循環していること、胃腸が活動していること、酸素を吸って呼吸できていること。これら全てが神の恵みによるからである。
人生は神のプレゼントである。アブラハムの信仰は、神からもらったものを捧げた行為である。なぜならイサクは神から授かった子であるから。その生命も含めて、神に返したのである。創世記第22章14節には「主の山に備えあり」とある。献金唱に「賜りしものを返し奉る」という歌詞があるが、われわれの献金も元はと言えば神から恵まれたもの。奉仕も礼拝も神の恵みに対する返礼なのである。従う力も、元はと言えば神の恵みなのである。