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富美屋なべと、君。

いつかその日は来るのだと、思っていた。

「現代は品がなくて嫌。」と、世界を大してよく知りもしないくせにやけに大人びていた君の、愛読書は嶽本野ばらの「それいぬ」だった。
その中に「女学生なら京都で食せよ富美屋なべ」という短いエッセイがあって、その一節を君は理想とする女学生の姿と崇めていた。

太いみつあみを結わえ、チェックのマフラーをだんご結びで首にして、
制服の上から学校指定の野暮なコートを着たまま額に汗なんぞをして、
「猫舌なのよ」と言い訳しつつそれでも色気構わず豪気にズルズルと、
うどんをすするが美しき女学生。

「いつか、これ実現するから付き合ってね。」と、君はいつも言っていた。
もちろん、君がそう言うなら。僕はいつだって。
この放課後の教室から京都までは、もう少し大人にならなければならない程度の距離があった。でもそれはそう遠くない未来だと信じていた。

そしてその日はついに来ることがないまま、僕らは大人になってしまった。

君はいくつかの大病と母親との死別の後、あの頃同じ教室に居た、僕なんかよりずっと良くできた同級生の男と結婚した。僕は相変わらずこんな取るに足らない10代のような感性と君を、引きずって生きている。

みつあみも学校指定のPコートも君も遠い。
皮肉なことに、勤めが京都になった僕には富美屋だけが近い。

この店だけは君なしでは入れないのに。

京都に来てもう何度目かの夏が来る。
祇園囃子の向こうから照りつける西日に、「日焼けが嫌だから陽が沈むまでは帰らない」と言って聞かない透明な肌の君に付き合った、いくつもの陽に焼けた放課後を、きっとまた思い出している。

でもそんな気持ちを誰にも言えない、私です。