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過去と今と未来の話。

数日前、パートナーのモクちゃんに、
「やどり、最近、境界性人格障害の症状っぽいの減ったね」
と言われた。
その時は「そう?」と返しただけで、あまりピンと来なかったのが正直なところだが、時間が経つにつれてその言葉が段々としっくりきている。

私は今から15年くらい前からずっと闘病している。
いろんな病院を転々とはしていたが、精神の安定があったことは非常に少ない。
当時から、うつ病や境界性人格障害などの診断がされてきたが、自分でも納得せざるを得ないくらいには症状が当てはまっていた。

依存症気味で、自分を傷つけ、常に不安がまとわりつき、パニックを起こし、幸せという感情が自分にはないのではないかと思っていた。生きづらく、モクちゃんへの執着もひどくて、ものすごく迷惑をかけた。
私が自傷や自殺未遂をする時は、本当に何もかもに絶望して終わりにしたい時と、正直ただ構って欲しい、寂しい、という気持ちの時と、両方あったと思う。ただ後者に関しては周りにはとてつもなく迷惑な話で、そんなことでいちいち死を仄めかされていたらたまったもんじゃないだろう。今ではそれがわかる。

近年、そういうことは本当に減った。
腕は古傷があるくらいで、昔ほど傷への異常な関心もないので袖を捲って外も歩けるようになった。気を引くための自殺未遂は、しばらくしていない。胸を張って言えたことではないが、まだ希死念慮があるためそれに関しては「しない」とも言えない。


昔、私は先の予定が苦手だった。どんなに大好きな友達と遊ぶ時でも、“先に予定がある”という事実に苦しめられた。予定が翌日でも、一週間先でも、一ヶ月先でも、ずうっとそのことが頭から離れず、胸が苦しくて不安で、訳のわからない動悸やイライラ、悲しみ、そういうものに襲われ続けた。
遊びに行ってしまうと楽しいのはわかっていた。苦しむ必要もなければ、理由も明確ではなかった。それでも毎回、予定までの時間は一分一秒ずうっと苦痛だった。

そういう意味でも私は変わったと思う。
今ではそんなに先のことを考えなくなった。むしろ予定を忘れてしまうのではないかというくらい、何も考えられなくなった。考えないことで、以前のような苦しみは少なくなり、多少なりとも生きやすくなっているのだろう。まあ、ギリギリに予定を思い出し焦るものだから、手放しに良いことと言えたものではないが。

近頃の私は、日付感覚も曜日感覚も時間感覚もない。日々何もしていないわけではないけれど、昔のように何かに囚われているわけでもない。良くも悪くも、ぼうっとした人間になったように思う。
カレンダーに何かを書くのは好きだから、割と予定はしっかり書いている。それを見る癖もある。だが見るだけで何も頭には入っていない。時計も同じだ。何度も時計を見るけれど、時刻は一切頭に入っていない。周りの人間に、「何時だった?」と聞かれても、もう一度しっかり見直さないと答えられない。

とまあ、話は脱線してしまったが、昔のような苦しみは減ったなあと気づいた。今では友人と遊ぶことを純粋に楽しみに思えるし、数日後に控えている嫌な予定も考えていない時間があるくらい、ぼうっとしている。
(ただ、考えている実感がないだけで無意識に嫌なことを考えている時があるらしく、得体の知れない不安がもやもやと付き纏い、払拭出来ないことが多い。それはそれで非常に苦しい。)

こうやって人は変わっていくし、病状も変わっていくのだなあと身をもって実感している。数年後、すっかり病気が良くなっている可能性もある。信じられないし、今はそんな未来の想像までできる余裕はないが。


私の手相は両手鎖ますかけ。大器晩成とずっと言われてきた。
これからの人生で、私の今までの苦しみが全部笑えるくらい、幸せになるかも知れない。よね。

やどり

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