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人生で遺すもの

 エスペラントの師匠が今年の初めに亡くなったことをたまたま知り、それ以来ショックで気力がない。

 まだ66だった。

 尊敬していた師匠の奥さんも53で亡くなった。

 同じく今年、尊敬していたY先生も52の若さで亡くなった。

 さらに6月久しぶりに訪ねたら、沖縄の父と慕った人も去年亡くなっていた。

 今も彼らと一緒にいた日々はつい昨日のようで色鮮やかに蘇る。

 沖縄のブロンソンは最後までかっこいいまま死んだというが、エスペラントの師匠マサオは、晩年ほとんど会っていない。

 尊敬していた奥さんが亡くなってマサオはすぐ再婚した。毎週勉強に通った家は新しい奥さんがリフォーム、もう思い出の場所じゃなくなった。子どもたちも寄りつかないと聞いたけど、その子どもたちと会ったのも再婚式が最後だったように思う。なぜか身内でもないのに私は彼らと同じテーブルだった。それももう10年以上前の話。

 まあ、それでも師匠には定期的に挨拶に行ってたけど、晩年はなんだかすっかり気力がなくなってる様子で、会いに行っても「悪いけど帰ってくれ」と言われるので、次第に足も遠のいた。

 そう考えると六月に亡くなったY先生もマサオの奥さんも死ぬ直前まで気力を失わず、尊敬する人のまま亡くなったし、どちらも末期がんだったのである程度の覚悟はあった。特にY先生は自宅療養になってから会いに行った日、もうこれが最後かもしれないと姿を目に焼きつけて帰ったのが今も記憶に新しい。

 マサオ師匠の場合、衰えて別人のようになっていた数年前から、もうあの一緒にいた時間は終わったんだと感じさせられていた。

 よく飲みに連れて行ってもらった。私のエスペラント小説を一緒に仕上げて、ヨーロッパの文芸誌Beletra Almanakoに掲載された時は誰よりも喜んでくれた。ゲスな話もたくさんした。私が心置きなく下ネタを話せる唯一の悪友的一面もあった。

 かなり強烈な個性を持っていたマサオの行動をブログに書き、マサオ日記として本としても発行した。マサオにあげようと思ったけれど、前の奥さんのこと、再婚前の家庭のこともたくさん書いてあったので、今の奥さんに気を遣って渡せないまま。死んだらお棺に入れようとは思っていたのに、死んだことすら知らされなかった。

 沖縄のブロンソンの死も知らなかったけれど、これはちょうどいいタイミングで呼ばれたんだと思う。
 六月、コロナだけど中国語検定で沖縄に行った。コロナなのでレンタカーを借りた。車なので移動範囲が広くなり、焼き物作家だったブロンソンの工房がある場所まで向かった。

 そこに現れたのは亡霊のような奥さん。あんなに元気で明るかった人がもぬけの殻状態。ブロンソンが末期がんになるまで気づかなかったことで親戚中から責められたらしい。

「おとうさんが不滅だっていうから、わたしもそう思ってたから」

と奥さんは自分を責めてたけど、奥さんはどこかぬけてて気づかない人で、だからこそブロンソンが好き放題できたわけで、周りが何と言おうとブロンソン自身はどうせあの世で笑ってる。

「ブロンソンがブロンソンらしくいられたのは、奥さんのおかげだ」

 そんなようなこと言ったと思う。

 正直何話した覚えてない。でもただ私は笑い飛ばした。

 まるでおとうさんが戻ってきたみたいだと言われた。ブロンソンにしかなつかないはずの黒猫が私にすり寄ってきていた。本当に戻ってきたのかもしれない。

 ブロンソンはいつも「人生は浪漫だ」と言っていた。それで好き放題やって死んだ。最後までかっこよかったと思う。

 亡くなった人たちは私に大事な言葉を残していく。

 マサオはいつも私に

「老人は若者のために生きねばならない」

と言っていた。

 この言葉はいつも私の胸にある。

 若い頃は年配の人にかわいがられてきた自分だったが、今は若い子に慕われることが多い。
 マサオが私の原稿を添削してくれたことを思い出しながら、若者の原稿も添削したり、私の投稿した小説が、見知らぬ若者のお手本にされていたりすることに世代交代のようなものを感じる。

 文学部出身だったマサオに「なんて貧しき読書体験」と言われながらも「それでもこれだけ書けるのはすごい」と言われてきた。

 同じく文学部出身の奥さんにいつも原稿を添削してもらっていた。

 最近自分もその楽しみが少しわかってきて、二人のことをいつも思い出している。

 私の場合は仕事でやっている作文添削だけれども、文才がある学生はすぐわかるし、なるべくその子が表現したいものを的確に表現できるように言葉を探す。そのパズル探しはたいへんだけどおもしろい。添削作業は砂金洗いのようなもので、不純物をとって金を輝かせるように文章を磨き上げる。

 マサオがよく「有名な作品や名のある作家の作品しか読まない奴もいるけど、身近な人が書いているものって僕はおもしろいと思うけどね」と言っていたのも思い出す。

 今はよくわかる。身近な人が何を考えているか、何を秘めているのか、文章を通して人間観察をするおもしろみ。身近だからこそおもしろかったり、その作業を通じてわかりあえることもある。

 そのマサオから聞かされていた話で、高校の教師だった奥さんはいつも出勤前に鏡に向かい、

「今日、自分の放つ言葉が学生の一生に影響を及ぼすものになるかもしれない」

と言っていたそうだ。

 52歳で亡くなったY先生は画家であり教師でもあった。
 Y先生の恩師のお言葉を私もモットーとさせてもらっている。

「先生はいつもご機嫌でなければならない」

というものだ。

 正直、マサオ師匠の死を知って以来、なんか人生に虚しさを感じて、気力がなかなか戻らなくて、一日の大半寝てて、授業ぎりぎりまで起きれないのだけど、授業になったら必ずテンションをあげている。

 学生にはいつも一定のテンションでいようと思ってるし、尊敬するこの二人の女性教師の言葉が常に胸にあるからだ。

 マサオの「年寄りは若者のために生きねばならない」
 奥さんの「今日、自分の放つ言葉が学生の一生に影響を及ぼすものになるかもしれない」
 Y先生の「先生はいつもご機嫌でなければならない」
 ブロンソンの「人生は浪漫だ」

 私は幸いなことに素晴らしい人生の先輩たちに恵まれてきた。

 そして彼らの死により、完全に若者としての私はもう失われたのだと思った。

 あの時間はもう戻らない。

 そう考えるともう自分も晩年を迎えた気になってきて、人生も先が見えてきた気がして、なんかものすごい虚無感に襲われて、輝きが一気に色あせていくような、どうしようもない淋しさを味わっている。

 今はただ学生や卒業生に求められたことをやっているという感じで、助けを求められれば助けるし、メンタルがやられている学生にはいつも気にかけていることを伝える。

 誰にも求められない、必要とされないことほど虚しいことはない。あんなに尊敬したマサオの奥さんでさえ「社会の役に立ちたい」と言って亡くなった。

 Y先生も最後まで絵を描き続けて、最後まで私とアイデアを出し合った。

 ブロンソンはもう何年も会ってないのに新しい携帯にも私の古い携帯番号を登録していたという。

 内村鑑三の「後世への最大遺物」を読むとマサオの奥さんのことをよく思い出した。今はマサオのことも思い出す。

 自分は自分の生き方を通して若い人に与えられる何かがあるだろうか。
 私がマサオとの人生の重なりから実は受け継いでいたもの、それを感じ取りながら書いていたのがあのエスペラント作品ではなかっただろうか。

 それが見知らぬ国の誰かが読んで、その人が苦しんだ時に励ますものとなったこと。日本が震災でたいへんなときに、その人が「今度はあなたを励まします」とメッセージをくれたこと。それこそ国境も人種も関係なく作品のメッセージが届いたこと。それこそがマサオ師匠が当時若者の私に受け継がせて得た成果だったんじゃないだろうか。

 私も若者の力になってその若者を通して誰かの力になることができるんだろうか。

 それとも私の人生は今ただ晩年に向かってるだけなんだろうか。

 とにかくもうすでに一つの時代が終わったのだ。

 私の人生の中で、今も鮮やかに思い浮かぶあの思い出の中の人たちはもういない。

 過去を偲んでいるから今未来に希望が持てないだけかもしれないけれど、それでも師匠との思い出となるあの作品のように、私も少しは自分の人生が誰かの人生を豊かにするような関りがもてればいいと願う。

「一タラントの幸福」

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