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自殺の背景は「社会的模範からの逸脱」じゃなかろうか?

 人が自殺したとき、その背景が気になることは少なからずあると思うんですよ。身近な人の心の内を知りたかったり、ゴシップ的に気になったり、さまざまですが。
 背景について色々な意見はあると思います。で、大体が「故人の問題」として片付けられている感がある。私個人としては、それは違うと思うので筆を執ってみた。
 結論から言うと、私は「社会的模範からの逸脱」がすべての自殺の背景だと考えています。


メインの話:「社会的模範からの逸脱」で何が起こるのか。

 社会的模範というと仰々しいですが、要は社会で良いとされていたり、ごく普通とされていることです。例えば、学校にいつも通うとか、働いて稼ぐとか、余計な借金をしないとか。より広くとらえると、若いうちは心身健康で病気をしないとかも含まれるかもしれません。
 この、社会的模範に乗っているうちは社会は優しいのですが、少しでも逸脱すると牙を剥きます。みんな自分と違う存在を受け入れたくないんでしょう。

逸脱に社会は厳しい

 よく、社会のレールから外れる、という言葉を耳にしますが、(大なり小なりあれど、)これは逸脱の言い換えの一つです。レールから外れた人間に対する社会の風当たりは強く、厳しい状況を作り出します。
 ただし、日本に暮らしているならば、ちょっとやそっとじゃ路頭に迷わない……はずです。色々な福祉制度やNPO団体があるので。では何が問題か。それは多くの場合、偏見です。カッコいいし、解像度が上がるので、ここではスティグマという言葉を使います。偏見=スティグマと読み替えてください。

スティグマが人々を追い詰める

 スティグマの代表例で言えば精神障害ですかね。精神障害って目に見えないので、何をやらかすかわからなくて怖がられたり、気分障害だと怠けだと思われがちだったりします。そうしたスティグマが当事者を心理的に追い詰めていきます。そして、究極は死を選ぶと。
 他にも、不登校だったり、無職だったり、ギャンブラーだったり、社会的模範から逸脱した人々はスティグマを持たれます。そして追い詰められていく。人間の性質上、仕方ないのかもしれませんが、スティグマを少しでも解消して生きやすい社会を作りたいものです。

補足の話:自殺の責任は背景だけでは語りきれない。

 ここで気になるであろうこと。「じゃあ自殺は誰のせい?」ということに触れます。

 「自殺は誰のせい?」という問いを「自殺の責任はどこにある?」と言い換えてみます。要は自殺の責任論です。極端に感じる人もいるでしょう。でも、突き詰めればそういうことなんだと思います。
 残念ながら、自殺の責任論について、今回の記事では扱いきれません。ちょっとだけ言えるのは、社会に少なからず責任はある、です。
 背景はあくまで「なぜ起こったのか?」であって、責任を問うことは出来ません。
 個人的"願い"だけ言えば、当事者含む関係者みんなにちょっとずつ責任がある、でしょうか。何故"願い"なのかは、(広義含む)自死遺族に思い詰めて欲しくないからです。かくいう私も……、は別の話題とします。

最後に:自殺を単なる「故人の問題」として片付けないで欲しい。

 自殺の背景を「社会的模範からの逸脱」と一括りにするのは暴論だ!と感じる方もいらっしゃったかもしれません。私ですら、やや極端だったかなと思っています。
 それでも暴論を語ったのは、自殺を「故人の問題」にしてしまう風潮を止めたいからです。あまりに残酷すぎる雰囲気を打破する一助になりたいがために書きました。
 ここまで読んでくださった人に少しでも実りがあれば嬉しい限りです。

ブログとはまた違ったテイストです。