精神(こころ)は存在するか(1)

 「精神(こころ)は存在するか」というのは、私がいつも考えていることである。考えがまとまってから書けばいいのかもしれないが、まとまるまで待っていたら書くことができないと思うので、(その前に死んでしまうと思うので)、少しずつ書いていくことにする。

 仏教というのか、東洋思想と呼べばいいのかよくわからないが、五感+心(意識)で世界を把握する。目耳鼻舌身は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それは独立している。それを統合するものとして「意識(精神/こころ)」があるというのだが、どうして「意識(精神/こころ)」という目に見えないものを持ち出すのか、これが私には疑問なのである。
 なぜ「頭(脳)」を目耳鼻舌身に追加し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚+ことば(意識=知覚)という「構図」にしなかったのか。仏教が誕生したころは脳は頭のなかに隠れていて見ることができない(触ることができない、存在を確認できない)から、目に見えない「精神(意識/こころ)」を割り振ったのか。そうだとしても、脳の存在が誰にもわかるものとして認識されてからも、その脳(頭)を組み込む形で、それまでいわれてきている仏教思想(東洋思想)を再編成しようとしないのはなぜなのか。
 私は、何も知らない人間の大胆さで、「目耳鼻舌身頭(脳)」と「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、知覚(ことば=精神/こころ)」という「構造」で「世界」を整理し直したいと思っている。
 私は、「一元論」を、私なりに書いてみたいと思っている。
 私の「一元論」は簡単に言いなおしてしまうと、世界に存在するのは「私という肉体」だけであり、そのほかのものは「私の肉体」が、そのときそのときの必要に応じて、「存在すると知覚したもの/知覚しようとしているもの」ということになる。
 コップがある。水がある。そう認識する(知覚する)とき、それは「私という肉体」がコップや水を通してことばを動かし、何かを考えたいと思っているからである。別なことばで言えば、そのとき動いたことばの範囲(領域)が「世界」であり、コップや水を書いている瞬間、花や太陽は存在しない。花や太陽は存在しないと書いた瞬間(ことばにした瞬間)、存在するものとしてあらわれてくる。「肉体」は「ことば」とともにあり、「ことば」とともに、その瞬間瞬間に「世界」は形を変えながら存在する。
 こういうことを「無常」というのではないか、あるいはこの「肉体=ことば=世界」というときの「イコール(=)」を「法」と呼べばいいのではないか。

 結論(?)を先に書いてしまうと、もう書くことはないなあとも思うのだが、その「結論」までの「道筋」をどうデザインしていけばいいのか、よくわからない。よくわからないが、それを書きたいと思っている。

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