よみがえる恐怖

 2016年07月の「参院選」の1週間前の日曜日。私は新聞社の仕事をしていた。その日は「参院選の当落予測」を報道する紙面をつくっていた。ふつう、こういうとき新聞社は「活気」がある。しかし、その日は違った。静まり返っている。だれも「世論調査」の「数字」を気にしていない。自民党が圧勝することはわかりきっている、だれが当選し、誰が落選するか、「予測」してみる必要もない、という感じだった。
 そして、その「予測される結果」に対して、だれも何も言わない。「批判」も「肯定」もしない。「残念」とも「よかった」ともいわない。静かに受け入れている。それ以後、衆院選でも同じような状況がつづいた。まるで、私だけが「脚本」を手渡されずに、現実という「芝居」に投げ込まれている感じ。みんな「結末」を知って、それにあわせて機械のように動いている。アドリブがないのはもちろんだが、ほんの小さな言い回しのミスさえないという感じの静かな雰囲気。

 いま、私は年金生活で新聞社ではどんな雰囲気で人が働いているか知ることもできないのだが、紙面や何かから感じられる「奇妙な絶対的静かさ」(予測される結果に対する批判のなさ)は、16年の夏以上だ。
 いまは、参院選(あるいは衆院選)ではなく、安倍の「病気辞任」後の「総裁選」前なのだが。
 その「総裁選」の「予測」ははやばやと報道されて、「予測」を超えて、事実になってしまっている。

 それにしても、おそろしい。
 安倍が「辞任会見」語ったことを要約すれば、「コロナ対策にかける金を減らし、その分を敵基地攻撃にまわす(ミサイルを買う)」。
 あの日、なぜ出席していた記者が問い詰めなかったのか、私は疑問に思いつづけている。
 その後の、読売新聞の「敵基地攻撃構想」の「特ダネ」、各社の後追い(28日の「辞任会見」で言っているのに、なぜ、「31日にわかった」のような「後追い」の書き方をするのかわからないが)、さらに菅総理への自民党の一致団結ぶりを見ていると、なんだか読売新聞だけが安倍の片棒担ぎをしているのではなく、あらゆるマスコミが片棒担ぎに連携しているとしか思えない。
 「事実」は「シナリオどおり」に動いている。知らないのは、私だけ。
 ほかの読者(国民)は、どれだけ知っているのだろう。いわゆる「識者」たちは、何を知っていて、何を隠しているのか。
 私にはあらゆることが「隠されている」としか思えない。
 「コロナ対策にかける金を減らし、その分を敵基地攻撃にまわす(ミサイルを買う)」という政策を、「問題はありません」「その指摘はあたりません」「あなたの質問に答える場ではありません」と言い続けた菅が、行政の長となって推し進めるのである。「コロナに感染しても軽症なら治療費は自己負担。仕事を休んでも、それは予防対策をとらなかった自己責任。政府には関係ありません」と国民は切り捨てられるのだろう。

 みんな、こわくないのか。
 こわくない人がいるということが、また、こわい。
 私はもともと病弱で、いまは年金生活である。言い換えると、余命がそんなにあるわけではない。どうせ死ぬのだとわかっているが、こわいなあ。死も、この世の中の動きも。

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#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞

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