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アルスラーン伝記

アルスラーン伝記を読んでいる。

権力と欲望が渦巻く戦乱の世の中で、アルスラーン王子の人格が希望の光となって輝いている。

当時は奴隷制度が一般的であり、自由人と奴隷という身分が存在し、奴隷は自由人の所有物であり、自由人と同じ権利は認められていなかった。

ところが、アルスラーン王子は、奴隷の1人(エリム)のことを「友」と呼んだ。いやむしろ、「友になってほしい」と自ら願った。

その奴隷の印象的なことばがある。「あの方といると、自分の身分を忘れてしまう」。


私はこのことばに馴染みがある。私自身がある方に対して抱いている思いそのものだからだ。

そのお方は、私の主イエス・キリスト。

私はこの方のしもべにすぎない。いや、かつては敵であり、簒奪者だった(主の権威と栄光を奪い、自分のものとしようとしていた)。

したがって、御怒りと裁きを受けるべき存在に過ぎなかった私を、主は憐れみ、罪と罰から解放して自由を与えてくださった。

キリストの時代(古代ローマ)、奴隷を買い取るためには、贖い金(あがないきん)が必要だった。同様に、罪と罰の奴隷を買い取るためには、罪のない義人のいのちが必要だと聖書は語る。

しかし、そんな人間は存在しなかったし、これからも存在し得ない。だから、神ご自身が備えてくださった。ご自分の愛する御子を。

神のみむねにしたがい、御子イエスは、そのきよくけがれのないからだを、私たちの罪のための贖いの代価として捧げてくださった。

このお方は王なる神の御子であり、天と地のすべての権威を与えられ、統べ治めるお方。

であるのに、この方はご自分を低くして、奴隷の私のために、いや反逆者であり簒奪者であった私のために、いのちを捨ててくださった。

私のことを「友」と呼びながら。

主は復活なさり、今も生きておられる。

このお方を主と仰ぐ者は、どこの国の者であっても、どんな身分であろうと、みな救われる。

そこに差別はない。

この方は、恵みによってすべての罪を赦し、私たちをご自分のしもべとして受け入れてくださる。しかも、友となって、親しく近しく、いつも共に歩んでくださる。

そしてついに、地にさばきを確立される。

主イエス・キリストに栄光あれ

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