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自分の人生が大きく変わる出発点になった、10年以上も前のできごと

今でこそ海外で仕事をしながら生活をして、ヨーロッパ各地を飛び回っている自分だけれど、当然ながら昔からこんなことをしていたわけではなく、学生の頃は特に最初のほう、むしろ全然自分が人生に馴染んでいなくて、毎日苦しい日々を送っていたのだ。


もともと、自分が勉強したいことがあったので大学進学をしたので、「就職に有利だから」という理由で国立大学に進学したわけでもなかったのだけれど(それでも、ある程度の国立大を受験できる力はあったし、親に授業料を出してもらうのに私立は大変だと思っていたこともあって、そこを受けた)、学部の雰囲気が自分に全く合わず、いわゆる「キャンパスライフ」なるものに全く染まれずに、よく言えばマイペース、悪く言えば完全に浮いた状態で、大学の1年と少しを過ごしていた。


別に、授業は面白いし、学部外のコミュニティでは人に恵まれていたし、色々バイトもしてお金を稼ぐ経験もしていたので、真っ暗な大学生活、というわけではなかったのだけれど、なんというか、「高校生のときにぼんやりとイメージしていた大学生活」ではなかったことは、もう卒業して8年ほど経つけれど、未だに鮮明に覚えている。


そんな風に時が過ぎていくなかで、学部外でちょっとした人間関係のトラブルに巻き込まれたり、恋愛も失敗したり、まあ色んなことがあって、「自分の人生を変えたいけれど、変えられない」という悶々とした悩みを抱えながら過ごす日が、長く続いていた。


もともと、人付き合いが上手いほうではない一方で、自分は自分、他人は他人、と割り切って生きていたので、これまではそんな悩みも特に気にしていなかったのだけれど、どうしても大学という、ある意味で狭いコミュニティの中では、自分と周りを否応なく比肩してしまう機会が多くありすぎて、無意識のうちに「このままではまずい、なんとかしなければ」という気持ちが芽生えていたのは確かだったと、今振り返っても思う。



で、あれは確か大学2年の春先、というか5月中旬だったと覚えているのだけれど、僕が通っている大学がある地域で新型インフルエンザ?の第1患者が見つかってしまって、急遽市内の大学もおおむね、1週間の休講期間を設けざるを得なくなったことがあった。


もう10年以上も前の話だからここで話すけれど、あのときは市内も混乱していて、「できるだけ他の地域へ行かないように」という注意が出ていて、まあ、別に自分が感染したわけでもないのに「とりあえず全員右に習えをせよ」という、いかにも日本的なやりかたをするんだな、とも今は思うけれど、とにもかくにも、急遽1週間、大学の授業が全部取り止めになり、課外活動も基本的に中止(だったと思う)、という状況になり、急にぽっかり穴が空いたような日が、この街にやってきてしまった。


こういうとき、普通の学生であれば「遊ぶ時間ができた」と精一杯の喜びを心の底から叫ぶんだろうけど、当時全く自分のペースで生きられていなかった僕にとっては、そんな心の声なんて心臓の片隅を突いても出てくるわけなんてなく、「急に時間ができてしまった、どうしよう」という、謎の焦りに更に苛まされることになる。


言ってみれば、普通に授業があってバイトをしていれば、色々悩んでいても時間は過ぎ去っていくし、そのうち時が心を洗い流してくれるかもしれない、という理屈なのだが、それが急に通用しなくなってしまった。



そしてそのときに直感的に、「この1週間をどう使うかで、自分の今後が決まるんじゃないか」と思ったのだ。


1つは、大学が休講になってもこのままずっと部屋にいて、時間が勝手に過ぎていく日々。


もう1つは、何か分からないけれど行動を起こして、自分を変えてみる日々。


当時、先のことを考える余裕なんてなかったし、先のことが見えるわけでもなかったけれど、なんとなくの勘で、「急に与えられたこの時間をどうするかが、自分のこれからに大きな影響を与えるだろう」ということを、悟ったのだった。




そして決めたのが、「旅に出よう」ということ。


当時、アルバイトは小さな個人経営の居酒屋でしていたけれど、偶然にも休講が決まった週は、4日ほどシフトが入っていない日があった。


次のバイトがある日までにこの街に帰ってくる、という条件さえ満たせば、どこに行ってもいい。


本来は、事態が事態だったので、「できる限り街の外には出ないこと」という注意がされてたわけだけれど、今の自分にとってはそんなことはどうでもよくて、「自分を変えるのか、変えないのか」。


この1点だけを考えて、直前まで悩んだけれど、その日の夜行列車に乗って、行ったことのない東北の地まで足を運んだのだ。



このnoteの一番上にある写真が、当時乗るかどうかを直前まで悩んだ列車の「急行きたぐに」で、この列車はもう走っていないのだけれど、大阪を23時27分に出発して、新潟に翌朝8時31分に到着する、というダイヤで走る夜行列車だった。


旅に出るのであれば、自分が行ったことのない場所に行きたい、そしてできるだけ遠くに行きたい。でもそんなに使えるお金もないから、やりくりできる範囲でできるだけ安く、でも遠くに行きたい(できれば、自分の好きな列車に乗りたい)。


当時、関西と越後・羽州・陸奥を結ぶ夜行列車は2本走っていて、物理的に一番遠くに行けるのはこのルートだと判断。0日目の夕食後に支度をして「きたぐに」に乗って、1日目は新潟から秋田、そこから角館までひたすら移動して、確か遅めの桜を見たように思う。


その日は更に盛岡まで移動して、ビジネスホテルの一室でプロ野球の交流戦(確か日ハムと巨人の戦い)を見て終了。


2日目は盛岡から花輪線に乗って安比高原・八幡平を通過して、大館まで移動。名物の鶏めしを食べて(記憶があやふやだけれど)、その日の夜に、青森からやってきた「寝台特急日本海」のA寝台上段に乗って(本当は下段に乗りたかったけど埋まっていた)、3日目の午前中にはまた大阪に戻ってくるという、まあこの説明だけを見たら、大多数の人が「なんのために東北行ってん」と言いそうなスケジュールで、無事関西に帰ってきたのだった。


今この文章を書いていて、自分は本当に盛岡だけで宿泊をして、1泊2日(2車中泊)で東北に行ってきたのか、と少々驚いているのだけれど(もう1泊くらい、どこかで泊まったような気もするので)、「きたぐに」のボックスシート自由席で、消灯しない車内・横にもなれないような狭さの座席でなんとか寝られる体制をキープし、翌朝の5時頃には白む東の空を見ながら越中の国に入り、頂に雪を被った立山連峰に感動し、1日目に山形の日本海沿いで見た笹川流れの美しさに言葉を失い、思った以上に静かで暗い盛岡の街に少々驚き、昔から乗りたかった開放プルマンA寝台に乗ったときの喜びは、今でもなぜか鮮明に蘇ってくる。



別に、この旅をする以前からも、日本国内は鉄道旅行を中心に回っていたし、この1年前の夏には、関西から金沢、上野、房総半島、東京、一気に熊本、そしてそこから関西に戻る、という「自分の乗りたい列車に乗る旅」というのをさらっとやってのけていた。


けれど、あの状況で、突如降って湧いたタイミングとチャンスを、時間がない中でやるかどうかの決断をして、銀行口座の残高を見てげんなりしながらお金を下ろし、切符を買って、まだ言ったことのない地に行ってみる、ということをしたこの旅のほうが、何倍も価値のあることだったと今も思うし、もう何年も前から思ってはいて、表に出さなかっただけだけれど、この旅に出た決断そのものが、自分の人生の方向を変える、最初の小さな一歩になったと、時を改めた今でもなお思う。



そして、これもまた重要なのだけれど、この旅に出た当時、関西のアパートに帰ってきた自分が思ったのは、実は


「何も人生変わらんやん」


ということだったのだ。週が明ければまた居心地の悪い大学生活が戻ってくるし、心に抱えた傷がこの数日で癒やされたわけでもない。


でも、間違いなくこの一歩がきっかけで、僕は自分の人生をいい方向に変えていく(であろう可能性が高い)選択と行動を徐々に取り始めるようになったし、10年以上経った今だから、その当時は分かり得なかった意味を、見出すことができるようになったのだと思う。


この話は今まで誰にもしたことがなかったはずなのだけれど、なんだか今日、ふと言葉にしてここに残しておきたくなったので、残すことにした。



ちなみにこの1年後、僕はまた東北に行って、各県を代表する夏祭り(仙台七夕、盛岡さんさ、青森ねぶた、秋田竿灯、山形花笠)を2週間かけて見て回ることになる。


あのときの小さな一歩が、その後の自分を大きく司っている。


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