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気持ちよくお金を使えるメンタリティの大切さ

ここ数ヶ月で、大きなお金が動く買い物をポンポンとしている。

その全てが、世間でいうところのいわゆる「消費」というものに当たるので、(個人的には、どんな場合でも、お金を使うことで何かしらの勉強ができるとは思っているので、今回もそういう自覚はあるのだけれど)特に何かしらの大きなリターンがあるわけでは、決してない。

が、不思議なもので、こういう買い物をしても、後ろめたさや猜疑心のようなものが一切なく、むしろ一種の爽快さを感じるのだ。


これはなんでだろう、と最近考えることが多い。

確か、10年くらい前の大学生のときは、頭の隅の隅に追いやってしまったかすかな記憶を引っ張り出してくると、どんな買い物をするにも(それが、些末な金額のものであっても)後ろめたさや「これで何が手に入るのか?」といった感覚を持つことが大半だったように思う。ようは、自分の買い物、つまりは選択だったり選球眼に自信が持てないことが大半だったのだ。


それから10年という年月が経った今、「気持ちよさ」を大半の買い物で覚えるようになったのは、もしかすると、というよりも、ほぼ確実に、「これまで色んな買い物をしてきて、痛い目にも遭い、素敵なものを手に入れてきた」という、清濁併せ呑んできた蓄積による部分が大きいと思う。


一般論、ではないかもしれないが、今の世の中で成り上がるには、余計な買い物、より範囲を狭めると、大きな買い物はせずに、種銭を貯めて自分で何らかの事業を興すしかない(あるいは、それが一番手っ取り早い)と言われる(これは、自分が普段付き合っている方々が、経営者、事業家のかたが大半である、というのも大きくて、一種のバイアスである可能性が高いことも合わせて付け加えておく)。

そういう文脈で必ず言われるのは、結婚式を挙げるな、家を買うな、贅沢(海外旅行とか)をするな、ということだ。これらはいずれも、相当のお金が飛んでいく、ほぼ完全に「消費」、あるいは「浪費」と捉えられる活動だと思う。


これはある意味で真理だと思うし、もし自分が今、「もたざる者」として何かに取り組むなら、これらを後回しにして、先に「ある程度不自由なく経済活動ができるだけの稼ぎを得られるようにする」ということに全力を注ぐと思う。


ただ、今自分が立っている場所は、言わずもがな「その先」の世界なのである。


種銭を貯めて(厳密に言うと、自分の場合は自営業を続けているので、自営業を続ける中で種銭が貯まった)、何かしら、自分の労働力を突っ込む以外の部分で収益を上げられるものを持つようになった、まさにその世界に身を置いたときに、同じようなことを繰り返すのは、果たして好手なのか?


色んな考えがあると思うので、人それぞれの判断に解釈や選択は委ねるが、自分自身はやはり「否」と答えたい。ある程度お金を稼げる(稼ぎ続ける)ようになったのであれば、次はそのお金を上手く使って、自分の周りを幸福に、あるいは豊かにすることに時間やエネルギーを割くのがいいのではないかと思っている。


だから、自分は、これまでお世話になった人に何かしらいい思いをしてもらったり、素敵な経験をしてもらったり、代えることができない時間を過ごしてもらいたい、と思っているし、そういう機会を作り出す、あるいはそういう機会に関わるように、人生を歩んでいきたい。


自分の場合、20代前半で独立自営の道を歩まざるを得なかった、というやや特殊な背景もあるのだけれど、その道を進む中で、20代の後半をヨーロッパ生活、という、かけがえのない時間や経験をすることができて今の自分がある。あの4年間は、他の人には恐らく(というか、ほぼ絶対)分からない、伝わらないことなのだけど、自分の視座が高まり、思考に深みを与えるのに必要不可欠な時間だったのだ。


なので、他の人が全く同じことをできるとは思ってないが、何かしら似たような経験をしてもらいたい、という思いは、いつの頃から常々思うようになったのである。特に、自分より若い人には、そういう経験をどこかで、1回でもいいからしてもらいたい。そういうまたとない経験は1回あるだけで、人生は文字通り、大きく変わるから。


そんなわけで、最近は、消費(というか、実質的に浪費)活動をするにあたっても、自分がお金を使うことで、周りの人が少しでも幸せに、豊かになってほしいと思いながら生きている。

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