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ダメ男、急性腎炎で入院する

アタシは3人兄弟です。
だから何なんだってな話ですが、アタシは第一子、つまり下にふたり兄妹がいるわけで。
妹のことはイギリスの話の時に何度か登場してもらってるけど、妹と、その下の弟はパルモア病院という名前の産婦人科で産まれています。

それがだな、ぽんぽこ。これがよくわからんのだよ。どうも街の小さな産婦人科だったらしいんだけど、まァ第一子で、たぶん親もよくわかってなかったんじゃないか。それはもう、しょうがないってかさ。
そんなことはどうでもいいのです。今回はパルモア病院にまつわる話をしたいと思いましてね。


◆ パルモア病院のこと

 神戸市の中心部、国鉄元町駅(筆者注・現JR元町駅)から、だらだら坂を五分ほど上がるとパルモア病院がある。(中略)パルモア病院が日本で初めて産婦人科と小児科を一致させた画期的な周産期教育病院だということをほとんどの人は知らない。


これは中平邦彦著「パルモア病院物語」からの一節ですが、こうした著作物があるほど神戸市民にとっては、変な表現なのを承知で記せば「絶対的な存在感を持つ」病院なのです。
妹と弟はこのパルモア病院で産声をあげた。一方アタシは街の小さな産婦人科で産声をあげた。それは先ほど記した通りなのですが。

何しろパルモア病院は『産婦人科』と『小児科』の専門病院です。ここで産まれてない以上、アタシはパルモア病院には縁がないはずなのですが、身体の弱かった幼少期のアタシにはそんなことはまったくなかった。
というようなことを書いていきます。


◆ 異変

おかーさん!なんか、ちゃいろい、オシッコが、でた!

あれはアタシが幼稚園の年長組の時、当時住んでいた団地でのことでした。
何しろ幼稚園児だったからはっきりしたことは憶えてないのですが、それまでも別段体調が悪い、というようなこともなく、ごく普通に幼稚園に通っていたはずです。
だからもう、これはおかしい、と思った可能性は低く、何というか、人体の不思議、みたいな感じっつーか、もっと言うなら「こんな色のオシッコが出た!面白いでしょ!」くらいの気持ちだったはずです。

オシッコの色を見た母親はビックリして、すぐにアタシを病院に連れていった。そう、先述のパルモア病院です。
何度も言うけど、アタシはまだ幼稚園児です。母親の「とにかく病院に行って検査を」という言葉だけを聞いて、ああ、検査をするのか、くらいしか考えてなかったと思うし、これからどうなるんだろ、みたいな不安も一切なかったと思う。

「検査の結果、急性腎炎ですね」

とお医者が言った、かはもちろん憶えてないし、その時の母親の表情も当然、何も記憶にない。
アタシにわかったのは、とにかく、家には帰れない、ということだけでした。

ー 即日入院

自覚症状はまるでない。身体が弱く、常に軽い風邪をひいていた当時のアタシにしては、むしろ元気なくらいだった。
なのに、今日から、この病院にいろ、という。
そもそも急性腎炎とは何なのか、身体のどの部位が悪いのかもわからない。

そんな、何もかもわからないづくしの初めての入院でしたが、意外なことに入院当初は楽園感があったのです。


◆ 病室の王子様

繰り返しになりますが、アタシが入院したパルモア病院は神戸の元町駅付近にありました。

アタシの家は神戸と言っても北の外れの方にあったので母親はそんなに来れない。その代わり、毎日のようにおじいちゃん、おばあちゃん、そして親戚が見舞いに来てくれたんです。
おじいちゃんの家兼仕事場は三宮にあった。三宮から元町までひと駅。神戸市民の方ならお判りでしょうが余裕で歩ける距離ですから母親よりも圧倒的に来やすかったわけで。

だから、少なくとも昼間は寂しいってことはなかったんです。
むしろ、何というか、ひっきりなしに誰かが来てくれる、それも手土産を持って、ですから、これは楽しいな、とさえ思い始めていました。

冒頭にも書いたように、アタシは3人兄弟の第一子です。ということは普段、家族で過ごす時は「お兄ちゃん」としての振る舞いを求められる。
実際、母親からしつこいくらいに「お兄ちゃんでしょ!我慢しなさい」と言われていたし、ずっと、そんなことばかり言われていたら自然に<我慢>ということを憶えるようになるのです。

何がお兄ちゃんらしいかはわからないけど
とにかく自我を出さず、おとなしくしておこう

長男なんていうと自分勝手で傍若無人に思われるかもしれないけど、アタシの少ない知り合いだけを見ても、むしろ長男の方が我慢するタイプが多く、反対にひとりっ子や末っ子の方が傍若無人なタイプが多いくらいです。

家ではずっとそんな感じだったけど、病室にはなかなか母親が来れないんだから、当然、妹も弟も来れない。許さなさそうな母親よりも許してくれそうな親戚やおばあちゃんのが病室に来てくれる回数は多い、となると、今まで抑えてきた子供らしい振る舞いが出来たんですよね。


◆ カセットテープ

これは記憶が不確かなんだけど、病室にテレビはなかったと思う。いや仮にあっても見てもいい時間は限られていたような。

持ち込んでいいのはラジカセくらいで、しかし幼稚園児のアタシにはラジオなんか面白くない。
ま、ラジカセというくらいだからカセットテープの再生機能はあってね、親戚のおじさんがある日、<まんがのうた>のカセットテープを買ってきてくれたんです。
ここでいう<まんが>とは現今でいう<アニメ>のことで、1970年代前半まではまだアニメもしくはアニメーションという言葉が一般化されておらず、テレビアニメのことは<テレビまんが>なんて言い習わされていたんです。

だから<まんがのうた>とはアニメソング、つまりアニソンってことになるんだけど、うーん、やっぱ、ちょっとニュアンスが違うんだよなぁ。
何がどう違うのか説明するのは難しいし、やっても長ったらしくなって誰も読んでくれないと思うのでやりませんが、とにかくおじさんが買ってきてくれたカセットテープには当時流行っていたいろんな<テレビまんが>の主題歌が10曲ほど収録されていました。
とりあえず、一曲目が「グレートマジンガー」の主題歌で、二曲目が「魔女っ子メグちゃん」の主題歌だったってのは憶えてる。それくらい繰り返し聴いたもん。

ま、どちらもまったく病室で聴くのに相応しくないアッパーな曲だけどね。


◆ 真っ白い天井と真っ白い壁

こんな感じで、おばあちゃんたちが見舞いに来てくれた時は王子様気分、誰もいない時は<まんがのうた>のカセットテープを聴く、みたいな感じで過ごしていたのですが、そうした楽しい気分なのは昼間だけで。

病院、ましてや小児病棟なんだから夜は早い。早々に消灯になり、真っ暗になります。
真っ暗でもだんだん目が慣れてくる。そして瞳に映るのは、いやに真っ白な天井と真っ白な壁です。
アタシにはこれが怖かった。何つーか、あまりにも真っ白すぎて、吸い込まれそうな気になるんですよ。

というかさ、アレ、ましてや小児病棟なんだから、あそこまで真っ白にする必要はないよな。
そりゃあ病院なんだから清潔感を演出するために白ってのはわかるんだけど、白ってね、清潔感がある反面、何とも言えない無機質な怖さがあるんです。
いや白でもいいんだけど、あんな漂白したような白ではなく、若干クリーム色がかった穏やかな色味にしてくれた方が落ち着ける。
まして小児病棟とかだったら、楽しげな絵でも描いてくれててもいいと思うんてすよ。

さてアタシには、アーティストをやってるイギリス人の友人がいるのですが、彼はホスピタルやナーサリー(保育園)の壁に絵を描く仕事をしています。
あれは本当に素晴らしいことだと思う。ただ単純にというか下手に楽しげな絵を描かれても薄暗い中で見たら怖いかもしれないけど、彼のように<心のケア>を考慮しながら病室を彩る仕事って、実はメチャクチャ大事なんじゃないか。

こういう試みをね、もっと日本でもやって欲しいわ。それだけで絶対、いろいろ変わるはずだから。


◆ 大部屋への移動

ここまで王子様気分とか、まんがのうたガンガンとかね、こういうのは個室だから可能なわけで、ということは最初アタシは個室だったんですね。

それが急遽、大部屋に移ることになって。
もうこれが嫌でね。たしかに夜は怖いけど、せっかくいい気分でいるのに、何で大部屋に行かなきゃならないんだよ、と。
これは今もですが、この当時からアタシは内弁慶というか人見知りでした。正直、人と馴染むのは得意な方ではない。
大部屋に行ったら当然、他の患者もいる。小児病棟なんだからみな子供だろうけど、これが本当にに嫌だった。それははっきり憶えています。

え?何で大部屋行きになったのかって?
それはわかんない。たぶん病状が安定してきたからなんだろうけど、何しろ自覚症状がまったくなかったので、今どんな感じかとか把握しようもなかったし。

で、結局は大部屋に移ることになった。
個室の時のことはわりと憶えてるんだけど、大部屋に行って以降のことの記憶はほぼない。
唯一憶えるのは、となりのベッドにいた女の子とよく遊んだってことだけです。
たしかアタシと同い年か、向こうの方がひとつ上か、そんな感じだったと思う。というかそれくらいしか憶えてなくて、顔も名前も思い出せない。
ただアタシが退院したタイミングでは、女の子はまだ入院してたと思う。

これがね、「この女の子が初恋でした」ってならこの文章もぐっと盛り上がるんだけど、残念ながらそういうのはなかった。てか当たり前だよ。まだ幼稚園児だもん。


◆ 今考えると

何度もしつこいですが、アタシは3人兄弟の第一子です。つまり両親にとっては初めての子供だし、おじいちゃんおばあちゃんにとってはアタシは初孫でした。

だから生まれてすぐくらいから、本当にたくさん、写真が残っている。当時は今とは違いフィルム代も現像代もかかるから気軽にシャッターを切るような時代じゃなかったんだけど、やはり、初めての子供、初めての孫ってのはそれだけビッグイベントだったんだと思う。
それはいいんです。ところがですね。

幼稚園に入園して、年少組の頃までの写真は実に多いのですが、年長組になって入院して以降はまったく写真が残っていない。
退院後、5ヶ月ほどでアタシは小学校に入学したのですが、入学前と入学後はまた写真が増えてくる。
とにかく、入院前後だけが奇妙なほど写真がないんです。
そりゃ病室でパシャパシャ撮るわけにはいかんだろってのもわかるのですが、どうもそれだけじゃない気がする。

何度も言いますように、アタシには自覚症状がまったくなかった。退院も「これだけ体調が良くなったんだから、そりゃあ退院だよな」みたいなのもまったくなく、いわば<何故か>入院して、<何故か>退院したって感覚だった。
入院している間、先生から病状を伝えられたことはなかったと思う。んなもん幼稚園児に説明しても、わかるようなことじゃないんだけど。

病状にかんしてはまったくの想像ですが、実はかなり危なかったのではないかと思っています。
ウチは間違っても個室に入るほどセレブではない。なのに個室だったのは、それだけ生命の危機があったからではないか。

もうひとつ、これは今のアタシに影響しているのではないかと思うことです。
とにかくアタシは病院が嫌いです。注射が怖いとか病気が見つかるのが怖いとかそんなレベルではなく、自分が受診しない、つまり誰かの見舞いに行くことさえ、病院という施設内に入るだけで拒絶反応が出てしまうのです。

ぽんぽこよ、たぶんそうだよ。よほど怖かったのか記憶に蓋をした状態になっており、まったく思い出せない。
少なくとも「壁と天井が真っ白で夜が怖かった」ってことじゃない。今は壁や天井が真っ白でも何も怖くないもん。
いったい何があったのかね。ま、無理矢理記憶の蓋を引っ剥がさなきゃいけない不具合もないので放置しておりますが。

こんな感じでおしまい。よろしければリアクションお願いします。さらばじゃ!