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僕たちは沈黙の中で信用と信頼を送りあっている

「でさ、今度のイベントなんだけど」

『……』

友人と電車に乗っていたとき、会話が唐突に途切れた。?と思って横を見てみると、友人がスースーと寝ている。まぁいっか。彼は自分の最寄駅まで起きなかった。でも僕はずっとほっこりした気分でTwitterを眺めていた。

またある時、友人3人とお昼を食べて、夜まで暇だからとカフェに行った。PCで作業したり、本を読んだり、眠気と戦ったり、お互いあまりしゃべることなく気ままに過ごしていた。何もやりとりしてないが、なぜか嬉しい時間だった。

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自然と話が尽きないこと、それは仲の良さを表す一つのしるしだ。

仕事や趣味、人生について話し、気があって盛り上がり、つい時間を忘れてしまう。多くの場合、そんなコミュニケーションによって人はお互いを知り、仲を深めていく。

でも話が合うとかそういうこと以上に、彼の突然の睡魔やカフェでの無言は僕にとって、もっと濃くて嬉しいコミュニケーションだった。

あの瞬間、あんなに僕は近くにいたのに、一時的に友人の頭の中から僕の存在は消えていた。無意識のうちに気を使う必要がないと判断されていたし、同時にそれは失礼にあたらないと推測されていた。説明すればするほど、ひどい感じがするが、僕はその沈黙が心地よいものだった。

これは恋人の条件としてよく挙げられる、沈黙が気にならない人がいいという話と似ている。ただ、あれは高頻度&長時間過ごすことが前提にあり、友人の条件とは少し異なる。

ではなぜ僕は嬉しかったのか。きっとそれは沈黙の中で、信用と信頼をお互いに送りあっていたことを無意識のうちに感じていたからなのだと思う。

『信用』とは、過去の状況を見たうえで、信じられるかどうかを判断するときに使い、『信頼』とは相手に対して、この人ならば大丈夫だろうと期待するときに使う言葉。

つまり、何もコミュニケーションしてないように見えて、今までの信用これからの信頼をお互いにシェアするという、極めてテレパシーのようなことをしていた。そうして、友人のことを大切な存在であると理解し、認め合っていたのだ。

当たり前だけど、信用と信頼は目に見えない。でも一番ありありと僕らの前に現れる瞬間、それが何も話さないという時間なのかもしれない。沈黙に耐えきれず、場つなぎの会話を始めてしまうことがほとんどだからこそ、こういう瞬間は貴重であり、それができる友人は宝だなと思う。


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