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僕の、デザインの真ん中

真ん中。それは「〇〇の普遍的で本質な何か」を考えるという、とてつもなく抽象度が高い話。

友人たちが自分なりのテーマでそんな話をしているのを聞いていたらとても面白くって、僕も考えてみた備忘録がこのnoteです。

分かったのは、自分が一番深く足を突っ込んでいるものじゃないと答えられないんですよね。サクッと自分の興味関心レベルが分かっちゃう。

で、僕が「真ん中で喋れることは何?」と自問して出てきたのは、タイトルにもある通り、デザインについてでした。

表現(=アプトプット)だけではなく、コンセプトや設計も含めた広意義な、デザインの真ん中です。

出てきたことは二つあって、まず一つは無意識をすくいあげること。もう一つは押し付けないことです。

まず、無意識をすくいあげること
これについて僕の大好きな話があります。それは深澤直人さんの「デザインの輪郭」で出てくる"一本の溝"。

その、幅7ミリ程の目地と同じような溝を、玄関の隅に壁から10センチ程度話して壁と平行に引けば、傘立てになると思った。訪れた客は傘立てらしきものが見当たらないので、その溝に傘の先を当てて立てるだろう。私は傘立てをデザインし、客は結果的に傘を立てるという目的を達したことになる。しかし、そこにはよくあるような、円筒のような傘立てらしき物体の存在はないということだ。

これはみんなが傘を壁に立てかけるという無意識にやってる行動をすくいあげたんですけど、「一本の溝を引く」それだけでもうデザインになってるんですよね。

デザインって表現的な部分じゃなくて、本当のデザインってこういうことだなと思うお話です。深澤さんはそういったことを"without thought"と名付けていました。これまたいい。

もう一つは、押し付けないこと
これは説明なしでなんとなく理解して納得できること、に言い換えてもいいです。深澤さんの傘立てもそうですし、赤ちゃんでも勝手に使えるAppleの製品もそうですね。

だから個人的には最近のデザインやプロセスを全部言語化して公表することが流行ってしまったとしたら、そこには違和感があります。デザインのリテラシーを上げることにもなるのでいいことでもある一方、勘違いして言葉でフォローして許されるデザインも増えそうな気がするからです。

もちろん説明一切なしのかっこいいっしょ!シンプルっしょ!なんてことを推したいわけではないです。仲間やクライアントさんにはお伝えするし、抽象度が高いロゴとかは意味を言葉にした方が伝わるでしょう。また、ノウハウを隠したいわけでもないです。

ただ、実際に使われる際には言葉のフォローはない。お笑いだって舞台に立ったら、そこには解説はない。だからSlackのお客さんとのコミュニケーション戦略のような狙いもなく、"デザインの言語化"という部分だけが流行ったら怖い。言語化と公表するラインは難しいなと思ってます。

この二つをつらつらと話したら、友人の平山さんがこんな風に応えてくれました。

あぁ。デザインってそのまま「文化の尺度」でもあるんですね。面白いです。説明過多な時代に「説明を抜く」という選択を踏めるのは結構難しい気もしますが、そうゆう風にお客さんを馬鹿にせず信頼するデザインは信頼ができる気がしますね。

とても丁寧に応えてくださってめちゃくちゃ嬉しかったのと同時に、このお客さんを馬鹿にせず信頼するデザインは信頼ができるということは、無意識をすくあげること、押し付けないことの一つのゴールの形かもしれないなと思うのでした。

「真ん中」を考えてみて思ったのは、きっとそれは人の数だけある信念のようなもの、ということ。ときどき振り返りながら、毎日を過ごしていこうと思います。

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