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好きなものを信じ抜くということ

 「どうも〜星野源で〜す」

なんとも気の抜けたコメントと共に大衆の門前に顔を出す彼。
出会いは、高校時代に見ていたNHKのコント番組、「LIFE!」だった。

最初の印象は、タレントさんなのかな?というくらいだったが、同時期に”SUN”という曲が新曲として発表されており、それをラジオで耳にした際に、歌手もやるんだ…?と少しづつ興味が湧き、いつの間にか虜になっていったように覚えている。

俳優、歌手、エッセイスト、ダンサー、ラジオパーソナリティ、楽器の演奏、なんでもやる。
いつ寝ているのだろうか。そして悔しいのが、そのどれもが絶大な評価を得ているというところだ。

よく言われているし、なんとなく自分でも気づいているが、全てを得ることは不可能で、何かに絞った方が良いという呪縛。本当はめちゃくちゃ否定したい。だが、自分の才能のなさがそれを全力で肯定している。昔からそうだったが、何をやるにも中途半端で、一つのことに集中ができない。何をやっても続かないし、そのくせ才能もないのに人と比べて勝手にへこんでいる。

音楽でもダンスでも、カルチャーを信じていることが急にばかばかしくなる時がある。こんなのにお金と時間をかけてなんになるんだろう。
こんなことを周りに話すと、おそらく”そんなことないよ”とか、
”やりたいことやれててかっこいいよ”とか、その考えを否定してくれる言葉を期待している自分もいて、それがめちゃくちゃに気持ちが悪い。

好きなことのはずなのに、それが一定のところまでいくとこのような現象が生じてしまうのは何故なのだろうか。未だ解決していない。年齢のせいもあるのか?
そもそも年齢が、行動の基盤となっていることも不思議なことの一つだ。30 までに結婚したい!とかいうけどあれなんなんでしょうかね。

話を戻す。
色々否定したが、よくよく考えた上で間違いなく言えることは、生活はカルチャーの上で成り立っているということ。

朝起きたら音楽を聴く。テンションが少し上がって動き始めるきっかけとなる。たまたま観た映画のワンシーンが自分と重なり感動する。

そこに馬鹿馬鹿しさを感じたことは一ミリもない。となると、自分が何かを表現する際にも馬鹿馬鹿しさを感じる必要はないってことになる。日本は特に、そういう素人で表現をしている人を冷笑する節があると感じる。そういう、熱心に表現をしている人を馬鹿にするやつほど平坦でつまらん人生しか送れないんだろうな、と観ていて悲しくなる。

やるからには何かを成さないといけない、金がそこに発生していなければならないというのは、社会が産んだクソみたいな通念であるため、自分を楽しませるという名目に切り替えて、表現は死ぬまでやめないでおこうとそう思った。そして自分がやれることは全てやる。

そして一つに絞ってたら開ける可能性開けてきませんからね。緩やかに、ただ着実に!

ちなみに、この記事のサンプリング元は青谷明日香さんの”異端児の城”という曲です。ゆっくりで、いい、築いていこう自分の城〜


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