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How to get NEW WORLD

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詩編・聖書日課・特祷

2023年12月17日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 イザヤ書65章17〜25節
 詩 編 126編
 使徒書 テサロニケの信徒への手紙一5章16〜28節
 福音書 ヨハネによる福音書3章23〜30節
特祷(降臨節第3主日)
主よ、み力を現してわたしたちのうちにお臨みください。わたしたちは罪に妨げられて、苦しんでいますので、豊かな恵みをもって速やかに助け、お救いください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん「いつくしみ!」
 さて、本日のテーマは、こちらです。“NEW WORLD”(新しい世界)。今回の旧約聖書のテクストである、イザヤ書65章17節以下という箇所。その冒頭のところには、次のような言葉が記されていました。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。」(17節)この世界を造られた「天地創造」の主なる神が、再び、NEW WORLDをお造りになられるのだという“予言”が、ここには書かれているわけなんですね。
 ……その“NEW WORLD”に関係することなんですが、先日、SNSで面白い投稿を見つけました。

 こちらは、とある漫画家さんの作品なのですけれども、ある日、この作者のかたは、街中で一人の外国人の男の人に呼び止められて、こんな風に声をかけられたそうです。“Excuse me, how to get NEW WORLD.”(本当はhow to getのあとに“to”が入るはずだと思うんですけれども、まぁそこはご愛嬌ということで)。そのように、急に英語で話しかけられたこの作者は、「えっ……、にゅ、にゅー わーるど……?新しい……世界……?」と、戸惑ってしまうわけなんですが、あたふたしている内に、彼はふと、最近遭遇した「宗教勧誘」のことを思い出すんですね。そして、「あぁ、さては、この外国人の男性も“そーゆう系のアレ”だな」と思って、適当にあしらおうとします。しかし、その外国人男性が、頻りに“NEW WORLD!NEW WORLD!”と言いながら、スマホの地図を見せてくるので、少し冷静になって考えてみたところ、しばらくして、「あぁなるほど、そういうことか!」と、彼はひらめきます。NEW……WORLD……新しい……世界……新……世界……。そう、この時、外国人の男性が英語で“how to get (to) NEW WORLD”と訴えてきていたのは、大阪の「新世界」への行き方を教えてほしかったからだったんですね。通天閣がそびえ立つ、あのコテコテの大阪の雰囲気が味わえる歓楽街に行こうとしていたわけです。

 でも、どこでどうなって、「新世界」が“NEW WORLD”になったんでしょうね。新世界は、英語表記でも“Shinsekai”のはずなので、間違えようがないと思うんですけど……。ただまぁ、最近は便利なことに、「スマホのカメラをかざすと、外国語を自動的に翻訳してくれる」みたいなものもあったりしますからね。もしかすると、この外国人の男性も、「新世界」と書かれている看板か何かをスマホのカメラに写して翻訳して、その情報を頼りに、大阪の“NEW WORLD”を求めて、街中をさまよっていたのかもしれません。

NEW WORLD

 ……というわけで、今回は、“NEW WORLD”(新しい世界)に関するお話なのですけれども、もちろん、大阪の「新世界」のお話ではございません。そうではなくて、(この作者の言葉を借りるならば)いわゆる「こーゆう系のアレ」と言われているほうの“NEW WORLD”のお話です。
 冒頭で触れました、旧約聖書のイザヤ書65章17節以下という箇所。この箇所には、先ほどもお話したように、天地創造の主なる神が、「新しい天と新しい地(NEW WORLD)」をお造りになる――という予言が書かれておりました。
 では、その新しい世界(NEW WORLD)というのは、果たしてどんな世界なのか。この言葉を語ったとされる預言者は、続く18節以下のところで、その「新しい世界」のことを細かく描いてくれています。
 たとえば、20節。「そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。」
 神がお造りになる「新しい世界」においては、人々はみんな長生きになって、なんと100歳で亡くなる人が「若者」扱いされるのだそうです。将来、“人生100年時代”が来るとかなんとか言われておりますけれども、100歳が若者と言われるということは、それよりも凄いってことですよね。平均年齢どれくらいでしょう。150歳くらいですかね。
 続く22節にも、似たようなことが書かれています。「わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。」
 ……「わたしの民の一生」とか、「わたしに選ばれた者ら」という言葉からも分かるように、今度は、一人ひとりではなく、社会や共同体全体が長らえるのだということが言われています。「わたしの民の一生は木の一生のようになる」……。「木」と言っても、いろいろありますよね。10年や20年くらいで寿命を迎える木もあれば、100年、200年、あるいは1000年以上生きると言われている木も存在するのですが、ここで言われているのは、おそらく後者の方でしょうね。一人ひとりが超長生きになるのに合わせて、民全体もまた、まるで、何百年何千年も生き続ける「木」のように、子々孫々にわたって永らえるであろうと言われているわけです。 
 他にも、直前の20・21節を見てみますと、「彼らは家を建てて住み/ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。」と書かれています。神の庇護のもとにある人々は、もはや流浪の民ではなくなる。彼らは、家を建ててそこに定住し、その土地の収穫物を食べて生活することができるようになり、そうして、だれも彼らの平穏な生活を脅かすことはない――ということなんですね。
 そして、極めつけは、25節。これは非常に印象的な言葉だと思います。「狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない。」……つまり、神の平和は、人間だけでなく、野生の動物たちにも影響をもたらす。すなわち、狼や獅子、蛇といった動物たちですら、自分たちが肉食動物であることを忘れてしまうのだと言われているんですね。以上が、イザヤ書65章の箇所に記されている「理想的な世界」、「新しい平和な世界」のイメージです。

William Strutt "A little child shall lead them" (1896)

諦観の念に自分だけは染まらずに

 どうでしょう、皆さん。このイザヤ書65章に描かれている世界。……まぁ、なかなか現実的ではない感じがしますよね。でも、このような世界をこそ、この箇所の預言者は、「理想的な世界」なのだと想像したわけです。
 肉食動物が草食動物を襲わずに、一緒になって草をはむ。また、人々は病気にもならず、事故や災害に巻き込まれて命を落とすこともなく、みんな長生きすることができる(古代の人々は、長寿こそ神の祝福の証拠だと考えていたのです)。そして、人は皆、各々自分たちの土地を持ってそこに家を建てて、家庭を築き、他の誰からも平穏な生活を脅かされることなく過ごすことができる――。「そんな平和な世界があったら良いな!神様がそのような平和をもたらしてくださったら良いな!」……と、そんな風に、この預言者は夢見ていたのだろうと思います。
 ただ、もちろん、この預言者自身も、まさか本当にそのような世界が100%実現するとは考えていなかったはずです。現実はそんなに甘くない。特に、このイザヤ書65章というテクストが書かれたのは、だいたい紀元前6世紀の「バビロン捕囚」以降……、エルサレムに帰ってきたユダヤ人たちが、滅ぼし尽くされたエルサレムの都を再び復興させようとしていた時期だと言われていますので、この現実世界がいかに非情で、無慈悲で、苦しみに満ちた世界であるかというのは、その時代を生きていた人々であれば、誰もが痛いほどよく分かっていたはずなんですよね。そんな状況の中で、こういう非現実的で妄想的なことを口にしようものなら、きっと、人々から嘲笑やあざけりを受けることになっただろうと思います。「馬鹿言ってねぇで、ちゃんと現実と向き合え」、「寝言は寝てから言え」……みたいな感じで、総スカンを食らって、鼻つまみ者扱いされただろうと思うわけですね。
 しかし、この預言者は、たとえそのように人々から馬鹿にされようとも、あるいは、夢想家と呼ばれて罵られようとも、自分が想像できる限りの「理想的な世界」というものを、語らずにはいられなかった――。その理由はただ一つ。自分たちがこれまでの数十年間で経験してきたようなことを、二度と繰り返したくなかったからです。
 「この世界はこんなものだ」と言って、社会全体が、あきらめムード、諦観の念に染まってしまっては、必ず、自分たちは同じ過ちを繰り返すことになる。だから、自分だけは……、少なくとも自分だけは、この現実が、将来、劇的に変化していくことを期待し続けたい。人間にはできないことでも、神ならできると信じたい。そのように考えていたからこそ、この預言者は、まさに奇想天外とも言えるような、そういう「神による理想的な世界の創造」というものをあえて予言として語ろうとしたのではないでしょうか。

古い世界から新しい世界へ

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3:30)これは、今日の福音書の箇所に登場する「洗礼者ヨハネ」の言葉です。イエスのほうが栄えて、自分は退場していくべきなのだと語っているわけですけれども、この洗礼者ヨハネの言葉は、世の中の変化を“覚悟”し、その変化を受け入れていくことの重要性というものを教えてくれていると僕は思うんですね。
 「ヨハネによる福音書」というのは、他の福音書とは違う、ある特徴を持っています。それは、イエスと洗礼者ヨハネが、同じ時期に活動していたと伝えていることなんですね。実は、マタイとマルコ、この2つの福音書には、イエスはヨハネがヘロデに捕らえられた“後に”活動を開始したと書かれています。しかし、その一方で、このヨハネ福音書(およびルカ福音書)は、イエスは、ヨハネが逮捕される“前から”活動を開始していたと伝えているんですね。そして、その中でも特に、このヨハネ福音書の場合は、今日の箇所の24節のところで、「[イエスが活動を開始したときに、]ヨハネはまだ投獄されていなかった」というように、わざわざその事実を強調しているんですよね。
 これが何を意味するのかは、定かではないのですが、どうも僕には、このように、イエスとヨハネの活動時期を重ねることによって、この福音書の著者は、「古い世界」から「新しい世界」へと突然移行したのではなくて、徐々に……、まさにグラデーション的に移り変わっていったのだということを示そうとしている――、そのように感じられてならないんですね。
 洗礼者ヨハネは「古い世界」の象徴であり、片や、イエスは「新しい世界」の象徴であった。そんな彼らのことを、人々は比較しながら、はじめヨハネに付いていた人たちが、少しずつイエスの方へと“鞍替え”していくという現象が起こっていたのだと、この著者は伝えてくれているのですが(26節)、そのような事態を受けて、洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちにこう告げるわけです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(30節)

「民衆の前に現れたキリスト」(アレクサンドル・イヴァノフ)

 このようなセリフを洗礼者ヨハネに語らせることで、この著者は、「古い世界(つまり今の世界)」に生きる人々に、「新しい世界」への期待というものを強く持つように伝えようとしたのではないでしょうか。ヨハネの信奉者たちが、一人また一人と、イエスのほうへ“鞍替え”していった――。それと同じように、あなたがたもまた、このグラデーション的に「新しい世界」へと変化していこうとする世の流れに、勇気と期待をもって自らの身を委ねるべきだと、そのような著者からのメッセージがこの箇所には込められているように僕は思うわけです。

おわりに

 今日、アドヴェントの第3主日を迎えておりまして、来週はいよいよクリスマス……という時期に差し掛かっています。ただ今年は、例年と比べて、どうも世間的にも、クリスマスをお祝いしようという雰囲気が弱い……というか、お祝いムードがあんまり感じられないように思います。それはおそらく、たくさんの人々の悲しみや失望というものが、この世の中を覆っているからだと思うわけなんですが――、しかし、我々教会はそれでも、今年も変わらず、「クリスマス」をお祝いしようとしています。「今年のクリスマスは中止にしよっか」という話にはならない。何故でしょうか? それは、どんな時代においても、我々「教会」だけは“希望の光”を灯し続けなければならないからです。
 冷淡無情な世の中で喘ぎ苦しみながら生きている人々、そして、そんな人たちの存在を覚えつつ憂えている人々。そのような人々が、光を見失うことなく、「新しい世界」に向かって旅を続けることができるように、教会は、今日に至るまで、“灯台”としての役割を担い続けてきました。かつて、イザヤ書65章の預言者がイメージしたような、新しい理想的な世界……。まぁ、何を“理想”とするかは、細かいところは、時代によっても違うでしょうし、人によってもそれぞれ異なるものかと思いますけれども、ただ、共通して言えることは、「すべての人が不自由なく平和に暮らせる」ということだと思います。そんな理想的な世界があったらなんて素晴らしいことだろう!いや、神様は必ずや、そのような世界を創造してくださるはずだ!……という、幼稚で、非現実的で、妄想的で、周りから馬鹿にされてしまうような、まさに“戯言(たわごと)”。「そーゆう系のアレ」と言われてしまうようなこと。しかし、そのような“戯言”を“希望”として、多くの人々に語り伝え、そして、その人たちと共に「NEW WORLD(新しい世界)」の到来を夢見ることが、今の世界(古い世界)に置かれている我々教会の役目であるわけですね。
 現状に満足している人とか、誰かの犠牲の上に成り立っている平和を享受しているような人たちというのは、「新しい世界」の到来を願わないものだと思います。そのような人たちは、今の世の中をなるべく維持していきたいという保守的な考えに陥るものですからね。そういう雰囲気に飲み込まれたり、諦めさせられたりするのではなく、いつでも“how to get NEW WORLD”と言いながら、新しい世界を追い求めるこの世の旅人として、これからもご一緒に歩んでいければと願います。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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