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聖書の三大「山男」、ここに集結

説教音声データ

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詩編・聖書日課・特祷

2023年2月19日(日)の詩編・聖書日課
 旧約聖書:出エジプト記24:12、15~18
 詩編:99
 使徒書:フィリピの信徒への手紙3:7~14
 福音書:マタイによる福音書17:1~9
特祷
神よ、あなたはその独り子の受難の前に、聖なる山の上でみ子の栄光を現されました。どうかわたしたちが、信仰によってみ顔の光を仰ぎ見、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 「なぜ、山にのぼるのか。そこに山があるからだ。」イギリスの伝説的登山家、ジョージ・マロリー(1886-1924)の名言とされている言葉です。日本では、しばしば哲学的な言葉として理解されていますけれども、実はこれ、日本では間違った形で広まったらしいんですね。ジョージ・マロリーは、「どうしてあなたはエベレストに登りたいのですか?」とインタビュアーから尋ねられて、「そこにあるから」と答えただけだったそうなんです。このジョージ・マロリーとインタビュアーのやりとりが公に知られるところとなったのは、1923年3月18日のニューヨークタイムズに記事として掲載されたことがきっかけです。ですから、この「そこに山があるから」という名言が生まれたのは、来月でちょうど100年なんですね。
 残念ながら、彼はその翌年である1924年、人類初のエベレスト登頂に挑んだものの、パートナーのアンドリュー・アーヴィンと共に頂上付近で行方不明となり、そして1999年、75年の月日を経て、彼らの遺体が発見されることとなりました。彼らが、見事エベレスト登頂を果たしたのか、それとも失敗に終わってしまったのかは、未だに判明していません。

人々が山に登る理由

 さて、人はどうして「山」に登るのか。昨今の「登山ブーム」によって、日本では今、山に登る人たちが急増しているそうですね。男性だけでなく、最近では「山ガール」と呼ばれるような、オシャレなアウトドア用品を身に着けて山に登る女性たちも登場してきています。もはや「山登り」というのは、誰でも気軽に始められるアクティビティとなっているんですね。
 良い運動になりそう……とか、達成感を味わいたい。心の健康のため。大自然の中で癒されたい。友だちと楽しい時間を過ごしたい。きっと「山に登る理由」と一言で言っても、人それぞれ、いろんな事情があるのだろうと思います。もしかすると、登山にハマりすぎて「そこに山があるから」という境地に達している人もいるかもしれません。ちなみに、僕はスポーツは大好きなんですけど、山に登るとかは苦手です。正直、めんどくさい。どうせやるなら、野球かサッカーとかテニスとか、そういう“メリハリのある”スポーツのほうをしたいタイプなんですよねぇ。ですからまぁ……、うん、山登りを趣味にしている人すごいなぁって思います。
 そういう、「山に登りたがる」人々の思いには、ある共通しているものが見出されます。それは「山は特別な場所だ」という認識です。
 日本は山だらけ!そう言っても過言ではないほど、この国には「山」がたくさんあって、森林に恵まれています。農林水産省の公表しているデータによりますと、日本の国土の67%、つまり国土の3分の2が森林なのだそうです(https://qr.paps.jp/jEa0o)。ですから、日本の人々というのは、残りの3分の1、つまり、海沿いの平野とか、山に囲まれた盆地のような、国土全体のわずか30%ほどのところにひしめき合って暮らしているということになります。国民のおよそ80%が、標高100mよりも低いところに住んでいるとも言われているんですね。
 これらのデータからも分かるように、日本での生活はまさに「山」に囲まれたものであるわけなんですね。けれども、だからと言って「山」という場所は決して日常的な領域ではありません。むしろ、人間が生活しづらい“非日常的な領域”ということになります。山は“非日常的”な領域・空間であり、特別な場所である。だからこそ、人々は好奇心や開拓精神から、そこに“何か”を求めて登っていくのだろうと思います。

天に近づくため

 現代においてもそうですけれども、「山」という場所は、しばしば“神聖な領域”という扱いがなされてきました。雄大で険しい自然環境に圧倒され、畏れ敬う……そういう思いから、日本人は「山岳信仰」という形で山を崇拝してきました。特に、富士山に代表されるような火山の場合は、神々が引き起こす噴火を鎮めるため、そのふもとに神社が建てられるということもありました。日本の山は自然が豊かで、たくさんの動物たちが住んでおり、川には綺麗な水が流れている。その自然の恵みによって生かされてきた人々にとって、「山」という場所はまさに、命を支えてくれる神々のおられる領域だったのだろうと想像します。
 山が神聖な場所だという認識は、世界共通のもののようなんですね。たとえば古代ギリシアでは、オリュンポスという山の頂上に、ゼウスやアポローン、アルテミスなど、12の神々が住んでいるとされていました。オリュンポスは、標高2,917m。ギリシャの最高峰の山です。そのような、地上のどこよりも高い場所である「山」の頂に自分たちの神々が住んでいると考えるのは、いたって自然なことのように思われます。
 しかし、人々の関心は、実際には、更に“その上”へと向けられていたようです。つまり「天」、天空ですね。古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスは、宇宙の運動(円運動)について研究した人物ですけれども、彼は、太陽や月、星などが規則正しく動いている「天」に関して、何者かがそれを何らかの形で動かしているのだと考えました。彼はその存在を「神」というようにも呼んだそうです。
 天体の動きだけでなく、雨や雷などをもたらし、常に超自然的な力を見せつけてくる天上の世界。そこに神々が住んでいると古代の人々が考えたのは、ロマンチックだなぁと感じさせるのと同時に、まったくもって“現実的”なことでもあるとも感じます。そして、非常に興味深いことに、その中でもある人々は、少しでもその「天」に近づきたいと思い、この地上で最も高い場所(つまり「天」に最も近い場所)である「山」の頂へと関心を向けたわけなんですね。

山で神と出会う

 聖書においても、「山」という場所は、聖なる領域として描かれています。今朝の聖書日課の中にも書かれていたように、預言者モーセは、主なる神から「十戒」の石板を受け取るためにシナイ山に登りました。また、イエス・キリストも、天上世界にいるとされているモーセ、そしてエリヤという二人の伝説的な預言者たちと語らうために「高い山」(マタイ17:1)に登ったと伝えられています。ちなみに、エリヤという預言者も、かつて、シナイ山(別名:ホレブ山)において、神と出会い、神託を受けています。つまり、今日のマタイによる福音書の箇所では、モーセ、エリヤ、そしてイエスという、聖書の三大「山男」が一堂に会しているということになるわけですね。
 ところで、聖公会やカトリック教会、ルーテル教会など伝統的な聖書日課を使って礼拝を行なっている教会では、先月末の1月29日から3週続けて、マタイによる福音書に収録されている、いわゆる「山上の説教」という箇所を読み進めてきました。ですから、今日を含めて我々教会は、4週連続で「山トーク」をしているということになります。今日はその締めくくりなんですね。
 今日が「山トーク」最終回ということですので、せっかくなのでここで改めて、「山上の説教」の冒頭の言葉を読んでみたいと思います。マタイによる福音書5章1〜2節。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」
 「イエスは群衆を見て、山に登られた。すると弟子たちが近くに寄って来た」というように書かれているので、「イエスは群衆たちから離れるようにして山に登って、弟子たちだけがついてきたのかな?」とも読めてしまうんですが、実際はそうではありません。この「山上の説教」が終わる7章28節を読んでみますと、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」というように、ちゃんと「群衆」がそこにいることが書かれているので、イエスは弟子たちだけでなく、大勢の人々を引き連れて、みんなで山の上に登っていったということになるわけですね。「1年生になったら 1年生になったら ともだち100人できるかな 100人で食べたいな 富士山の上で おにぎりを ぱっくん ぱっくん ぱっくんと」というような歌がありますけれども、そのような情景を思わせるようなお話です。
 イエスに出会ったばかりの「1年生たち」に向かって、イエスは山の上で教えを語り始めました。このマタイ福音書に収録されている「山上の説教」は、しばしば「権威的だ」として批判されることがあります。上から下に向かって教えを述べている描写がいかにも、イエスと人々との間にある立場の違いを感じさせるからなんですね。それに、同じ伝承を記しているルカによる福音書を見てみると、そちらの方では、イエスはわざわざ山から降りてきて、平らなところに立って群衆たちに語っています(ルカ6:17)。ですから余計に、このマタイ福音書の描写が「上から目線」のように感じられてしまうわけなんです。

山上で語られる神の言葉

 でも、実際にこの「山上の説教」の一つ一つの教えを読んでみれば、そのようなイメージはすぐに払拭されます。この箇所におけるイエスは、決して不遜な態度でものを言っているものでもなければ、高圧的なことを語っているわけでもないからです。むしろ、当時のユダヤ教指導者たちが「こうしなければならない」と人々に教えていたその律法を、イエスは改めて解釈し直して、人々に寄り添いつつ、彼ら彼女らの置かれている現実世界に神の教えを適用させようとしているんですよね。
 「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」山上の説教は、この第一声から始まっています。キング牧師の「I have a dream.」くらい、インパクトのある言葉として人々の耳に届いたのではないでしょうか。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(5:4)、「あなたがたは地の塩、世の光である。」(5:13以下)、「祭壇に供え物を献げる前に、喧嘩している誰かと仲直りせよ」(5:21以下)などなど、山上の説教の箇所には他にも数多くの“厳しくも愛のある教え”が語られています。
 モーセとイスラエルの民は、石板に刻まれた神の言葉を大切にした。また、ユダヤ人たちは律法の巻物の言葉を守ってきた。キリスト教も同様に、ユダヤ教の伝統を継承する形で、旧約聖書、そして新約聖書を聖典として信仰の礎としてはいるわけですけれども、しかしそれだけではない。この「山上の説教」の場面に表されているように、イエスの言葉というのは、“山の上”から、神の言葉として我々の「心」の中に刻まれ、そして常に覚えられるものとして、一人ひとりの中で反響し続けているものである。そのことを忘れてはならないだろうと思います。

イエスが山に登ったのは

 今日は大斎節前主日という日曜日です。今週の水曜日に「大斎始日(いわゆる灰の水曜日)」を迎えて、大斎節へと入っていくことになります。イエスの受難と死を覚えつつ、復活への思いを堅くする「大斎節」。その直前に、この聖書日課が選ばれている。それはどうしてなのか。
 その神学的な理由は、今朝の特祷の言葉の中に記されています。「神よ、あなたはその独り子の受難の前に、聖なる山の上でみ子の栄光を現されました。どうかわたしたちが、信仰によってみ顔の光を仰ぎ見、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように……。」イエスは、受難に先立って、ペトロたちに「希望」を示した。つまり復活の予告。イエスは言葉ではなく“目に見える形”で、彼らに復活を予告したわけです。そして、光り輝く雲に覆われることで、彼らもまた神の救いの中にあるということを、言わば“疑似体験”させられたということなのだろうと思います。
 でも、僕は、今日の聖書日課にはもう一つ大きな意味があるように思うんですね。今日の説教の中心テーマとして掲げた「山に登る」ということ。冒頭でもお話したように、人が山に登る理由はいろいろとあるわけですけれども、多くの人が、「山という場所は特別な世界」、そして、「山に登ることで自然に包まれたい」という思いを持っているようです。自然の中に身を置いたとき、人は自分がいかに小さい存在であるかを自然から教えてもらうことができる。そして、自分もこの自然の一部なのだということを再認識させられる。そのような体験をすることは、きっと、自分の中から傲慢さというものを取り除いてくれるものとなるのではないかと思います。
 また、山の上に登ると、その目下に広がる「人々の暮らしぶり」を見下ろすことができる。遠くの町々まで、広く見渡すことができるわけです。このような俯瞰的な(神的な)視点を、人は「山に登る」ことによって得ることができるとも言えるかもしれません。
 イエスは、しばしば一人で山に登って祈りの時間を過ごしたと言われています。それはもしかすると、静寂を求めていたのと同時に、山の上から町の様子を眺めるためだったかもしれません。日常の中では見えないところまで見るために……、世の中を隅々まで目を向けるために……、イエスは山に登ったのではないか。
 山上の説教に代表されるように、イエスが語ったとされる教えは、その多くが、「傲慢になるな」とか、「俯瞰的な視点を持て」とか、「世の中を隅々まで見ろ」という内容のものだと感じます。イエスは、人々にそのような教えを語りつつ、自らもまた、その大切さを受け止め直すために、折を見て「山」という場所に登っていたのではないでしょうか。そうして、彼は「受難」への道を進んでいきました。神の目(神の視点)をもって、人々の救いのために、進むべき道を突き進んでいったわけです。その道のりについては、これから始まる大斎節の期間を通じて、ご一緒に見ていければと思います。

おわりに

 非日常があるからこそ、日常の生活をじっくりと観察することができる。また、日常があるからこそ、非日常的な世界の大切さが分かる。そうして、この循環の中にあって、我々の心の中に深く刻まれているイエスの教えを実践していく、そういう一人ひとりでありたいと願っています。説教を語り終えて、ちょっと「山に登っても良いかな」と思い始めてきました。非日常的な世界に身を委ねることって大切だなって。でも、まぁ、うん……、車かロープウェイで登ります。

 それでは、また来月。

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