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もう一つの2・11

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詩編・聖書日課

2024年2月11日(日)の詩編・聖書日課
 詩編:95編1~11節
 旧約:申命記8章1〜6節
 新約:ヨハネによる福音書6章1~15節

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 さて、本日は「建国記念の日」ということで、世間では、明日の「振替休日」も含めて、土・日・月と、三連休を迎えているという人たちもきっと多いのではないかと思います。今年(2024年)は、祝日などを含めた三連休が、全部で11回もあるそうです。今月なんて、2回も三連休があるんですよ。今週と来週末ですね。

 普通よりもお休みの日が多いというのは、まぁ、それ自体は良いことですね。ただし、注意しておかなければならないことが一つあると僕は思います。それは、「祝日」という日は、単純に「みんな、仕事をお休みしましょう」という日ではないということです。もし、「ただの特別なお休みの日」であるならば、「祝日」じゃなくて、たとえば「特別休日」みたいな名前にしたら良いのですよね。でも、そうじゃない。「祝日」という名前の、特別な日が設けられているのには、当然、それ相応の理由というものがあるわけなんですね。
 「祝日」が「休日」とされているのは、そのように国が定めているからです。「『国民の祝日』は、休日とする」というように、法律で決まっているからなのですけれども(「国民の祝日に関する法律」第三条)、では、どうして祝日が休日なのか、その理由に関して調べてみましたところ、『政府広報』のホームページに、こんなふうに書かれていました。「それぞれの祝日の意義を考え、平常の勤務を離れて、それにふさわしい一日を過ごすことができるように」。

 ……なので、ただ仕事を休むだけではなくて、本来、祝日というのは、「それぞれの祝日の意義を考え」るために仕事を離れる、という目的が定められているわけなんですね。まぁ、そうは言っても、おそらくほとんどの人は、その祝日の意義なんて考えないでしょうけどね。僕もわざわざそんなこと、ねっ、せっかくのお休みの日なのに、「祝日の意義」なんか考えようと思わないです。全然興味無いですね。祝日?3連休?ラッキー!って感じですね。

「信教の自由を守る日」

 ですが、この2月に設けられている祝日に関しては、僕としては、どうしても気にしないわけにはいかないと思っています。今日、2月11日「建国記念の日」、そして、次週2月23日に控えている「天皇誕生日」……。これら2つの“祝日”の設けられている意義、その根底にあるものに、どれだけ我々キリスト教会が苦しめられてきたか。そして、我々日本のキリスト教界が、その歴史に関して、どれほどの責任を担っているか。そのことを思うとき、僕はこれらの日を、まったく手放しで、ゆっくり過ごすだけでは良くないのではないかと思ってしまうのですね。
 皆さん、ご存知のことと思いますけれども、今日2月11日の「建国記念の日」と、2月23日の「天皇誕生日」(2020年から)。この二つの祝日はそれぞれ、元来は、「紀元節」や「天長節」と呼ばれていました。国威発揚政策の一環として設けられて、日本を戦争へと向かわせる一助を担った、あの「国家神道」の祭日だったわけです。天皇のもとにあるすべての人々は、それらの祭日を祝うこと、また、天皇崇拝、神社参拝を強制されました。日本国内だけでなくアジアの植民地も含めてです。
 戦後、国家神道は(一応は)解体された。そうして、国民は皆、それぞれに、何を信じて何を信じないか、という自由を獲得することができたわけです。「信教の自由」という、基本的人権を構成する一要素ですね。
 しかしながら、戦後もこの国には、まさに今日に至るまで、再び、天皇制を利用として、戦前・戦中のようなナショナリズムを国民の間に復活させようという雰囲気がある。そのような中で、二度と同じ過ちを繰り返さないために……、基本的人権を権力者たちに奪われないようにするために……、日本のキリスト教界では、この2月11日を「信教の自由を守る日」と呼んで、毎年、覚え続けているわけですね。

1889年、日本初の「信教の自由」

 さて、この国で「信教の自由」という言葉が一般に使われるようになったのは、明治以降、近代化が進み始めてからです。新政府は、欧米諸国と対等な関係を築くため、1889年に成立した“初めての憲法”の中に、「信教の自由」に関する内容を取り入れます。
 いわゆる鎖国状態を解消すると同時に、開かれた港からは、西洋文化の流入とともに、キリスト教の影響がどっと全国各地に広がっていったわけですけれども、それからおよそ30年ほどした1889年に、日本の初代のキリスト者を含め、すべての国民は、「信教の自由」というものを守られるようになったのですね。
 そのことを、当時のキリスト者たちは、非常に喜んだそうです。30年間、よく我慢した。新参者のキリスト教が国から認められた。……いやいや、そんなもんじゃない。日本におけるキリスト教排除の歴史はもっと古い。豊臣秀吉の「バテレン追放令」から数えるならば、なんと300年もの間、日本のキリスト教は迫害され続けてきたんですよね。そう考えますと、プロテスタントや正教会よりも、カトリックのキリシタンたちのほうが喜びは大きかっただろうと想像しますけれども、まぁしかし、いずれにせよ、当時の日本のキリスト教界は、「やった!ようやく自分たちの信仰が保障されることになった!万歳!万歳!」と、多くの人たちの歓喜の声で満ち溢れたと言います。

制限付きの「信教の自由」

 しかし……なんですよね。この時、日本のキリスト者たちは、自分たちがどういう状況にあるのか、分かっていませんでした。と言いますのも、彼らが手に入れた「信教の自由」というのは、実は、完全なものではなかったのですね。いわば、“制限がかかった”ものだったわけです。
 大日本帝国憲法の「信教の自由」に関するところには、このように書かれています。「日本臣民は、安寧秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて、信教の自由を有する。」
 つまり、「臣民である皆さん、あなたがたは、天皇という君主への絶対的服従、また、そのような国の在り方を受け入れて生活する限りにおいてのみ、信教の自由を保障してあげましょう」――という、言ってみれば、“足かせを付けられた状態の自由”が、国から“与えられた”というわけです。
 今の僕らからしてみれば、そんな無茶苦茶な話、ありませんよね。とんでもない話なのです。なぜならば、「憲法」というものは……、そしてその憲法によって保障された「自由」というものは……、本来は、僕らが“国に守らせるもの”(国が守らなければならないもの)だからなのです。国から「はい、どうぞ」と言って与えてもらうものでは決してないんですよね。なので、この当時の憲法によって定められた「信教の自由」というのは、実は、自由でも何でもなかった。ただ、活動の範囲を限定されただけだった……というのが、現実だったということなんですね。

まるで魚とパンの奇跡のように

 しかし、そのような背景がありながらも、日本のキリスト教界は、ようやく(一応は)「自由」と名の付くものを手に入れて、新たな歴史を築き始めることになりました。キリスト者たち自身(外国から来た宣教師たちも含めて)、まったくの手探り状態の中ではありましたけれども、それでも、19〜20世紀にかけて、日本の中にキリスト教を広め、そしてそれを体現しようと頑張っていたのですよね。教会を建て、学校を建て、病院を建て……。また、廃娼運動や、社会運動、社会福祉事業などにも積極的に取り組んでいきました。ときには様々な妨害や嫌がらせなどを受けながらも、日本のキリスト者たちは挫けることなく、日本の社会に対して影響を及ぼし続けたわけです。

こひつじイラスト(https://kohitsuji-illust.com/)より

 取って付けたような言い方になってしまいますけれども、そのキリスト教の広がりというのは、まさに、今日の福音書の中に描かれていた、パンと魚の奇跡のようではないかと僕は思うのですね。たった魚2匹とパン5つが、常識を打ち破って、不可能だと思われることを実現させていった――。開国後とは言え、まだまだ閉鎖的な空気に包まれていた当時の日本社会の中に、福音が届けられていったのです。
 その時代の希望に溢れた雰囲気たるや、どれほどのものだっただろうかと、今回あらためて歴史を振り返りながら、僕自身、胸を打たれる思いがいたしました。

初代の日本の教会と天皇崇敬

 ただ、我々の信仰の先輩たちは、そのようにして発展を遂げながらも、一方では、多くの部分で“誤った判断”をしてきてしまったのだということを、我々は覚えておかなければならないと思います。
 かつて、この国のキリスト教会の多くが、戦争に協力した歴史があるというのは、もはやお話するまでもないことだと思いますけれども、実は、日本のキリスト教界は、それよりももっと前……、つまり明治以降の非常に早い段階から、天皇中心の日本のあり方に同調してしまっていたのですね。
 初代の日本のキリスト教界を指導していたのは、「士族」、つまり、明治維新以前は、武士の家柄にあったという人たちでした。彼らは、明治政府樹立とともに、武士の階級を剥奪されてしまうのですが、そのようなアイデンティティの喪失に苦しむ中で出会ったのが、洋学校で教える宣教師たち、そして「キリスト教」という宗教だったのですね。そこでの出会いというのは、彼らの心の穴を埋めるきっかけになったようです。彼らはその後、日本のキリスト教を代表する指導者になっていきます。つまり、彼らは“復活”を果たしたわけですね。

 しかし、そんな彼らの心の奥には、まだ、幕末の武士の精神というものが残っていた。西洋文化こそ受け入れられたものの、「尊王攘夷」の「尊王」のほうですね、つまり、天皇への崇敬の念というのは、依然として堅く持ち続けていたわけです(それが当たり前だった)。なので、天皇のもとで国民が一つに統一しようという新政府の考えを、彼らは退けなかったのですね。それどころか、むしろ、「日本を偉大な国にすべく、西洋文化とともにキリスト教の精神を広げていこう!」という思いを持って、キリスト教の伝道に勤しんだわけです。そのような、国家権力との向き合い方が何十年も継続されてきた結果、気づいたら、取り返しのつかない事態になってしまっていた(抵抗する余地もないほどに国家の支配を受けていた)……というのは、我々、この時代を生きるキリスト者が、この先、二の舞を演じることにならないためにも、皆、記憶にとどめておくべき歴史と言えるのではないでしょうか。

もう一つの2・11

 また、もう一つだけ皆さんにご紹介したいことがあります。今日は、「建国記念の日」、そして、「信教の自由を守る日」ということなのですけれども、僕の所属する「日本聖公会」にとっては、もう一つ、重要な日でもあるのですね。実は、この2月11日という日は、「日本聖公会組織成立記念日」なのです。1887年に「日本聖公会」として成立し、今年で137年になります。

 日本の聖公会もまた、天皇を中心とする日本の新しい政治に長く同調してきました。聖公会の場合、イギリスの影響が強いですね。イギリスには英国王室がありますから、政府と立場を異にする“君主”という存在がいるという状況を、日本の聖公会はもしかすると、他の教派よりも受け入れやすかったかもしれません。
 日本聖公会の教会のカレンダーには、日本基督教団と違って、「信教の自由を守る日」という日が書かれていません。それは、組織として、特別にそういう日を設けていないからなのですけれども、個人的には、日本聖公会という組織は、もっとこの日を大切にしても良いのではないかと思っています。この「2・11」という日が、日本聖公会の「組織成立記念日」であると同時に、かつての「紀元節」と同じ日なのだという事実を受け止めて、そして、この日にこそ、(自分たち聖公会も含めて)あらゆるキリスト教会が、国家権力や天皇・皇室との関係を誤った形で続けてきてしまったのだという歴史を、真摯に見つめて悔い改め続けるべきではないかと思うのですね。

おわりに

 「信教の自由」が保障されている今の時代だからこそ、我々現代に生きるキリスト者は、この平和を守り続けていく必要がある――、そう感じています。混沌とした国際情勢と、不安定なこの国の状況からして、いつ、また再び、暗黒の時代に戻ってしまうか分かりません。かつての日本がそうであったように、信じたいものを奪われ、信じたくないものを拝ませられ、命を捧げさせられる社会になってしまうかもしれない。そうならないように、今、我々はあらためて心に誓いたいと思います。この「信教の自由」は、そして、基本的人権、誰もが平和に生きる権利というものは、誰にも奪わせない――と。
 ……それでは、お祈りいたします。

お祈り

 主よ、この「信教の自由を守る日」において、今一度、私たちの心を強めてください。かつて、イスラエルの民が40年の荒れ野の旅を思い起こして悔い改めたように、私たちにも、歴史を顧みる知恵と、悔い改めの思いを与えてください。いま日本で、また世界で「信教の自由」を侵害されている人々のために、私たちに連帯の思いを抱かせ、私たちを遣わしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

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