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祈れば……ではなく祈ることから

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詩編・聖書日課・特祷

2023年5月21日(日)の詩編・聖書日課
 使徒言行録:1章8〜14節
 詩編:47編
 使徒書:ペトロの手紙一4章12〜19節
 福音書:ヨハネによる福音書17章1〜11節
特祷
み子イエス・キリストに永遠の勝利を与え、天のみ国に昇らせられた栄光の王なる神よ、どうかわたしたちをみなしごとせず、聖霊を降して強めてください。そして救い主キリストが先立って行かれたところに昇らせてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 皆さん、おはようございます。先週は一気に気温が上がって30℃を超える日がありましたね。金曜日はまだマシでしたけれども、昨日も暑かったし、今日も最高気温29℃と予想されているそうです。もう十分、熱中症予防が必要な季節に入っておりますので、皆さん、しっかりと水分補給・塩分補給をしてくださいね。僕も今日はスポーツドリンクを持ってきています。礼拝中でも遠慮なく水分補給していただいて結構です。僕も飲みますから。
 さて、我々聖公会では、先週の木曜日に迎えた「(イエス・キリストの)昇天日」から、次週の聖霊降臨日(ペンテコステ)までの11日間、こちらの『Thy Kingdom Come(み国が来ますように)』という冊子を使ったお祈りの運動への参加が呼び掛けられています。これは、2016年から英国教会を中心に始められ、世界中へと拡大しているエキュメニカルな取り組みです。日本聖公会は、2020年からこの祈りの運動に参加しています。ですので、今年で4年目を迎えているということになります。

※『Thy Kingdom Come(み国が来ますように)』のpdfファイルは以下のリンクからダウンロードできます。
https://www.nskk.org/province/blog_pdf/Thy%20Kingdom%20come2023.pdf

 ところで、この『Thy Kingdom Come』は「エキュメニカル(な取り組み)」だと言いましたけれども、皆さん、「エキュメニカル」ってどういう意味の言葉か、ご存知でしょうか。最近、教会で時々聞くようになった言葉です。……大丈夫です。牧師さんでも「実はよく知らない」っていう人、少なくないと思います。
 エキュメニカル、あるいはエキュメニズムというのは、キリスト教の教派を超えた結束を目指す、教会一致運動のことを言います。「一致」と言いましても、それぞれの教派をまるっと一つに“統一”しようというような、そういう乱暴な方法で行われる“一致”ではありません。そうではなくて、それぞれの教派や教会が持っている多様な伝統や価値観を互いに尊重しつつ、共通する部分に関しては手を取り合い、また、相容れない部分においてはそれぞれで最善を尽くし、そのようにして、主にある世界平和のために協力関係を結んでいくこと。それがエキュメニズムの目標とする“一致”なんですね。
 そして、そのようなエキュメニカルな取り組みの一つとして、世界の聖公会(アングリカン・コミュニオン)が始めた運動が、この『Thy Kingdom Come(み国が来ますように)』という祈りの連帯であるわけなんです。これは、聖公会のみに限らず、他の教派に向けても参加が呼びかけられています。インターネットでも呼びかけられておりまして、専用のウェブサイトがあるんですけれども、インターネットの場合、自分のプロフィールを登録することができて、その際に「あなたの教派は何ですか?」という項目があります。ですので、本当にすべてのクリスチャンの人たちに向けて開かれた祈りの運動なんですね。
 もちろん、この祈りの運動に参加する人のほとんどは、必然的に聖公会の信徒が多くなるでしょうけれども、それでも、仮に少数であったとしても、カトリック教会やプロテスタント、あるいは東方教会など、様々な教派の人たちにも加わってもらって一緒にお祈りができたならば、どれほど素晴らしいことだろうかと思います。この祈りの運動が、ますます世界中のキリスト者たちによって用いられるようになることを楽しみにしています。皆さんもぜひ、来週の日曜日まで、毎日この冊子を使ってお祈りをしてみてください。枕元において、朝起きた時に、その日の分を読むだけでも大丈夫です。

統一ではない一致

 ところで……、この冊子の27頁にあります「おわりに」という部分に書かれていることなんですけれども、日本聖公会では、実は昨年から、英語版で作成されている『Thy Kingdom Come』とは違う内容のものを、日本の各教会に配布しているそうなんですね。英語をそのまま日本語に翻訳したものだと、どうにも使いづらいという声があって、「それじゃあ日本は日本で独自のものを作成しましょう」ということになったそうです。
 教会の一致を目指す取り組みなのに、日本独自のものを作成するということについては、きっと賛否両論あったのではないかと想像するわけですけれども、あくまで個人的な意見ではありますが、僕は、全然それで良いと思うのです。それどころか、そのような多様な形を生み出していくことこそ、エキュメニカル(エキュメニズム)の真髄ではないかとも思うんですね。と言いますのも、エキュメニズムの目指す“一致”というのは、言い換えれば“共存”なのであって、先ほども言いましたように、乱暴な形で為される“統一”では決してないからです。エキュメニズムの“一致”は、“統一”ではなく“共存”である……。これは、これからのキリスト教を守っていく上でとても大切な考えであると言えます。
 かつて、キリスト教は、統一的な一致こそが正しいと考えていました。その代表として挙げられるのが、たとえば「ラテン語による典礼」です。現代において、ラテン語の典礼というのは、数多く存在する典礼の形の一つとして位置付けられていますけれども、宗教改革以前、あるいはカトリック教会の歴史においては第2ヴァチカン公会議による典礼改革に至るまで、西側のキリスト教は、その「ラテン語」という言語によって“統一”されてしまっていました。自国語でミサを行うことが許されていなかったわけです。
 ラテン語という言語による、そういった画一的なガバナンスは、一方では、ローマを中心とした西ヨーロッパのキリスト教界に広く一体感を生み出すことになりました。なんと言っても、同じ一つの言語でミサが行われているわけですからね。地域によって、多少、ミサの形式の違いはあったみたいですけれども、どこの教会でも、ラテン語でミサが行われているというのは、たとえば、日本のどこの教会に行っても日本語で礼拝が行われているというのと同じくらい、安心感があっただろうと思います。
 けれども他方では、一般信徒(一般庶民)とミサを執り行う聖職者たちとの間に「大きな壁」を作り出すことになった。何故なら、一般の人々は、ラテン語という言語を理解できなかったからです。「大きな壁」と言いましたけれども、それは、比喩的にそのように言ったわけではなく、実は本当に、聖堂の中に「壁」が作られていたんですね。聖職者たちの領域と会衆のいる領域が壁で区切られ、人々はラテン語が理解できないものですから、時折、聖堂の奥から聴こえてくるベルの音を頼りに、「あぁ、今は参加するタイミングなのね」という感じで、立ったり座ったり祈りの姿勢をとったりしたということなんです。
 今でも、教会によっては、聖餐式の「感謝聖別」の際に、チリンチリンとベルを鳴らす習慣が残されているんですけれども、それは、ラテン語による典礼の名残りだと言われています。

日本聖公会のエキュメニズム

 現在、我々は、それぞれの国において、自分たちの言語で礼拝(ミサ)を行うことができています。それは、16世紀の宗教改革、カトリック教会においては20世紀の典礼改革の成果ですけれども、そのような「ラテン語の典礼」に代表される統一的なガバナンスからの解放によって、キリスト教という宗教は、かつてないほどに様々な教派を生み出していくことになりました。神学も、礼拝のあり方も、使われる言語も、教派・教会ごとに異なる。ラテン語によって支配されていた時代のキリスト教とは全く正反対の状況が広がっているわけです。しかし、それでも自分たちは、エキュメニズムという考えのもと、「キリスト教」という一つの宗教の中に“共存”しているのだと考えているということなんですね。統一としての一致から脱却して、共存としての一致を目指そうということになったわけです。
 この日本独自の『Thy Kingdom Come』を使って祈ること。それは、ややもすれば、英語版の冊子を使っている人たちからすれば「分断を助長する」動きととられてしまうかもしれません。あくまで、僕個人の憶測ですけれども。しかしながら、「おわりに」(27頁)のところを読んでみますと、ある英国教会の主教から次のような返答があったことが報告されています。「それでもいいのではないか。大切なことは私たちが聖霊に満たされること、[それぞれがこの期間中に祈りに覚えたい]5人のために祈ることだから」。
 この祈りの運動において何よりも重要なのは、同じ内容の御言葉を読み、同じ内容の祈りをすることではなくて、共に聖霊に満たされ、世界の人々と共に誰かのために祈ること。この冊子は、その補助的役割をしてくれるツールである。そのことを、我々日本聖公会の一人ひとりが覚え、そして、他のアングリカン・コミュニオンの人々にもぜひ、日本聖公会のそのような思いを受け止めてもらえればと、そのように願っています。

Anglican Communion Sunday

 さて、この後の「代祷」の時間にも紹介があると思いますけれども、本日5月21日の日曜日には「アングリカン・コミュニオン・サンデー」という名前が付けられています。それもあって、今日は、アングリカン・コミュニオン(世界の聖公会)におけるエキュメニカルな取り組みの一つとして『Thy Kingdom Come』のことをここまでお話ししてきました。
 日本聖公会は、皆さんご承知の通り、決して大きいとは言えない共同体ではあるけれども、視点を変えて見てみますと、我々日本聖公会は、世界165ヵ国以上の国や地域からなる「アングリカン・コミュニオン」という巨大な共同体の中にあって、多くの仲間たちと霊的な繋がりを形成しているんですよね。「エキュメニカル」という言葉は、ギリシア語で「家」という意味の「オイコス」(厳密には、その派生語である「オイクーメニコス」)を語源としています。つまり、我々日本聖公会は、アングリカン・コミュニオンという、一つ屋根の下で、様々な国の聖公会の人々と“共生”しているというわけです。この「アングリカン・コミュニオン・サンデー」の日に、ぜひとも心に留めておきたいことですね。

https://www.anglicancommunion.org/ より

アジアにある日本

 ただ、それと同時に我々が覚えておかなければならないことは、我々日本聖公会は「アジア」という地域に存在しているということです。週報の「代祷」のところに「アジア・サンデー」「アジア・エキュメニカル週間」というように記されています。我々日本聖公会は、CCA(アジアキリスト教協議会)という組織に加盟していますので、アジアの連帯、アジアにおけるエキュメニカルな取り組みの一環として、毎年、聖霊降臨日(ペンテコステ)の前の日曜日を「アジア・サンデー」として、またその日から始まる一週間を「アジア・エキュメニカル週間」として覚えているわけなんですね。

 日本という国は、欧米諸国との関係が深いため、どうしても太平洋の向こう側の世界へと意識を向けがちで、背後にある「アジア」という大きな地域に自分たちが属しているということをつい忘れてしまうことがあります。
 アジアという地域の定義に関しては、その語られる文脈によって異なるので、「どこからどこまでがアジア」とは言いにくいんですけれども、先ほど少しご紹介をした「CCA(アジアキリスト教協議会)」という組織には、公式サイトの記載によりますと、範囲としては、イラン、ニュージーランド、そして日本で大きな三角形を作るような感じで、全99の教会グループと17のキリスト教協議会が加盟しているそうです(2023年5月現在)。
 最近、テレビのニュースなどで「グローバルサウス」という言葉をよく聞くようになりました。いま広島で行われているG7のサミット。その関係で「グローバルサウス」という言葉が使われているわけですけれども、何のこっちゃという方が多いと思います。「グローバルサウス」というのは、South、つまり南半球に位置しているアジアやアフリカなどの、いわゆる発展途上国のことを指す言葉なんですね。

 CCA(アジアキリスト教協議会)に加盟している国の多くが、グローバルサウスと呼ばれる国です。つまり、先進国ではない国、経済的に豊かではない国ということになります。また、日本のように比較的「キリスト教」という宗教に寛容な国もあれば、他の宗教との共生が上手くいっていない国、キリスト者たちが過酷な信仰生活を強いられている国も存在します。アジア・サンデー、アジア・エキュメニカル週間は、主にそういった様々な問題を抱えている国々のことを覚えて祈る期間であるわけなんですね。
 ただし、日本も他人事ではありません。日本は現在、アジアの地域を代表する形で、たとえば今回のように「G7」に加わっていたりするわけですけれども、経済的には下落の一途を辿っており、それゆえに、社会情勢や経済の安定を図る上で、それこそ、今後経済発展が見込まれている「グローバルサウス」の国々と、上手にお付き合いしていく必要があると言われていたりします。
 それに、宗教に関する問題も山積しています。キリスト教の迫害こそ大々的に行われているわけではありませんけれども、それでも、各地の教会は様々な問題を抱えています。逼迫した財政状況や、減少し続ける礼拝出席者の問題、ジェンダー・セクシュアリティを含む人権意識の低さの問題、そしてキリスト教系カルト宗教の問題など、解決していかなければならない問題がたくさんあります。

アジアのキリスト教の歴史は短い

 そのように、アジアの諸外国だけでなく、日本という国もまた、同様に多くの課題を抱えているわけですけれども、ただ、日本の社会情勢はともかくとして、日本のキリスト教の今後に関しては、実は、あまり悲観的になり過ぎるのも良くないような気がするんですね。と言いますのも、我々アジアの国々の特徴の一つとして、忘れてはならないことがあるんです。それは、「キリスト教の歴史が短い」ということです。
 1000年以上の歴史を誇るヨーロッパのキリスト教に比べて、アジアのキリスト教の歴史はまだ数百年。日本では、フランシスコ・ザビエルが来日してからまだ500年も経っていないのです。日本などの一部の国々は、急激な欧米化と経済発展に伴ってキリスト教の規模も拡大することになったわけですが、それは言わば、外側からの力を借りて発展してくることができたとも言えると思うんですね。経済成長という浮力が無くなった今、ようやく日本のキリスト教は、自分たちの力だけで教会を支えていかなければならないという現実に直面することになった……。そのように言えるのではないかと思うわけです。
 いま世界的に注目されている「グローバルサウス」の国々。それぞれの国の力は弱いけれども、実はこの先、数十年の間に、グローバルサウス全体で爆発的な人口増加と経済成長が予想されています。それに伴って、グローバルサウスの国々では、(かつての日本がそうであったように)キリスト教界も発展していくことになるだろうと思われます。
 しかし、今はまだその段階ではない。だから、大変な思いをして過ごしているアジアの仲間たちのことを覚えて、様々な形で支えていく必要があります。それと同時に、日本国内においては、今まさに、キリスト教会自身の底力が試される時を迎えていると言えます。社会の低迷・停滞という中にあって、そのような重力に引っ張られるのでなく、それに抗い続け、耐え忍びつつ、これから先の数百年を見据えながら日本のキリスト教界全体を守っていくことが、今の時代の我々には求められているのだろうと思います。

おわりに

 「困難な状況の中でこそ祈りが大切だ!」というのが、実は今日のお話の結論なのですけれども、ともすれば、「祈りなんて現実逃避だ」とか「最終的には神頼みか」などと思われてしまうかもしれません。しかし、決してそうではありません。本日の聖書日課のテクストが教えてくれていたように、この世界に誕生した最初の教会は、祈りから始まっていた……。使徒言行録1章14節のところには、「彼らは皆[……]心を合わせて熱心に祈っていた」と書かれています。復活のイエスが天に上げられて地上からいなくなってしまったあと、弟子たちは「祈ること」から、新たな歩みを始めていったわけです。それによって、彼らは聖霊に満たされ、強められ、自分たちの目指す目的へとそれぞれ押し出されていったのです。
 我々も今、この時から、祈りをもって様々な困難や課題に立ち向かっていこうではありませんか。祈ればなんとかなる……ではなく、祈ることから何かが始まっていく……。そのことを信じて、そして世界の仲間達がともに祈ってくれていることを心に留めて、これからの僕らの大事な教会を支え、元気づけていきましょう。

 ……今日のお話は以上です。それでは、また来月。

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