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転生?先生、それは厭世(えんせい)

音声データ

詩編・聖書日課・特祷

2024年6月16日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 エゼキエル書 31章1〜6節、10〜14節
 詩 編 92編1〜4節、12〜15節
 使徒書 コリントの信徒への手紙二 5章1〜10節
 福音書 マルコによる福音書 4章26〜34節
特祷(聖霊降臨後第4主日(特定6))
あなたを愛する者のために、人の思いに過ぎた良い賜物を備えてくださる神よ、どうかわたしたちに何ものよりもあなたを愛する心を得させ、わたしたちの望みうるすべてにまさる約束のものを与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに 〜いわゆる「転生もの(転生系)」〜

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 さて、今日のお話は、こんなタイトルにしました。『転生?先生、それは厭世(えんせい)』。森昌子さんのヒット曲のメロディに乗せて読んでみてください。

 「転生」といいますのは、まぁ簡単に言えば「生まれ変わる」ということですけれども、ただ生まれ変わるのではなく、「死ぬ前とはちがう姿かたちをもって生き返る」ことを、「転生」と言うのですね。実はいま、日本の創作界隈(マンガとかアニメ、小説などの世界)において、この「転生」というものをテーマにした作品が数多く作られています。「転生もの」とか「転生系」などというように呼ばれていたりします。
 物語の主人公である人物が、ある時、不慮の事故とか、不治の病のために命を落としてしまいます。ところが、どういうわけか、その主人公は、「転生」……ですね、生まれ変わることになり、そして、そこから新たな人生を始めていくことになる――というのが、「転生もの」、「転生系」と呼ばれている作品に共通していることです。しかも、大抵の場合、その「転生」した主人公は、転生する前の“記憶”や“意識”がそのまま残っていたり、あるいは、最初は前世の記憶が無くても、物語の途中で何かの拍子に過去の記憶を取り戻したりするのですよね。なので、転生する前の人生で、たとえば、「失敗したこと」とか、「もっとこうしておけばよかった」などの後悔の念があったとするならば、それらを、転生後の人生で“清算”することができるわけです。

「転生もの」と世間の志向

 少し調べてみたところ、そういう「転生もの(転生系)」の作品というのは、2010年代から爆発的に増えてきたようでして、今はもう、“飽和状態”と言えるほどに、数多くの「転生もの(転生系)」の作品が世に溢れているみたいなのですよね。新しいマンガとかアニメが出て、「どんな内容かな?」とチェックしてみたら、「また“転生もの”か!」みたいな……、そういう状態らしいです。
 僕は、あんまりそういうものに関心がないので、未だにそれらの魅力を理解できずにいるのですけれども、それだけ数多くの「転生もの(転生系)」の作品が世に出回っているということは、言い換えれば、人々の心のなかに、そういう「転生」みたいなものに対する一種の憧れが広がっているということなのではないかなと思います。「転生もの(転生系)」の作品が共通して描いている、「新しい自分に生まれ変わって、『今度は良い人生を過ごしたい』とか、『できなかったことを実現したい』」というような、“人生のやり直し”。そういうものを、今の時代の人々は密かに夢見ている、ということなのかもしれません。
 様々な問題が山積している、この世の中においては、「明るい未来(幸せな未来)」というものを思い描くのはなかなか難しいかもしれない。「人生のやり直し」を夢見ながらも、「実際にはそんなこと出来っこない」と諦めてしまう人々が多いのが現状だろうと思う。だからこそ、せめてフィクションの世界では……!ということで、いまお話したような「転生もの」……、つまり、希望がない“現世”ではなく、可能性がある“後の世”に憧れを抱く、というような作品が数多く作られ、そして、そのような作品に多くの人々が心惹かれている――ということが起こっているのではないかと想像しています。

厭世先生パウロ

 さて、本日のお話のタイトル、『転生?先生、それは厭世(えんせい)』ですけれども、この「厭世(えんせい)」というのは、「世」を「厭う(いとう)」、つまり、この世には救いがないと考えたり、自分の人生には価値の無いと思って諦めたりすることを言います。厭世主義とか、あるいは「悲観主義」などと言ったりしますね。
 その逆は何かと言うと、楽天主義……。何事においてもポジティヴに(前向きに)考えることを「楽天主義」と言います。「宗教」というのは、基本的には総じて「楽天主義」であると思います。どれだけ不幸と思えるようなことがあったとしても、その先には“究極的な救い”がある、というように“希望のある教え”を説くのが宗教ですからね。キリスト教の教えももちろん、本質的には「楽天主義」であるはずだと思います。
 しかし、聖書をじっくりと読んでみますと、その中には、決して“楽天主義的な言葉”ばかりが書かれているわけではない、ということに気付かされます。それどころか、非常に「厭世的」だなと思わされるような言葉も散見されるのですよね。
 今日の使徒書のテクストは、第二コリント書の5章1〜10節というところが選ばれていましたけれども、この箇所には、(この手紙を書いた)パウロという人物の、いわば「厭世的」な考え方というものがはっきりと示されています。たとえば、2節にはこのように書かれていました。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。」
 パウロという人はここで、この肉なる身体……、自分(という存在)が中に入っている肉なる身体ではなく、神の御もとにおいて与えられる“新しい入れ物”に早く入りたい、というようなことを述べています。苦しみもだえなければならないような、こんな“肉による生活”ではなく、何不自由なく過ごすことのできる、神の御もとでの“霊的な生活”に憧れを抱いているというわけなのですね。

転生したら(天国に行けば)自由が待っている?(イラストACより)

 将来に対して強い期待を持っている……という点に関して言えば、パウロさんは非常に「楽天主義者」であると言えます。今は思い通りにいかないことが多かったとしても、将来、神の国が実現したときには、自分は大きな幸せを得ることができると語っているからですね。ですが、それはあくまで、“宗教的・あの世的”な楽天主義であって、“この世”における幸福は期待していない……という点では、楽天主義とは言えないのですよね。この地上におけるあらゆる現実というものは、もはや滅びゆく運命にあるだけの無価値なものに過ぎない――。もし、彼が本当にそのような考えていたのだとすれば、彼は典型的な「厭世主義者」だったと言えるのではないかと思うのですね。

“神の国”のたとえ話

 「究極的な救いは、この世ではなく神の御もとにおいて果たされる」という信仰は、(弱さやほころびの多い)この世界においては必要なものなのかもしれないなと感じます。特に、初期のキリスト教会が発展してきたのは、そのような信仰が人々の間で広く受け入れられたからだと言えます。将来に対して希望が持てない現実の中で生きながら、それでも、神の御目にふさわしい人生を過ごしてさえいれば、終わりのときに、全ての労苦は報われ、天において、神の御もとで永遠の平和を享受できる――。そのような教えに心を打たれたからこそ、人々はパウロたちのもとに集うようになり、それによってキリスト教会は発展してきたわけですよね。
 ですが……、そのような、いわゆる“死後の世界への希望”というものを説くことだけが、キリスト教の役目ではない。そのことを、我々は覚えておかなければならないと思います。何故ならば、イエス・キリストは、むしろ、この地上での生活をいかにして“回復するか”、“意義深い”ものとするか、ということに関して、人々を教え諭してきたはずだからですね。
 今日の福音書のテクストである、マルコ福音書の4章26節以下。この箇所には、「神の国」に関するたとえ話が二つ書かれていましたけれども、この二つのたとえ話、どんな内容の話なのかを一言で言えば、こうなります。「植物が育つ不思議」。

どうして植物は育つのか?

 麦の話(26節以下)にしても、からし種の話(30節以下)にしても、これらはどちらも「たとえ話」として書かれているものなので、やはりこの裏には何か(普通の人には分からない)深い意味があるのかな?と勘ぐってしまうものではないかと思います。何と言っても、あのイエスの語られたたとえ話ですからね。

植物が育つ不思議を見てごらんよ

 でも、それにしてはこの二つのたとえ話……、あまりにもシンプルすぎるのです。「植物というものは、種が蒔かれて、土から芽を出して、大きくなっていき、枝葉を広げ、花を咲かせたり、実を実らせたりする。大きい木には、鳥が巣を作ったりする。」……この程度のことしか書かれていないのですよね。
 ただ、それだけのこと。当たり前のこと。誰でも知っているようなこと。そんなシンプルなことを、イエスは人々に向かって「神の国のたとえ話」として語ったということなのです。これは僕は、物凄いことなんじゃないかと思います。イエスは他にも、いろんなたとえ話を語ったと伝えられているわけですけれども、実は、他のどんなたとえ話よりも、この二つのたとえ話は“凄い”と思うのですね。
 「当たり前」と言いましたけれども、その「当たり前」に目を向けさせる――ということが、当時、イエスの周りにいた人々には必要だったようです。イエスの教えを聞きに来ていた人たちというのはきっと、皆、イエスから「なにか新しいもの」を得られるはずだと期待していただろうと思います。そうじゃないと、わざわざ貴重な時間を割いて、いろんなことを犠牲にして、イエスのところになんか来ないですよね。
 でも、イエスがこの時、人々に伝えたかったのは、これまで誰も考えなかったような新しい教えとか、誰も知らないこととか、そういうものではなかった。「この世界の、植物の営みを見てごらんよ」という、ただそれだけのことだったのですね。この世界に溢れすぎていて、むしろ誰も気に留めなくなっている、「自然の営み」という“奇跡”。「小さな種が、大きくなって実を結ぶ。」……そんな“当たり前”の“奇跡”を見ずして、「この世界は無価値」だとか、「救いは無い」だとか、「この地上で生きるより天国に行くほうが良い」だとか、そんなこと簡単に言うなよ――。天国はたしかに良いところかもしれないけど、この世界も実は、普段は気がつかないだけで、神の奇跡に満ちあふれているんだよ――。そのようなイエスの声が、この箇所からは聞こえてくるような気がするのですね。

おわりに

 何度も言いますように、この世界の対岸(?)にある「あの世」、死後の世界に対する“希望”というのは、キリスト教を含むあらゆる宗教が、「最終的かつ究極的な救い」として説いているものです。最後の最後、最後の向こう側で、神が助けてくださる(手を差し伸べてくださる)という希望があるからこそ、我々はこの世での人生を力強く歩んでいけるのであろうと思います。
 ただ、それだけではもったいないんじゃないか、と今日のイエスのたとえ話は告げてくれています。「植物が育つ不思議」。そういう自然の営みに見られるように、この世界では、いまこの瞬間にも、無数の“奇跡”が“当たり前”のように起こり続けている……。この話を準備しながら、自分自身、はっとさせられたのですけれども、人間の世界だけにとらわれすぎて、その周りに存在する「神の世界」の豊かさに気づかないというのは、非常に窮屈なことなのかもしれません。「神が創られたこの世界は素晴らしい!」と感動する機会を、これからもっと増やしていきたいなと、純粋に思わされました。
「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」(Ⅱコリ4:18)のと同時に、「見えないものではなく、“見えるもの”に目を注ぐ」――、そのような信仰生活を、皆さんとご一緒に歩んでいければと願っています。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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