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頑張り屋さん in the BIBLE

詩編・特祷・聖書日課

2022年7月17日(日)の詩編・聖書日課
 旧約聖書:創世記18章1~10節b
 詩編:15編
 使徒書:コロサイの信徒への手紙1章21~29節
 福音書:ルカによる福音書10章38~42節
下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 愛知聖ルカ教会の皆さん、おはようございます。柳川 真太朗です。入院と休養のため、先週に引き続き今週も、事前収録した音声と説教原稿をお送りする形で礼拝説教をお届けすることになりました。皆さんのお祈りとご配慮に心から感謝しております。
 皆さん、「熱中症」は大丈夫でしょうか。この説教を作ったのが7月3日。病院の外にちょっと散歩に行ったら汗だくで帰ってくるというような感じでしたので、2週間後の今は、余計に厳しい暑さとなっていることでしょう。しっかり体調管理に努めていただければと思います。8月7日に礼拝説教に行った時、今度は皆さんのほうが入院して誰もいない……なんていうのは寂しいですからね。

1人が3人!?

 さて、旧約聖書のテクストである創世記18章1節以下には、「主」(神)がアブラハムという人物のもとを訪れたという記事が書かれています。1節、「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。」これがこの箇所の主題ですね。続きを読んでみます。「暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。」新しい『聖書協会共同訳』では「昼の暑い頃のこと」と訳されていました。
 この「暑い真昼」(昼の暑い頃)という言葉に言及している大昔のユダヤ教の文書(※1)に、旧約聖書の「マラキ書」3章19節の言葉が引用されていました。「その日が来る/かまどのように燃える日が。」恐ろしいですね(汗)。それくらいの茹だるような暑さを、かつてのユダヤ教の学者は想像したというわけです。そして、そのような猛烈な暑さの中、アブラハムは天幕の入り口に座っていたのです。
 アブラハムがふと目を上げると、そこに「三人の人」(2節)が立っているのが見えました。その正体は「主」(神)だったのですが、不思議なことに、ここには「三人」と書かれているんですね。

アブラハムと三人の人(※2)

 この「三人の人」は、主なる神と「御使い2人」と解釈されてきました。しかし、少なくともこの箇所ではそのような説明は書かれていません。それに、10節に「彼らの一人が言った」と書かれていますが、これはヘブライ語の原文では「彼は言った」なのです。そして、元々「三人」いたはずなのに、その後はいつの間にか「主」お一人だけがそこにいるかのような描写がなされているんですね。
 ここで思い出していただきたいのは、主がアブラハムに現れたのが「暑い真昼」だったということ。どういう理由があったのかは分かりませんが、ジリジリと照りつける太陽の日差しに晒されながら、99歳(17章1節)のアブラハムは天幕の入り口に座っていた。そんな彼の前に現れた客人は、3人だと思ったら1人だった。……アブラハムは「熱中症」だったのでは? 皆さん、何度も言いますけれども、熱中症には十分ご注意ください。1人が3人に見えるようになってからでは遅いですからね。

※1 『創世記ラッバー』48:8(西暦300年~500年頃成立)
※2 https://st-takla.org/Gallery/Bible/Illustrations/Bible-Slides/OT/Genesis/Bible-Slides-genesis-90.html

頑張り屋さん

 この箇所の最後で、主はアブラハムに次のようなことを予告します。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」(10節)そして、その予告通りアブラハムとその妻サラとの間には男の子が生まれます。
 アブラハムには、女奴隷ハガルとの間にイシュマエルという息子がおり、彼はイシュマエルを自身の跡継ぎにしようと考えていました。ところが、90歳のサラが奇跡的に出産を果たすと、アブラハムは、ハガルとイシュマエルを家から追放してしまうのです。しかもパンと水筒以外は何も持たせずに。
 それだけではありません。何と彼は、サラとの間に生まれた息子イサクを“神への献げ物”として殺そうとしてしまうんですね(「イサク奉献」創世記22章1~14節)。このように、ちょっと常識では考えられないようなことを、アブラハムは次々に行なってしまうのです。
 アブラハムという人物は、色々と“課題”を抱えて生きていたのかなと思えてなりません。僕自身、精神科の病院で入院生活を過ごしてきたこともあって、他人事ではないというか、凄くリアリティを持ってアブラハムのお話を読んでしまいます。
 彼はとにかく一所懸命に生きていたのでしょう。何事にも真っ直ぐな人だった。けれども、それ故に自分を見失ってしまうこともあった。「信仰の父」と称賛されるアブラハムですが、一方では「う~ん、どうなんだろう……」と考えさせられるような、理解しがたい行動をとることもしばしばあったわけです。

ワーカホリック

 “一生懸命”生きることは、とても素晴らしく、非常に尊いことです。頑張って生きている人たちのことを、周囲の人たちはきちんと理解してあげなければならないと思います。
 ただ、人生には“ゆとり”も必要であると言われます。特に一所懸命に生きている人には、その頑張りに加えて、ゆとり、余裕、遊びがあった方が、なお豊かな人生を歩むことができると思います。
 「ワーカホリック(Workaholic)」という言葉をご存知でしょうか。「仕事」を意味するWork(ワーク)と、Alcoholic(アルコホリック/アルコール依存症)をくっつけた「仕事依存症」という意味の造語。約50年前の『ワーカホリック』という本のタイトルです。

『働き中毒患者の告白 ワーカホリック』

 その本の著者は、ウェイン・オーツ博士(Wayne Oates, 1917 - 1999)。米国の宗教心理学の分野で多大な貢献をした人物で、キリスト教と精神医学をベースとした「牧会カウンセリング」のパイオニア的存在として知られています。

ウェイン・オーツ博士

 この本の中で、オーツ博士は興味深い話を紹介してくれています。福音書記者ヨハネの伝説です。
「ヨハネはかつて、一羽のヤマウズラと遊んでいた。すると、誰かが彼に、『あなたは忙しく働くよりも、休んだり、ヤマウズラと遊んでいることの方が多い』と注意をした。すると、ヨハネは答えた。『あなたは弓を持っているようだが、どうしていつでも使えるように、弓をしっかり張っていないのか。』その人はヨハネに答えた。『ずっとそんなことはするものか。もし、いつでも使えるように弓を張りっぱなしにしていたら、緩んでしまって使い物にならなくなってしまう。』『それでは』と、ヨハネは言った。『私がしていることをおかしいと思わないでくれたまえ。』」(※3) このような話をもとに、オーツ博士は「ゆとり」や「遊び」の重要性を説いています。
 Work(ワーク)と言うと、お金を稼ぐために職場・仕事場に行ってする仕事のことだけを想像してしまいがちです。けれども本来は、賃金が発生しない労働、すなわち、家事、育児、家族の介護など、様々な働きのことをも広く包括する言葉なのです。そして、オーツ博士は、そのような“無給の労働”に従事する人たちもまた「ワーカホリック」になりうるのだと指摘しているんですね。
 身体も心も健康的な人の場合には「働き者」「努力家」「頑張り屋さん」といったような表現も許されるでしょう。でも、それはあくまで本当に心身ともに健康を維持できている人に対してだけ。そもそも、人生の中で「しっかりと仕事をし、しっかりと休息をとる」ということをきちんと学ぶ機会などあったでしょうか。それどころか「一生懸命働くこと」、それだけを社会から要求されてきたのではないか。「しっかり休んで偉いねぇ」などと褒められたことはないでしょう。そんな我々に、先ほどの福音書記者ヨハネの伝説が、いみじくも我々人間の本来のあり方を(皮肉を交えて)教えてくれています。「弓は普段からピンと張っているものではなく、使うときだけ張るものだ」と。

※3 ウェイン・オーツ,『働き中毒患者の告白 ワーカホリック』(1972年,日本生産性本部)。翻訳が不正確な部分があったため原語から訳し直した。

キリストの苦しみの欠けたところ?

 使徒書の箇所であるコロサイ書1章。その24節には次のような言葉が記されています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」
 前半の言葉も危ういなぁと思ってしまいますが、問題は後半です。後半の部分は、ギリシア語の原文では「キリストの苦難の足りない分を、自分の肉において補充している」となっています。キリストの苦難の足りない分……? 何の罪もないのに罪人として逮捕され、鞭打たれ、仲間から見捨てられ、人々から嘲りを受け、十字架刑で殺されたイエス。そんなイエスの死を、キリスト教会では、我々人間の罪を赦すために神自らが備えてくださった、唯一かつ完全な犠牲として理解してきました。けれどもコロサイ書の著者は、キリストの苦しみには「欠けたところ」があったと言うのです。そして、そのキリストの苦難の足りない分を、自分が苦しみを負うことで補っているんだ!と主張しているんですね。こんな教え、僕は教会の中で聞いたことがありません。めちゃくちゃ危ない思想だと思うんですよね。
 このコロサイ書の著者が、いま僕の目の前にいたとしたら、一言、こんな風にアドバイスすると思います。「苦しみを受けるんじゃなくて、カウンセリングを受けてみませんか?」

頑張り屋さん in the BIBLE

 ルカ福音書10章38~42節。僕はこの箇所を題材として描かれた作品の中で、このフェルメールの作品が一番好きです。マリアが、“お行儀よく”背筋をピンと伸ばしてイエスの話を聞いているのではなく、頬杖をつきながら“だらしない”格好をしているのが最高です(「宗教の話なんてのはこうやって聞くもんだ!」っていうお手本のような姿勢じゃないですか。)

ヨハネス・フェルメール『マルタとマリアの家のキリスト』1654年~1655年頃

 さて、イエスはこの時、マルタとマリアの住んでいる家を訪れました。彼女たちがイエスのことを知っていたかどうかは分かりません。イエスがどうしてこの村にやってきたのかも一切説明されていません。とにかく、その村に来た旅人であるイエスを、マルタが自分の家へと招き入れたわけです。
 イエスをもてなすため、せかせかと働くマルタ。一方のマリアは、イエスの足元に座って話を聞いているだけ。するとマルタが突然、全然動こうとしないマリアに激怒します。しかも、あろうことか、その怒りを客人であるイエスにぶつけてしまうのです。「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(40節)
 この場面を読んで、皆さんはどう思われるでしょうか。マリアはきっと普段から、こういう雰囲気の人だったのではないか。彼女は「自分がやらねばならない」という大きな責任感をいつも持っていた人だったのだろうと想像します。全然動こうとしない(あるいは動けなかった?)マリアの分まで、マルタは日頃から働いていた。彼女は「頑張り屋さん」だったのです。この時イエスに対して彼女が放った一言は、「見てください!私はいつもこれだけ頑張っているんです!」という心の叫びだったのかもしれない。この時のマルタのことを、僕は責める気にはなれないんですね。何なら、イエスのほうが、家に入って早々に、「どうぞお構いなく」と言って、おもてなしを断ったら良かったんじゃないかとすら思います。しばらくしてから批判するのは良くない。男性としての悪い部分が出ちゃったんじゃないですか、イエス様?と思ってしまいます。これは自戒を込めて言っているわけですが。

おわりに

 「頑張り屋さん」は、人一倍頑張っている。一生懸命生きている。でも時に、ブレーキが効かなくなってしまう。マルタという女性にしても、コロサイ書の著者にしても、創世記のアブラハムにしても。もしも、彼ら彼女らに“聞き上手”な仲間がいたら……。ちゃんとその人たちのことを理解してくれる家族や友人、そして心のプロフェッショナルがいたならば……。聖書の物語は、ちょっと違う内容になっていたかもしれません。
 聖書の内容は変えられない。でも、いまこの時代において、各々の人生の中でそれぞれの物語を紡いでいっている“頑張り屋さん”たちの、これから先の“一頁(ページ)”は、きっと変えられるはず。その人たちの選択とともに、周囲の人々の支えによって必ずや、今よりももっと幸せな未来が拓けていけるはず。そんなコトを、自分自身、精神科の病院で入院生活を過ごしながら説教を作りつつ、想像してみたのでありました。それでは、また来月。

説教音声データ

こちらからダウンロード(.mp3)できます。

日本聖公会・愛知聖ルカ教会

礼拝:毎週日曜日 午前10時30分〜正午
(実際に礼拝の中でお話を聴きたいと思われる方はぜひ上記時間に教会へ足をお運びください。お話の内容は社会情勢などに合わせて急遽変更する場合があります。)

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