見出し画像

書きたいことを書きなぐるnote~阿部雅世さん講演会編~

先日、世田谷美術館にて行われたデザイナーの阿部雅世さんによる講演会「ムナーリの言葉から考えるデザイン教育」を聴きに行ってきました!

Twitterで感想なんかをつぶやこうと思いましたが、いろいろ言いたい(というか話したい)ことがあり長くなりそうで、他にほどよい場がないのでこのアカウントでなぐり書こうかと思いますw

――阿部さんのワークショップめっちゃ参加したい。

……というのが一番の感想ですw

阿部さんは主に海外拠点でご活躍されているデザイナーさんで、「デザイン教育」にも力を入れておられます。

「デザイン教育」の一環として、ワークショップも国内外問わず開かれています。
今回の講演会で紹介されたワークショップの内容からすると、「デザイン教育」の中では「観察力」や「発見力」みたいなものを磨くことを重視されているようです。
ワークショップの対象は、幼稚園くらいのお子さんからオッサンまで(くしくも韻をふんだ)様々です。

で、この「観察力」や「発見力」を磨くワークショップが超おもしろそうなのです。
自然の中からアルファベットや数字に見えるものを探したり(それは偶然おこった配置だったりする)、集めた葉っぱで顔をつくったり(Forchileの社長がクリエイティブ!)、工業製品(いろんなアイデアが詰まったデザインになっている)をつぶさに観察してできるだけ詳細にスケッチしたりします。

参加されているお子さんなんかホント楽しそうで、これ自分がちっさいときに参加したかったなぁと思いましたw

見たものをスケッチするワークショップでは、「どんな特徴も見逃さず、きちんと表現してある絵」というのが"いい絵"とおっしゃいます。

表現されるべき"特徴"たちは、

"ただそこに居て、発見されるのを待っている"

とおっしゃっていたのが印象に残っています。

この表現は、科学の立場に近しいものを感じます。

たとえば科学的な原理だとか数式なんかはたいてい、「発明」ではなく「発見」と言われます。
言っている人がそこまで考えているかはわかりませんが、これって、「その原理や数式はずっと自然界に存在しているんだけど、いま、ようやく見つけ出せた」という考えなのかなと思っています。
この考えって、「自分がこの数式をつくった」という傲慢なものではなく、自然への敬意というか、「自分たちよりはるかに賢い自然の一部をようやく理解できた」というような科学者の姿勢の謙虚さみたいなものを感じます。

――「デザイン」って何だろうか?

阿部さん曰く、

"見たとおり、見たものを、どれだけ伝えられるか"

というのが「デザイン」なのだそうです。

個人的には「デザイン」というのはちょっと敷居が高く感じていましたが、「"観察"して"伝える"」ことが「デザイン」となるという考え方だと、これまでよりとっつきやすく感じます。

「万能の天才」と呼ばれるレオナルド・ダ・ヴィンチは、個人的にはあくまで"画家"であると思っているのですが、まさに類まれな観察力を持っていたという印象です。
そうして「観察」したものを、さらに"絵で"「伝える力」にも長けていたわけで、この阿部さんの話を聴いてレオナルド・ダ・ヴィンチを想起しましたw

――「Google検索では周辺視野がない。」

阿部さんは、この講演期間に世田谷美術館で開催されている企画展「ブルーノ・ムナーリ ― 役に立たない機械をつくった男」で特集されているブルーノ・ムナーリの著書をいくつか翻訳されています。

デザイン界隈にくわしくないので定かではないのですが、ブルーノ・ムナーリは「デザインの神様」と呼ばれているそうです。

講演会の前後に企画展も観てきたのですが、「子どもの心を持ちつづけ」ていたムナーリの一端がうかがえるような内容でした。
最終的に意味を持たされているのでしょうが、「これ途中までふざけてやってんじゃね?」ってのがいっぱいあって、ムナーリと話してみたくなりましたw

阿部さんが翻訳されているムナーリの本で「正方形」、「円形」、「三角形」(リンク先はAmazonだけどアフィリンクではないですw)というのがありますが、それぞれ「正方形」、「円形」、「三角形」をテーマにして雑多な知識がアルファベット順にあつめられています。

冒頭でご紹介したワークショップもそうですが、よく「みる」ことをしないと、自然の中にあるアルファベットだったり、そのものが持つ(阿部さんのことばを使うと)「かわいいところ」というのは見つかりません。

普段わたしたちが「見て」いるものは、物理的な視野は200°くらいありますが、認識としては実際に集中している非常にせまい領域に含まれるものだけだったりします。
あまり認識できていない周辺視野に、実は重要なものがたくさん含まれているかも知れません。
周辺視野にまで認識を広げることで、「発見」できる確率が上がるわけです。

宮本武蔵の「五輪の書」(リンク先は(ry)で「観見(かんけん)」の目付という考えが出てきます。

おしなべて言うと「全体をみよ」という内容ですが、視野を広くもつことによって、ちょっとした動きから相手のうごきを察知するための重要な情報を得られるという話です(たぶん)。

ちなみに個人的な解釈ですが、宮本武蔵はこの「全体をみる」という「観」の目付は、遠くに焦点をおきなさいと五輪の書で言っているのではと考えています。
実際、焦点を遠くにおくことで、遠くにある焦点までに含まれる周辺視野が結構認識できたりします。
実はこの考えって、抽象化された意味での「視野」にも使えるんじゃないかと思ってみたり。

Google先生にたずねると、最近はディープラーニングによってどんどんAIが賢くなっていることもあり、関連性のつよい情報がうまいこと抽出されます。
だけど、この状況を阿部さんは「周辺視野がない」と指摘されていました。

本筋の目的とは違うので仕方ないとは思いますが、たしかに入ってくる情報が"偏る"という意味ではあまり健全ではないかも知れません。

――「でも、きっと見せられる。」

これはもはや余談ですが、今回の講演は機器のトラブルですこし開始が遅れました。

で、講演の途中でもちょっとしてトラブルがあったのですが、その中でおっしゃった阿部さんの言葉が印象に残っています。

講演の途中で、ワークショップの動画をみせてくださろうとした阿部さんが、PCと格闘して苦戦しておられました。
そんな中で、「でも、きっと見せられる。」とおっしゃった言葉に、芯のある声や喋り方もあいまって、すごく信念みたいなものを感じました。

最終的に、参加者のたすけもあって動画をみることができました。

まとめ。

この講演会と企画展から「自分が入りこむ余地があるような、"デザイン"にアプローチする考え方」を得られたかな、と思っています。

自分に対する認識として「観察すること」や細かいことに「気づく」ことは得意な方だと考えているので、
 ①「観察」したことを「伝える」ことが「デザイン」である
 ②「絵」は点や線、幾何学的なオブジェクトの組み合わせで構わない
という、このあたりの考え方から「デザイン」へアプローチすることは自分にとってはとっつきやすくて、"やれる"方向性だと感じたのが収穫でした。

こんな感じでいい講演会でした。
機会があれば、ワークショップにもどっかで参加したいところです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?