見出し画像

何かを、好きになるということ(後編) | 枕草子からブルーピリオドまでの千年

前回の投稿の続きです。

好き。エモい。良き。美しい。あはれ。をかし。よろし。
古い時代から、自分の中にある「なんかいい感じ」の感情を捕まえる言葉はいくつも使われてきた。『枕草子』は象徴的だ。

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし。
・・・

千年以上前から、「春って明け方がいいよね〜」「夏って暗い夜も月の夜もエモいよね〜。ホタルなんか最高だよね〜」と言葉にした人がいたことには改めて驚きだ。人間は変わっていない。

ただ、この文章に初めて触れた中学生の僕は、正直なところ「だから何?」って思ってた。「春はあけぼのなのはわかったけど、それ言って何になんの?」って思ってた。クソ生意気なガキ感がすごい。(今もそうかもしれない)

でも、今なら少しは清少納言の気持ちがわかる気がする。それをわざわざ言葉にしたいと思った理由も少しは想像できる。「一回性の体験」と「好きの感性」の関係が、ここには込められているような気がする。そんな話をする。

確かだけど、当時授業で教わった「春はあけぼの」の現代語訳は、

春はあけぼの(が良い

だったと記憶している。
でも今になって考えてみると、これは違うのではないかと僕は思う。正確ではないというか、この文章を書いた清少納言の気持ちに寄り添っていないのではないかと想像する。

彼女が本当に書きたかったことは、

春はあけぼの(が好き

だったのではないか。学術的な正しさは全く担保してないけど。本当に単なる想像だけど。少なくとも僕は、こちらの方がしっくりくる。客観的な「良さ」の説明ではなく、主観的な「好き」の表明だったのではないだろうか

(ちなみに、清少納言は、「清少/納言」ではなくて、「清/少納言」だ。だから親しみを込めるなら「清さん」と呼ぶのが正しい。たぶん。ここでは当時との地続き感をどうにか感じたくて、つい一千年くらい前に知り合ったお友達、くらいのつもりで「清さん」と呼んでみる。突然馴れ馴れしく呼んでごめん。)

当時、清さんがこの文章を綴るに至った過程を想像してみる。

春のある朝、まだ暗い時間。何か考え事をしながらぼーっと外を見ている一人の女性がいる。眠れない理由があったのだろう。ふと空を見上げると、真っ暗な空に、うっすらと浮かび上がる仄かで白い一筋が目に入る。それは、白くなりつつある山の稜線だと気づく。その上には、細長く伸びる紫色の雲がぼんやりと浮かんでいる。
その女性は、その風景をじっと見つめて感じ入っている。ちょっぴり涙を流したりもしているのかもしれない。自分がその風景に心動かされていることを味わっているようにも見える。
なぜ心が動いたのかはわからない。長い夜があけ少しずつ明け方がくるさまに、寒い冬を越えて暖かくて明るい春の訪れを予感したのかもしれない。あるいは、春特有の「紫だちたる雲の細き」を見てその儚さに春の淡さを感じたのかもしれない。理由はわからない。
でもきっと清さんは、その時、その瞬間、その風景が好きになったのだ。ある時期の明け方になると現れる「やうやう白くなりゆく山際」と「細くたなびきたる紫だちたる雲」の風景を眺めて、ああ今年も春が来るのだなと、感じる時間を好きになったのだ。その体験を通じて、思わず心(emo)が動かされたのだ。

・・・云々。

ごちゃごちゃと書いてしまったが、言いたいのは、「春はあけぼの、好きだなあ」の言葉の前に、最初に心が動く体験があったはずだということ。そしてそこから、「わたしはこれが好きなんや」を言葉にすることで、「好きを感じている自分」を実感したはずだということ。身体を通じた「一回性の体験」を、「春はあけぼの」という「言葉」を通じてもう一度味わっていたはずだということ。そう言葉にして初めて、「春はあけぼのが好き」な自分を発見したはずだということ。

書いてみれば本当に当たり前のことだが、ここまで考えて初めて、一千年前の世界・人間が地続きであることを僕は実感する。そして思う。これ、僕と一緒じゃん。

平安の清少納言も、令和の僕らも、「好き」を表現することで自分の輪郭を作っているのだ。

画像3

「好き」を言葉にしたところで、他人から「えっどこがいいの?(全然わかんない)」と否定されることもあるだろう。それはとても恐ろしく不安なことだ。自分の精神的な土台が揺らがせるから。

だが、共感しない人がいるのは当然だ。自分の感性に関しては、周りがなんて言おうと、客観的に正しかろうと間違っていようと、そんなことは関係ない。何よりもまず、自分の主観的な感性を肯定すること。無視することなく、押し殺すことなく、誠実に向き合うこと。そしてそれを出来る限り言葉や表現にすること。十年以上それを忘れていた僕は、改めてそれを強く思う。

その結果、りんごが緑に見えようが、空が黒く見えようが、水たまりが海に見えようが。客観的にはそれどうなの?と思われそうなことを感じたとしても、それは真実なのだ。間違っているだなんて誰にも言わせない。なぜならそれらは、全て自分の主観的な感性だから。
(もちろん、環境認識や課題解決においてはそうも言っていられない。「事実は何で、どう解釈するのか」「正しく理解するにはどうすればいいのか」という論理的で客観的な理性を育まなければ、人はフェイクに翻弄されてしまう。しかしこれは、自分の主観で「好き」を感じる感性の話だ。)

そしてそんな主観的な感性は、ある時に思いがけず、他人に大事なものをハッと気づかせることもある。

感性の師匠として一方的に師事させていただいている鈴木康広先生のTweetたち。

自分の感性なのだから、自分の好きにすればいいのだ。それに出会えることは、人生の中でそうそう頻繁にあることではないのだから。

そしてもっとも稀有なのは、その「好き」の感覚を他者と共有できた瞬間だ。広い世界・長い人生の中で、あの瞬間・あの対象に「好き」の重み付けをしたのは僕だけではなかったのだという感覚。そしてその感性を、表層ではなく深いところで、どうやら僕らは共有できたらしい、と直観し合えるその確信。その根拠なき確信は、世界からの祝福だと僕は思う。

「ブルーピリオド」という漫画で、主人公の八虎がオール明けの「青い渋谷」を絵に描くシーンがある。周りの目を気にしながらも、森先輩に励まされながら。勇気を出して、キャンバスの渋谷を青に染める。

その絵を見た友達はこう小さく呟く。

「もしかしてこれ早朝の渋谷か?」
「たしかにこんな雰囲気あるわ。八虎にはこんなふーに見えてんだ。」

思いがけず、言葉にならない自分の感性が理解され、八虎は思わず涙を流す。そうして他者と、表現を通して理解しあえた感動をこんなふうに表現する。

その時生まれて初めて・・・

素晴らしくエモーショナルで大好きなシーンだ。

それはほとんど「誤解」と紙一重だという説もある。
目の前にいる人が、私の感性を果たして共有してくれたかどうかを確かめる手段はないからだ。相手はなんとなく相槌を打っているだけかもしれないし、全然わからない中で話を合わせているだけなのかもしれない。本当のところはわからない。

それでも僕らはたまにそれを確信する。本当にごくたまにだけれど。もしかしたら一生に一度くらいかもしれないけど。一生に一度あれば十分なくらい稀有な体験だけど。他者と「好き」を分かり合えた、他者に「好き」が伝わったと直観できる瞬間が訪れる。

そうしてそれが他者と共有できたとき、個人的で主観的な「好き」の感性は少しだけ普遍的なものに昇華する。そうして少しずつ共感が連鎖して普遍になった「好き」のことを、「良さ /Goodness」とか「美しさ /Beauty」とか言うのではないのだろうか。

春はあけがたが良いよね。僕もそう思う。
あれから一千年くらい経つけど。普遍になった「好き」の感性。

「好き」に出会えたとき。自分の「良い感じ」を断片的な言葉や表現にできたとき。あるいは幸運にも「好き」を他者と共有できたとき。ある種の「良さ」や「美しさ」に共感できたとき。

そのとき僕らは、初めて自分の好きの輪郭をなぞることができる。
自分は何が「好き」なのか。何を「良いもの」として位置付けるのか。何に「美しさ」を感じるのか。つまり、自分は「何に価値を感じるのか」。

僕らはそれを「価値観」と呼ぶ。

画像2

もう一歩だけ深掘りする。年始の投稿に書いたことだ。

生きていると、「好き」の価値観が拡張されたり、壊されたり、あるいは新しい価値観と出会ったりすることがある。それはしばしば、身体を通じた新しい体験によって引き起こされる。

・やったことがないことを、やったことのないやり方でやる。
・行ったことがない場所に、行ったことのない行き方で行く。
・考えたことがないことを、考えたことのない考え方で考える。
・見たことがないものを、見たことのない見方で見る。
・経験したことのないものを、新しい仕方で経験する。
・・・・

僕がとても面白いと思うのは、
「やったことがないから、やらない」も成立するし、
「やったことがないから、やる」も成立すること
だ。
これは人間の多様性の根源だ。両者に優劣はない。それでも僕は、できる限り後者でありたいと常に願う。僕にとって新しい体験をすることは、世界を広げて「好き」を深めていくための、おそらく唯一の方法だから

新しい体験をする。→身体が反応する。→「好き」に気づく。→感性が拡張される。→体験を言葉にする。→世界の解像度が高くなる。→価値観がアップデートされる。→そしてまた新たな体験に身を浸す。→・・・

こうして「好き」の感性は、「身体」と「言葉」の行ったり来たりを繰り返しながら、森が少しずつ育つように、僕らの中でゆっくりと磨かれていく。

僕らが生まれてから、あるいは生まれる前から始まっていたその森は、過去・現在・未来の「好き」のすべてが堆積し、植物のように生も死も飲み込みながら、時間をかけて繁茂してゆく。枝葉を伸ばし、根を張り。何にでも興味を持ち、言葉になり、表現になり。自分の好きが深まってゆく。そんな、深くて豊かな、好奇心の森。

画像1

「好奇心」さえ失わなければ。「好き」の感性さえ殺さなければ。
いつまでも生命的な存在でいることができる。

僕はそう信じているし、いつまでもそうありたいと願っている。


※このお話はフィクションです(前編/後編)

#Photo : Fujifilm X100F