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物語の始まり①〜僕はバーテンダーになる
僕はいま代官山のスコティッシュパブの店主であり社長でありミュージシャンという人に説明するのが少々難しい仕事をしています。
僕がなぜお酒のビジネスをするまでに至ったのか?どうしてスコットランドのパブにこだわるのか?といったことを自己紹介を兼ねてお話したいと思います。
京都への憧れ
僕は東京都江戸川区に生まれ育ちました。父は公務員、母は専業主婦で小学校から高校まで公立の学校で過ごしました。ずっと野球部だった僕は高校生のときに半月板を損傷し、目標を失います。その結果、グレて学校に行かなくなったりギターを弾いたり一人旅をするようになったりして月並みな自我崩壊的高校生活を楽しんでいました。
当然のように親と喧嘩をして大学生活を親元離れた京都で過ごすことに決めました。なぜ京都か?の話は多岐に渡り項数も増えてしまうのでここでは割愛しますがとにかく京都に住みたかったのです。
元々の動機が勉学でもなく学費も自分で工面していたので、自由気ままな学生のイデアがごとく在学中はほとんど学校には行かず、彼女と遊んだり、バンドを組んだり、毎日のように寺社仏閣を巡ったりと人生の夏休みが如く、経営学部生らしきことは尽くしていませんでした。
そんな僕が当時唯一真剣に取り組んでいたのがバーテンダーの仕事でした。
始めた理由は簡単でトムクルーズ主演の『カクテル』という映画を観て「これはモテそう!」と思ったのがきっかけでした。
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僕はバーテンダーになる
映画に感化され、学生らしく失恋などといった側から見たらどうでもいい紆余曲折を経て、タウン誌端の方に求人を見つけた木屋町四条の某オーセンティックバーの門を叩き、日給4,000円で12時間労働という時給に換算したくない給料で日々働いていました。
元来、根は真面目なので丸善で毎日お酒の本を読んで勉強し、練習のためにカクテル機材などを自宅でも購入して彼女に酒を振る舞い、京都中のバーに行って訳知り顔でカクテルを注文しました。
「あれはトム・クルーズだからモテていたのか。。。」と気づくには当時の僕はまだ若すぎたのです。
最初は学費の工面と京都一気の短いオーナーに怒られるのが怖くて必死に働いていましたが、半年ほど働いたある春の日の鴨川沿いで唐突に「この仕事は自分に向いている」と感じました。
それは主に「接客」についてでした。
他のバーテンダーが技術を磨くことに執着している一方、僕は同時に接客術や行動心理学を勉強し、大学でも心理学と顧客満足について論文を書いたりしていました。
自分のバーテンダーとしての強みを見つけてからは仕事も楽しくなり、とんとん拍子で出世し技術や知識も向上していき、若者特有の勢いで調子に乗っていきました。
これは後にわかったことですが当時のオーナー、バーの師匠、労働環境が抜群によく純粋無垢な高野豆腐が如く学ばせてもらったおかげで、19歳のときに学んだバーテンダーとしての技術、知識、心構えは以後東京のバーで働く際に遺憾無く発揮され、どこのバーに行ってもチーフバーテンダーとして迎えられることになります。奇跡のような幸運であったと思います。心から感謝しています。
そして21歳、大学3回生のときのことです。周りでは就職活動が始まりほぼ同時にリーマンショックによる不況が訪れた頃でした。
当時読んでいた外山滋比古の『思考の整理学』にこのような内容の文面に出会います。
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「同じように空を飛んでいように見えてもグライダーではなく、エンジンを積んで自分の頭で考え、地力で飛び回れる飛行機のような人間がこれからの時代には必要だ」
この本は1986年の出版ですが2010年当時に読んだときには今の自分に向けて書かれているようで衝撃を受けました。
大学4回生のときには既に大手テレビ局等いくつか内定をいただいていました。100年に一度と言われた大就職氷河期の最中に手にした就職先でしたが、60歳で定年を迎えたときの自分を想像するととても手放しで喜べませんでした。
「手に職を付けなければ」
若き日の湯浅青年はそう考え実行に移したのでした。
当時は東京で組んでいたバンドにメジャーデビューのお誘いもあり「いざ東京へ!」の雰囲気が高まっていた頃でもありました。
バンドの東京遠征での渋谷屋根裏に出演の後、ギター背負ったまま面接を受けた赤坂のバーの採用が決まり、 内定をいただいていた企業さんに辞退の連絡を入れて、見事にバーテンダーでバンドマンという最も彼氏にしてはいけない男として東京進出を決めるのでした。
その後赤坂→青山→代官山→中目黒のバーにて勤務しバーテンダーとしてのキャリアを順調に積んでいきます。一方、ボーカルを務めていたバンドは解散しデビューもお預けとなり暗雲が立ち込めはじめます。
「このままでいいのだろうか?」
そんなとき一枚のアルバムに出会います。『First of a Million Kisses / Fairground Attraction』。
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いま思えばこの1枚のアルバムが人生を変えたと言っても過言ではなかったと言えるでしょう。
バーテンダーはパブに通いはじめ、ロックバンドのボーカリストはスコットランド音楽に心を奪われてゆきます。
後半に続く、、
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