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ストレンジテトラ ♭5.

♭5. 魚心水心     

「ご飯炊く時、お米洗うじゃないですか。その時、熱っつい熱湯で洗うんですよ」

箸で挟んだ卵焼きを宙で静止させ、わたしは続ける。

「我慢できる限界の熱さでお米を研いで、そんで一旦研ぎ汁捨てたら今度は冷水で洗うんです。そしたらなんか手だけ部分的にサウナと水風呂入ってる気分になって気持ちいいんです」

わたしが意気揚々と話しているのに相槌の一つも無かった。
自分から話題を振ってきたのに、真舟編集長は弁当から顔を上げない。

隣を見ると、潮田がわかりやすくドン引きしている。
「先輩見てください。私、ドン引きしてます」
と顔に書いてある。

薄情な人たちだ。

今日の午前中は町のお弁当屋さんの取材だった。
賞味期限が過ぎたお弁当は全て廃棄してしまうそうで、3人分の幕の内をお土産にいただき、昼休憩中の今、食べているところだ。

廃棄するのにも業者を呼ぶのでお金がかかるらしい。
なんとももったいない話だ。

ショーケースに並ぶケーキ屋のスイーツも
規則正しく並んでるコンビニのおにぎりも
値引きされて
余り物は従業員で分けて
それでもダメだったとき。

必要としてくれる人がいないと
彼らは捨てられてしまうのだ。

作った側の人たちは、
どんな気持ちで″不要″の烙印を押すのだろう。
やりきれない思いで哀しくなる。

「しっかし勿体ねぇよな。こんなに美味いのに。世の中どうかしてるぜ。」
海賊のように唐揚げを頬張り、編集長が呟く。

「定額で廃棄のケーキ貰えるサブスク、あったらいいと思いません?」
それとは対照的に毛虫が葉っぱをかじるように、潮田がアジフライをちまちま食べる。

「捨てられるお弁当の未来は、お前にかかってるぞ。サメ子。いい記事書けよ。」
「先輩、頑張ってくださいね。」

編集長と潮田とお弁当から寄せられる無味無臭の期待を背負い、「へいへい」とわたしは無気力に返事をしてコロッケを頬張った。



(2)

「廃棄の多かったものは、仕入れや作る量を調整するから大丈夫。各お店がちゃんと売れ筋の統計を取ってるはずだから、あんたが心配しなくても大丈夫だよ。」

岬ばあの優しい声が、蜘蛛の巣のようにまとわり付いた私の不安を丁寧に解いてくれる。

岬ばあの背中には1匹の子猫。
釣れた小魚を誰にも取られまいと必死に食べてる。
最近この釣り堀に出没するようになった迷い猫。
岬ばあは『ギン』と名前をつけて可愛がっている。
私が手を伸ばすと、岬ばあに隠れるように逃げる。


有給消化の為、昼から半日休暇を取った私は、
仕事帰りに直接釣り堀へと向かった。

先日、ついに自分の釣竿を購入した。
初心者用の真っ赤なルアーロッド。
「お!サメ子ちゃんついに買ったか!」
と私より釣り堀小屋のおじさんの方が嬉しそうだった。

今ではセッティングもお茶の子さいさい。
今日も2人、隣同士に座って釣糸を垂らす。


自分と独りっきりになれる沈黙の時間。
十人十釣。釣りとはそういうものなのだ。
まだ自力で釣れた試しはないけれど
自慢の釣竿で今日も釣り人を気取ってみる。

面白い出来事や不安なことがあると
あの日以来、釣り堀に足を運ぶか
もみじやに遊びに行くようになった。
どちらにせよ、そこには岬ばあがいて
駄菓子とラムネを畳に並べて
隣に座っていつでも私の話を聞いてくれた。

「あのね、岬ばあ。私が今日、自力で何か釣れたら、うちにおいでよ。ご馳走してあげる。すぐ近くなんだよね。私の家」

水面を見つめたまま。
今日は私が先に口を開く。


「そうかい。そんなに甘くないよ。」

同じくして水面を見つめたまま
ありがとね、と最後に付け足して
隣で岬ばあが笑った。
子猫のギンが大きくあくびをした。

夕陽に照らされる寂しそうな赤い釣竿。
あっという間に時刻は夕方4時。
今日も記念日にはならなかった。

人生は飴玉だ。
でも、そんなに甘くないらしい。
年の功とは説得力そのものだ。

岬ばあと別れ、いつものように
海岸沿いのテトラポットに立ち寄る。
潮の香りが濃い。
夏が始まるよ、と
海が教えてくれているようだ。



『ん。』と間抜けな声を出して立ち止まる。
私がいつも座っている特等席に人影が見えた。
いきなり近づくと驚くだろうし、海に落ちたら大変なので、ゆっくりと様子を伺う。

小さな高校生くらいの女の子が一人。
猫背を丸め、夕陽を一点に見つめている。

あれだけ慎重に近づいたのに、
『あの、何してるの?』
と普通に大きめの声を出してしまった。
女の子は驚いた様子で私を見るなり
意味もなく立ち上がる。

すいません、と互いに狼狽え、謝り合った。

「えっと、私もね、ここ、好き」

凍りついた場の空気を溶かそうとするには、
ぬるま湯のような不器用な台詞。
我ながら、とても記者とは思えないコミュニケーション能力の低さだ。
今は仕方ない。

彼女と目が合う。
まぶたと頬が赤く染まってることに気づく。

夕焼けのせいじゃない。
この子、泣いてたんだ。

彼女は、恥ずかしそうに目を擦って涙を隠す。
平常を保とうと、笑ったり瞬きをしたり
コロコロと表情を変えてみせたが、
徐々に困ったような表情に戻ってしまった。

次第にぽろぽろと涙を流し
声を震わせ元気よく静かに泣き出した。


(3)

″犬のおまわりさん″という童謡があるが
まさか自分がその局面に立つ日がくるとは思わなかった。(しかも犬サイド)

しゃがみ込んで咽び泣く知らない少女。
客観的には私が泣かしたように見えるのかな。
ただ今は海の音を聞きながら、オロオロと背中をさすってあげることしか出来なかった。

少女は名前を 野月秋埜(のづきあきの)
と名乗った。
話を聞くところによると、現在高校3年生。

「てっきり入水自殺かと思った。もう」 
精一杯、冗談めかして言ったつもりだったが、彼女は笑わず、私の名刺を見つめている。


6月の生ぬるい夕風。

「やりたいことが、なんなのか、わからないんです。私。」

何かあったの?と私が尋ねる前に
嗚咽混じりに野月さんの口から零れ落ちた。
純度100%の憂いの声色。

「やりたいこと…って?」

「今日、進路指導の先生に言われたんです。今月中に将来就きたい職業を考えて来い、未来のビジョンを固めてこい、って。でも私、何になりたいか、自分でも全然わかんないんです。」

台詞の後半はほとんど泣いていた。

未来のビジョンを固めてこい、か。
確かにちょっと無責任だと思う。


"社会"という名のこれから辿る運命の入り口。
勤め、稼ぎ、生きていく為の自分の居場所を
年端もない遊び盛りの少年少女に
数日で委ねるのはよく考えたらキツい。

急に『はい!今すぐ大人になれ!今!早く!』
と押し付けるみたい。
大人は無責任極まりない。

「あのさ、野月さんは好きなこととか、行きたい大学とか、無い?」

慣れない聞き手側に私は精を出す。
無垢な子供の様な、他人事のように聞いてくる親戚の様な、残酷とも言えよう私の言葉。

「…私、自分が好きなこととか夢中になれることが全然無くて…。友達に合わせたり、流れに任せて決めることばっかりだったな、って思って。
今の高校も、バレー部のマネージャーとかも…。
このままだと、また周りに合わせて大学に行って、
4年間惰性で過ごしちゃいそうな気がして。。
就活も手当たり次第に面接を受けて、採用貰った会社に就職するんだろうなぁ、とか思ったら怖くなってきちゃって…。」

私に一抹の警戒心も持たず
野月さんは率先して話を続ける。
笑い話にでもするような精一杯の口調だが、ちゃんと不安と悲しみは伝わってくる。
誰でもいいから自分の立つこの不条理と焦りを
理解してほしいのだろう。
思ったことがそのまま口に出るタイプの子だ。
誰かに似ている。


【好きなことを探さないと】
先日まで私も焦っていた。
趣味が無いことは命に関わる、とまで明言した。
趣味や特技で日々が充実している人は素敵だから。
自分の進みたい方向が、明確だから。

訳あって、私はあんまり学校に行けなかった。
午前中だけ授業を受けて、午後にはこっそり早退するか、病院に併設された学童のような養護施設に通っていた。
友達も全然いなかった。
好きなことも夢中になれることも、無かったな。
そうだったよね。

学校のみんなは素敵だった。羨ましかったな。
きっと今頃、好きなことを仕事にしてるのかな。

野月さんの座ってる私の特等席のテトラポッド。
そこにまるで自分が座っているような気がした。
大人になった私が、昔の自分を見ているような。

夢の中みたいな変な感じ。

そうなんだ。いつも変な感じなんだ。今も。私も。

「あの…、自分のやりたいこととか、将来とか、不明確な状態で就活なんかしちゃダメだよ
だから、さ。野月さんが今、こうやって悩んでるのは、なんか、正しいよ」

説教っぽくならないように慎重に言葉を選ぶが上手く伝えられない。
やっぱり根本的に年下は苦手なんだろう。

何を言っても、気休めにしかならない。
どんな言葉も救援物資にならない。
記者のくせに。言葉が相手に届かない。
非力だなぁ。私。悲しくなる。

『そんなに甘くないよ』
駄菓子屋のおばあちゃんの声が暗い海に溶けた。
いつも私の味方でいてくれる海も
今に限って凪。知らん顔だ。

私にしてあげられることはなんだろう。
漢字帳に書き込まれた、幾多の取材のメモ。
毎日たくさんの仕事を見てきて、
それを記事にしてきたくせに。
何のための、誰のための仕事なんだよ。

背中を押してやることも
手を引いてあげることも
助けてあげたいのに何にもできやしない。


自分の不甲斐なさに
そのまま海に飛び込んでしまいたくなる。
私の方こそ、助けてほしい。

あなたの目の前にいる【大人】だって
熱湯で米を洗うことと
釣れない釣り糸を垂らすことくらいしか
今 夢中になってること、ないんだから。


夜がゆっくりと降りてくる。


どれくらい時間が経っただろう。
2人でしばらく、黙って海の黒を見つめていた。
星空をピカピカ光りながら飛行機が滑る。
波の音がよく聞こえた。

しばらくして、野月さんが立ち上がった。

「すいません。色々変なこと喋ってしまって」

お辞儀をした向こうに、満月が見えた。
いつか見たことがあるような
泣き疲れた、覇気のない少女の微笑みが
私の瞳に映る。

足元を野良猫が通り過ぎる。

残念でした。
あなたは何にもしてあげられませんでした。

胸の真ん中。みぞおちの辺りを
今度は風が、通り抜けた。
 



(4)

深海と宇宙はきっと似ている。
湯船に浸かってそんなことを考えた。

真っ暗闇で身体がぷかぷか浮いて
大きな力でぺしゃんこに潰されて
黒色に飲み込まれ溶けてゆく。

不細工な深海魚や宇宙人が
それを指を差して朗らかに嘲笑うのだろう。

さっきの少女の顔を思い出す。
自分の好きなことがわからない
どうしていいのか分からない
困惑と諦観が混ざった深い黒。
星の見えない夜の色。


「優しい人になってね」
「困っている人を助けてあげてね」
お父さんがわたしにいつも言っていた言葉。
日々そう有りたいと努めてはいるつもりだった。

でも。暗闇に溺れ、助けを求めるあの子に
なにもしてあげられなかった。
流れる涙を眺めていることしかできなかった。
さっき知り合った、赤の他人ではあるけど
優しい言葉をかけてあげたかったな。

お父さん、ごめんなさい。


ヒトは考える生き物だ。
考えて考えて、考え抜いた挙句、
未来をごちゃごちゃに散らかして
片付けが上手くできないのもまた然り。

未完成のくせに
一丁前に完璧を目指したがるんだ。
そういうの、良くない。
24歳の、わたしの持論だ。


今日はもう寝よう。
 
寝ているだけで朝がくるなんて
なんともありがたい話じゃないか。
風呂から上がり、髪を適当に乾かして
ベッドに横になる。
目を瞑ると、さっきの夜の海がまぶたに映る。


「みんなに会いたい」

声に出たのかどうかも不明確。
確かにそう、私は強く想った。
みんなに会いたい。
月明かりだけの薄暗い部屋で
ふと、4人のグループチャットの画面を開く。

トーク履歴を見ると、
<< なんじゃそりゃ。
という私の中途半端なツッコミで会話は
一旦終了し、9年間、時が止まっている。

ええい。思い立ったが凶日。私の負けだ
頭に浮かんだ懐かしい言葉を指がなぞる。

【送信】を押すと、即座に3人の既読が付いてその速さが可笑くて嬉しかった。
疲れ切った心と身体が、じんわりと色を取り戻す。

鮫川 『ストレンジテトラ、集合要請です』

                               ---------(既読3)--------


illustration by @kzwillust

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