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人としての歩み

先日のプロフィール投稿に続き、
人、教員、野球人としての自分について
それぞれ詳しく振り返ってみたいと思います。

長崎での18年間

長崎の夜景の名所の一つである稲佐山の麓で
4人姉兄の末っ子として生まれます。
上の兄とは歳が離れていたこともあり、
可愛がられていた記憶が。

幼稚園、小中高校と歩いて通いました。
幼稚園の運動会で、「はとぽっぽ体操」を皆の前で
踊ったのを皮切りに、
その後も、応援団長、生徒会長、体育祭実行委員長など
人の前に立つことが多かったです。
でも、ソフトボール・野球のチームでは、
なぜか小中高と副キャプテン。不思議だ。

中学校に見た「協奏曲」というドラマをきっかけに、
将来の目標は「とりあえず」建築士になり、
以降、理系の道へと進みます。

高校時代は国立大学以外の選択肢はほぼなく、
そこを目指すために勉強していた(やらされていた?)日々。
朝補習、数学の課題「自律」、勉強合宿など懐かしい思い出です。

熊本での6年間

センター試験でのE判定を覆し、熊本大学工学部に合格しました。
ただ、希望していた建築コースではなく、土木コース。
だからと言って、不満があったわけではありませんが、
この頃、何を学んだか、ほとんど記憶がありません。
ホント勿体ない。

3年になると、バイトには行くけど、
大学にはほとんど足が向かなくなりました。
今後のことを考えたとき、
教員の道を志したいと思い、転学部を決意。
転学試験を受け、大学4年目から教育学部の2年生に転学しました。
その後、無事に教育学部を卒業。
6年間大学に通うことになったものの、
余計に加わった2年間も両親の支えを受けました。
当時の自分は、なんと甘い考えを持っていたんだろうと
恥ずかしくなるとともに、両親には感謝です。ありがとう。

長崎に帰ってきた3年間

卒業後は長崎に帰り、非常勤講師としての勤め。
しかし、1校での稼ぎはコンビニのバイトをした方が稼げるのでは?
という程度。
加えて、当時の長崎県の非常勤講師は、授業をしないと給与をもらえず。
長期休みなどは、ほぼ収入ナシ。
1校しか勤務していなかった1年目は、ほんとに収入がなかった。

それなのに、採用試験の勉強や野球部の指導をして、
非常勤以外での勤めはせず。
またも両親に迷惑をかける。改めて恥ずかしい。

非常勤講師3年目。
高校から付き合っていた彼女に、
「将来のこと、教員になることを真剣に考えているのか?」
と問われる。
これがなければ、神奈川への受験も決意しなかったかもしれない。
神奈川への採用が決まってから、
その彼女と結婚し、二人で長崎を離れました。

神奈川での日々

神奈川で生活をはじめ、
3年目に長女、6年目に次女が生まれ、妻一人娘二人との生活です。

妻は結婚・出産後も仕事を続けており、
家のこと、子どものことも、二人で協力しているつもりです。
それぞれの実家が遠く、苦労を感じることはありましたが、
子どもたちも健やかに成長してくれたため、
ここ1年はだいぶ余裕が出てきました。

振り返ってみて

こんなに自分の人生を振り返ったことはなく、
とても新鮮です。
そんな中で感じたこと。

人に偉そうなことは言えない
今思うと、甘いし、恥ずかしいし、何も考えてない人生を送っていたか。
生徒に偉そうなことを言えるような人生は、何も送っていない。

家族があるから今がある
両親、兄姉、妻。
この人たちがいなかったら、自分の今はない。
これからも沢山の恩返しをしていこう。

これからの人生を考えていくうえで、良い振り返りとなった気がします。
ここまで読んでくださり、お付き合いいただいた方、ありがとうございました。

次回は、教員としての自分を振り返りたいと思います。

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