行動力について考えてみた話
「◯◯さんって行動力ありますよね。東京出てきたり、海外行ったりで。」
シェアハウス住まいの僕の、ルームメイトである大学生くんがそう言った。
ちなみに「◯◯さん」とは僕のことを指しているわけではない。
数ヶ月前ノマドニアとかいうWeb系スクールに入学を決め海外に飛び立った他のハウスメイトを指してのことだ。
そしてそんな彼からしたら、思い立って東京に出てきたり、海外行ったりしていた僕も、同じく行動力がある方に見えているらしい。
しかし自分ではあまりそうは思えないのだ。
行動力ってそもそもなんだ?
それがなぜかと言えば、僕は"日常生活"でそこまでの行動を起こしているとは思えないからだ。
いや、少なからず起こしているのかもしれないが、もっと行動的な人を知っているとおのずとそう思えなくなる。
例えば毎日毎日予定がパンパンで、しかも日々勝手が違う仕事をしている人がいる。
自らの事業のため毎週のように地方に赴いてはその地域の人と交流したり商談をしている人がいる。
そんな人を知っていると自分に行動力があるとは到底思えなくなるのだ。
(ここで重要なのは他人と比べたらだめだよという文言をいったん忘れること。そういう話じゃない。)
では、自分が自分をどう認識しているのかと言えば、移動が多いやつ。
その程度でしかない。
環境を変えられる=行動力があるのか?
そんな疑念がよぎったので、自分にはそこまで行動力があるとは思えない、ただ海外に行ったことがあって、ある日東京に出てきただけのやつだろう。
そう彼に言った。
しかし彼はそれに対し、
「環境を変えられるってすごくないですか?簡単に変えられるものじゃないですよ、環境って。それも住んだこともない知らない土地にある日突然行くんだから、それって行動力があると言えると思うんですよね。」
そう答えた。
確かにそれはあると思う。
行動力がまったくないわけではないのかもしれない。
しかし実感として、海外に出る、東京に出る、その1アクション、2アクションを実行した程度にしかすぎず、日常的に行動を起こしているかと言えばそうは思えないのがやはり正直なところだ。
行動力について疑念を抱いた話
そんな話をしていて思い出したことがある。
以前セブ島留学に行ったとき知り合った4歳上の知人のことだ。
彼とは同じ部屋で数ヶ月生活を共にし、帰国後もお互いなんとなくSNSでリアクションし合うほどの関係を維持していた。
Instagramで彼がカナダへワーキングホリデーに行ったのを知り、そしてその一年後に帰ってきたのを知って、ちょうど入れ替わるようにしてワーキングホリデーに行くことを決めた僕は彼に会ってみることにした。
(と言っても会ったのはフライト前夜だったので、準備の参考などのためではなく、せっかくなので会っておこうかくらいに思ってだ。)
彼との会話の内容は今となってはなかなか詳細に思い出せないが、なんとなく印象に残ったのは、彼がワーキングホリデーに行って日本人同士でつるむことをし、ワーホリで一生の仲間を得たというような、よくあるワーホリ失敗例みたいな話をしていたことだ。
得られたものがないことを認めたくがないための回答、「得られたものは大事な仲間」。
それでちょっとガッカリしたのをうっすら覚えている。
そしてそんな彼が言うには、なぜそんな一生の仲間になれたかと言うと、海外に来た時点でもう行動力がある人間の集まりだったからだと言うのだ。
要は、行動力のある人間同士、似たもの同士の集まりで自ずと強い絆で結ばれた、みたいなことだろう。
まぁ似たもの同士の集まりで強く惹かれ合い仲良くなれたこと、それについてはそうなのだろうなと思う。
ただ、行動力のある人間の集まりって、そうか?
そんな疑問が生まれたのだ。
海外渡航は行動力の証明か?
僕が疑念に思ったのは、海外に来ている時点で行動力がある人間、というワードだ。
本当にそうか?
“海外に行っただけの”人間じゃないのか?
確かに海外に行く決断をして実際にそのアクションを起こしたこと、それは一つの行動と言えるだろうが、ただそれで終わっていないか?
「海外に行った“あと”に何をしたか?」
そこが大事なのではないだろうか。
そう思ってしまった。
目的を英語習得として、ワーホリに行って行動を起こす人は、まず日本人とつるむことはないだろう。
日本人コミュニティとは距離を起き、現地もしくは他国から来た人のコミュニティに入り、その土地に染まり、英語だけ話すように努め、ワーキングホリデーの決められた期間で英語習得を完了させる、そんな人だろう、と思う。
要はそんな日々の小さな行動(アクション)の積み重ねで、やりたいことを実現する人。
そのアクションを起こせる人。
実行に移せる人。
それが行動力のある人なのではないだろうかと思ったのだ。
行ってからの行動こそが大事なはず
つまり、行って終わりでは本当の意味で行動力があるとは言えない。
と僕は思う。
僕が運営する『柔術旅』というブログでは、柔術旅人インタビューという企画をやっている。
柔術と旅する人に焦点を当て取材し記事にする企画だ。
その企画初の取材対象となった坂野さんは同じく海外渡航経験者だが、
「単に行くだけじゃダメだと思っていて、行ってからどうするかだと思うんですよ。」
と記事の中で話した。
「だから、行くかどうか迷っているならもう行けと。
ただ行く(というアクションを起こした)だけではどうせ何も変わらないから、そこに時間をかけることが無駄。
行くか行かないかは(人生を変えるような)重要な問題じゃない、だから迷うならとりあえず行って、行ってからのことに時間をかけてがんばれ、って思う。」
そう言うのだ。
それはもっともだと思う。
僕が先に例に挙げた知人は、まさにこれができなかったダメな例だ。
海外に行って、それで終えてしまった人。
そう言えるだろう。
ちなみに彼は、帰国後人生で一番勉強したと言えるほどに勉強し、資格をとり、Web系の会社に勤めることになったという。
つまり帰国後の方ががんばったのだろう。
なぜその努力をカナダでしなかったのだと思ってしまったのは言うまでもない。
掲げていた夢をあきらめて、帰国後何も得ず帰ってきた焦りからかやっと行動的になれたのだろうと思う。
その行動力がカナダで発揮できていれば、また違った人生が彼にはあったのだろう。
まぁ本人がそれでいいならいいのだが。
行動力=やりたいことを実行する力
では、話を戻そう。
行動力とは何かと言えば、やりたいこと、やるべきことを実行する力だと思う。
「海外に行く」は行動の一つ。
しかしそのあと起こす行動(アクション)がなければ、一年間の海外生活も行動カウントは1のままだ。
それが2カ国、3カ国に行けば、行動カウントは2、3となる。
行った先々の国々でやりたいこと、やるべきことを実行できればそれもまた4、5とカウントする。
これを自分に置き換えると、海外行って(1)、柔術を再開して(1)、東京に出て(1)、ブログを始める(1)。
大きなアクションだけ数えると、3年ほどでやっとこさ4というところだ。
しかし、おそらく行動力がある人は、この3年で10も20も行動(アクション)を起こしているのだろう。
小さいものを含めればおそらくもっとだ。
それが僕が思う行動力がある人で、実行力のある人だ。
長距離移動やいつも日常的にやっているようなことをただやるだけでそれを行動にカウントして、俺は行動力があるんだなんて、うぬぼれる人にはなりたくない。
その勘違いでできた“行動している自分”がいる限り、自分はすでに行動しているという自己満足が生まれ本当の意味での行動を起こせなくなるのだろう。
そもそも行動力のある人は自分には行動力があるなどと一々考えず、息をするように行動する。
そんな人であると思う。
本来そんな姿勢であるべきなのだろう。
ということで特にオチはないが、行動力について考えてみた。
それでは。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?