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柴崎友香 『続きと始まり』 集英社

 今日1日の出来事は、そのほとんどが記憶から時間とともに薄れ通り過ぎていく。ましてや、今朝通勤途中ですれ違った車を運転していた女性が何を考えていたかなどは思いもよらない。そんな一人ひとりの生活に流れていく時間や、家族、職場など私たちの周りにいる人たちの物語である。

 2020年3月から2022年2月までの出来事で構成され、2011年の3.11震災の記憶や忍び寄るコロナ禍に翻弄されつつも日常生活をおくる3人を中心に描かれる。
 大阪に生まれ滋賀で暮らす2人の子育て中でパートタイマーの石原優子。東京の居酒屋で働く料理人小坂圭太郎は年上の妻と5歳の娘と暮らしている。そして3人目はフリーランス写真家で40代の柳本れい。

 それぞれに生活の糧として職場があり、家族や支えあう人たちがいる。3人を取り巻く生活の断面が時系列に描かれ、読み進めていくと、他者の生活を通して読者自身がその時々の実体験を想起し記憶に重層していく。別々の生活をおくりながらも、同時代、同時間を生きているので、ある瞬間にはすれ違ったり同じ場所で出逢ったりする可能性もある。いつのまにか作品の中の1ページに自分が加わるような感覚にもなり、読者も含め登場人物4人の現在進行形の小説とも読むことができる。緊急事態宣言、学校休校、行動制限や家庭内の感染症対策など記憶が生々しい。

「1人ではなく3人の視点の小説にしたのは、不完全な複数視点を重ねていくことで、今の複雑な社会を描きたいと思った」と芥川賞作家の柴崎友香さんが語っていた。(YoutubeポリタスTV対談無料配信より) 

 日々の生活を繰り返すことに焦点がしぼりこまれていく作品には自然に共感し安心できるのは時代の要請だろう。根拠のなかった終身雇用や個人と家族の拠り所などがつかみきれない時代だからこそ、周りの人たち一人ひとりに生活があるという視点、この視点の共有が職場や学校、地域や家庭にも求められている。

 世界規模で進行する状況下、変容への不安が蔓延している。だからこそ、この小説の静かな力が一人ひとりに薄明をともし続けている。静かに見つめる視点は周囲の状況を、社会を、世界を見わたすことができる。

 過去から現在へ、そして未来へ続く確かな歩みは山をも動かす力がある。新聞連載や単行本の文庫化、講演など時代をリードする作者の今後の作品にもぜひ注目していきたい。

(miya 2024.3.8)