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アン・ビーティ『この世界の女たち』河出書房新社


望遠鏡を覗くと遠くの世界を見渡すことができ鳥瞰することができる。反対に時間や空間を微小化し限りなく小さく焦点をあてた顕微鏡から見る世界もまた逆に小さければ小さいほど広大な世界を映す。顕微鏡の世界もまた一つの宇宙でもある。

アン・ビーティの描く 『この世界の女たち』は、日々の生活に流れる時間をそれぞれの登場人物の視点から同時進行に追体験することができる。読者自身のよりどころとする生き方と照合しつつ、脚下とは別の視点、人生の照顧を教えてくれる。

感謝祭の特別なディナーの準備をするデイル。夫ネルソンは養父ジェロームと年下の恋人ブレンダを空港に迎えに行く場面から表題作は幕を開ける。

養父ジェロームは大金持ちでネルソンが「五歳の時に現われて十六歳までそばにいた」「典型的な無関心な養父ではなく」「ぼく自身の人生を救ってくれた恩人」。ジェロームにとっては、「ネルソンの子育てに関われたのは、思いがけない贈りもの」と感じ、「ネルソンは知的好奇心があり、賢く、従順で、母よりも養父が好きな、忠実な子」であった。一方でジェロームの女性観は「本気で自分は女たちへの神からの贈り物」だと信じ込みモノサシをあてる人物でもある。

裕福に暮らしていけるのは夫ネルソンが養父に従順でいる役を演じていることで成り立っている面もある。女性とともに男性でさえ、それぞれの役割に与えられた行動や言動を支えているものがある。抑圧された役を演じなければ破綻してしまうものなのか。

ディナーの準備をするデイルにとっては、養父いわば義父にあたるジェロームのかなり年下の恋人ブレンダを義母や養母とは位置付けがたい。夫の実の母ディディに対してさえ、その存在が心の中にモヤモヤとしたしこりを残したままネルソンに寄り添って生きている。夫と養父、年下の恋人が三人そろってまもなく帰宅する。ディナーのテーブルには重層の思いの込められた、スキを与えない臨戦態勢がしかれている。

ディナーはディルらしい心づくしの準備で整えられる。食事の用意をするときには食べる人の満足が期待に込められており、食材や調味料、ワインの銘柄など選べば選ぶほど他者には相いれない、おもてなしの流儀が込められ積み重ねられ、緊張感をも醸し出す。食事と同様に、見た目の身づくろいではスウェットをやめてコーディロイにしたり、ブーツにもこだわって相手からどのように映るかを想定して自己演出を繰り返す。ワインラックの数多のワインもしかり。どのタイミングで、誰が喜ぶかも想定してとびきりの一本をとびきりの瞬間にと演出される。

自分のシナリオが上書きされればされるほど、現実の進行とのずれが生じて軋轢となり、その亀裂は頭ではわかってはいてもちょっとした表情や言葉の端々に滲みでてしまう。どうしても嫌味を吐露してしまう自分に対してさえも嫌悪してしまう負の連鎖が生じる。

空港からようやく帰ってきた3人の先頭をきって家に足を踏み入れたブレンダは、どうしても買いたかったリンゴをキッチンカウンターに何気なく置いてしまった。デイルのディナーの準備で用意周到に整理された神聖な場所。置かれたリンゴは、「ありがとう」ではなく「おいしそうね」と静かに迎えられた。この時のデイルの言葉に隠されたやるせなさや葛藤や、のみこんだ息をディルは誰かに理解してもらいたいとは思ったであろうか。行き場のない思いをブレンダは受け止めただろうか、夫のネルソンは妻の気持ちを察知し共有できただろうか、またジェロームは思い及ぶのだろうか。

ブレンダはブレンダで玉の輿にも映るジェロームに対して、「ときどき言葉の裏でなにかを言われているような気がする」と砂上の不安をぶつける。そういう考え方もある、という表面的な繕いの糸ではかがりきれないやるせなさが錯綜する。

ディナーの席は周到な机上のシナリオとは裏腹に、ジェロームの言葉にしてはいけない一言が導火線に火をつけ、会話の裏に潜む緊張と葛藤の渦の中にのみ込まれて水中に沈んでしまう。後戻りさえできない殺伐とした冷気が波紋に砕けて流れ去る。

一見平穏に見える一瞬のできごとも、5者いれば5の階乗分の組み合わせの温度差のある摩擦が絶えず生じながら時間が過ぎていく、裕福を取り繕い演じる家庭。言葉にはならない思いが行き場なく空中をさまよう。解決しない、またしたいとは思わない葛藤が渦巻いては消え、また渦巻いていく。「この世界の女たち」の時間が過去と未来をつないで通り過ぎていく。

(miya2024.3.8)