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Care欲求仮説

KAiGO PRiDE

職場の同僚に勧められて『国民の介護白書2022年度版』(日本医療企画)という雑誌を読んだ。

色々勉強になることがあったけど、一番目を引かれたのは最後の、インド人のマンジョット・ベディさん(一般社団法人KAiGO PRiDE代表理事)が寄稿した章だ。
マンジョットさんは元々CMなどを製作していたクリエイティヴ・ディレクターだが、友人が介護の仕事に携わったことから、介護という仕事の魅力を知った。一方で、社会的にはネガティヴなイメージが一般的で、そのギャップの大きさを何とかしたいと得意のブランディングスキルを駆使し、介護の魅力発信プロジェクト(KAiGO PRiDE)を始められた。

youtubeチャンネルも設けられているので興味があったら是非チェックしてほしい。


「ありがとうと言ってもらえる」ことについて

ところで前出のKAiGO PRiDEの動画で介護士さん達のインタヴューがある。その中で介護の仕事の魅力を「ありがとうと言ってもらえる」ことと言われている人がいた。
医療や介護を含めた福祉の業界では、この「ありがとうと言ってもらえる」ことを仕事の魅力ややりがいに挙げる人が多い印象がある。

けして批判ではないが、僕はこのことに少し疑問を感じている。
確かに「ありがとうと言ってもらえる」ことは事実だし、実際に言ってもらえたらとても嬉しい。それは他の業界に比べて医療・福祉業界の特長なのかもしれない。
しかし、では知的障害や精神疾患、認知症が重度で「ありがとう」を言えない人への支援はやりがいを感じないのか?
そうではないだろう。

もし本当に「ありがとうと言ってもらえる」ことだけをやりがいとしている医療・福祉従事者がいるとしたら、障害の程度が重度の人達への支援が出来ないことになる。

ただ、現実には「ありがとうと言ってもらえる」ことだけをやりがいに感じている人はいないと思っている。ベースとしてのやりがいは他にちゃんとあって、「ありがとう」と言ってもらえたら更に嬉しい、というメカニズムなんだろうと僕は分析している。

ではベースとしてのやりがいとは何なのか。

僕は、それは『欲求』なのではないか、という仮説を持つ。

そもそも人類には他者を支援したい、ケアしたい、という欲求があるのではないか。

ケアしたいという欲求

何故こんな仮説を持つに至ったかというと、自著である『フォロバ100%』を書いている途中で有名なマズローの欲求5段階説に触れることがあり、そのさなかに欲求についてぼんやり考える時間があったのだ。

そこで薄ぼんやりと思考を巡らせていたのは「欲求には能動的なものと受動的なものがある」ということ。言い換えれば「したい」と「されたい」があるということだ。
例えば前出の5段階説における第一段階目である「生理的欲求」はご飯が食べたいとか寝たいとかという生物としての生理的機能、いわば「生きたい」という欲求なので能動的だ。
次の「安全欲求」は、何かの外的な要因に「脅かされたくない」という欲求だと言えるので、これは否定形の受動的欲求だ。
第三段階の「社会的欲求」は何らかの社会集団に所属したいという欲求なので能動的。
第四段階の「承認欲求」は他人から認められたいという欲求なので受動的。
最後の「自己実現欲求」は言うまでもなく能動的、といった具合だ。

ここから考えると「ありがとうと言ってもらえる」ことにやりがいを感じるというのは、換言すれば「ありがとうと言ってもらいたい」という受動的欲求と言える。
これはこれで了解可能であるが、それだけではなく反対の能動的欲求もあるのではないか?と仮定したとき、それは何なのかと考えると、

そもそも人って、他人のお世話(ケア)をしたいんじゃないのか?

というストレートな仮説が生まれたのである。
この「お世話をしたい」は感謝されようがされまいが関係なく持っている能動的欲求だ。

この仮説について懐疑的な人はたくさんいるだろう。それはそれで構わない。僕自身も確信しているわけではない。あくまで仮説だ。

愛だろ、愛。

だが一応、この仮説に至った論拠もある。

「お世話をしたい」という欲求をもっと根源的なものまで突き詰めてみたら何になるだろうか?

それは「」と呼ばれるものではないだろうか。

例えば「人は『誰かに愛されたい』という欲求を持っている」と言ったら、それに懐疑的になる人はいるだろうか?恐らくあまりいないのではないかと思う。

人は誰かに愛されたい。
一方で、恋人に会いたくなったり、子どもを抱きしめたくなったりする欲求を感じた人も多いのではないか?
それは「誰かを愛したい」という欲求ではないか。
つまり、人は誰かに愛されたいだけではなく、「誰かを愛したい」という欲求を根源的に持っていると僕は考える。

この「愛されたい」「愛したい」という欲求は5段階説と照らし合わせて述べると、「安全欲求」と同じ程度の水準の根源的な欲求ではないかという感覚だ。何故ならそれより高次の「社会的欲求」や「承認欲求」はより社会性と複雑性の強いものだからだ。

この「愛」の欲求が社会の多様性と交わったとき、様々な形に変わっていく。
例えば恋愛というカテゴリーと交わったとき「恋したい」に変わり、子どもというカテゴリーと交わったとき「愛でたい」「育みたい」「守りたい」等に変わる。
そして高齢者や介護といったカテゴリーと交わったとき、「愛したい」は「介護(ケア)したい」に変わる。

だから介護の仕事に携わる人は - 「ありがとうを言ってもらえる」かどうかに関わりなく - 介護がしたいからしている。
やりがいは介護そのものだ。

健康心理学者のケリー・マクゴニガルさんは著書『スタンフォードのストレスを力に変える教科書』(大和書房)の中で、刑務所内で介護奉仕作業に就いている入所者のエピソードを紹介している。
介護奉仕作業は報酬はほとんどなく有利な待遇を受けることもない。しかし、無記名のアンケートでこんな回答があったとのこと。

「自分にとって大事なのは、みんなに褒められたいとか、認められたいとか、余計なことを考えずに自分の時間を捧げること。みんなに愛情を持って接するのはそれが正しいことだと思うから。」

また、「刑務所のホスピスと皆さんの奉仕活動について、世間の人々に一番知ってもらいたいこと、理解してほしいことは何ですか?」という質問に対して、最も多かった回答は「奉仕活動に参加しているのは、心からそうしたいと思っているからだということを、世間の人々に知ってほしい」だったとのことだ。

どうだろう?あながち、僕の仮説は間違っていないような気がしないだろうか。


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